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8-6.Viande 鹿ロースのロティ 低温のコンフィ仕立て

 俺は両腕の袖をグッとまくり上げた。


 皮を剥いた独活うどのように、白く細く、しなやかな腕があらわになる。


 俺はその腕で気合いを入れ直すようにエプロンの紐をキツく結び、買ってきた食材たちへと鋭い視線を向けた。


 ここは、王都にあるヴァン=ルージュ辺境伯邸の厨房。


 俺とマルグリットの二人だけで厨房に立っていた。マルグリットも、調理の補助をしてくれるという。


 パルマンティエ商会からの買い出しを終え、この屋敷に帰ってきてからすでに二時間ほどが経っていた。


 その間、俺は何をしていたかというと、ただひたすらに『油の温度』と戦っていた。


 この世界に、現代のような精巧な温度計はまだない。細かい温度が数値でわからないため、スプーンの背につけた油をそっと下唇に当てて熱を測り、前世で身体に染み付いた記憶と擦り合わせていくという地道な作業を繰り返していたのだ。


 そしてコンロの火加減を細かく調整し、ようやく一定の温度を完璧に保つコツが掴めてきたところだった。


 今からやるのは『低温調理』だ。


 肉を構成するタンパク質のうち、「ミオシン」は摂氏五十度付近から変性し始め、肉に心地よい弾力をもたらす。しかし、もう一つの「アクチン」というタンパク質は摂氏六十六度を超えると変性し、肉から一気に水分を奪って、色を変え、硬くパサパサにしてしまう。最後に非常に硬い「コラーゲン」が柔らかくなるゼラチン化は摂氏五十六度から始まるが、この温度だと非常に遅い。摂氏七十度だと早く進むがこの温度だとアクチンが変性してしまう。ただしコラーゲンは煮込み用に使われるスネ肉などに多いため、ロース肉ではさほど考えなくて良いだろう。


 つまり、最上の肉料理における低温調理とは、この『五十度から六十五度の間の温度帯』をいかにキープして火を通すかという、緻密な科学(サイエンス)なのだ。


 前世なら真空調理器で簡単なのだが、当然そんな便利なものはない。だからここでは、フランス料理の伝統技法『コンフィ』の要領で作っていく。


 コンフィとは元来、肉に塩とハーブをまぶし、たっぷりの油脂の中で低温加熱した後、そのまま油ごと冷やして凝固させ、空気を遮断する保存食の技法だ。冷蔵庫のない時代の先人の知恵であり、俺も鴨のコンフィは大好物だ。


 だが、今回の目的は保存ではなく、あくまで火入れのためである。鹿の風味を活かすため、油も重い動物性のものではなく、軽やかな菜種油を使う。


 塩胡椒とすりおろしたニンニクを丁寧にすり込んでおいた鹿のロース肉を、温めた油の鍋へと静かに入れる。


 狙う温度帯は摂氏六十一〜六十三度。


 肉が最も柔らかくなるのはもう少し低い五十五度から五十八度と言われているが、鹿肉を含め、ジビエ(野生鳥獣)の肉にはE型肝炎ウイルスなどが潜んでいる可能性があり、六十度以上の火入れが推奨される。この世界のウイルスや細菌事情は正確にはわからないが、用心するに越したことはない。


 油の揺らぎを見極め、温度を一定に保持すること数時間。


 芯まで十分に、かつ穏やかに熱が通ったはずだ。


 油から取り出した鹿肉の表面の水分を拭き取り、今度は熱々に熱したフライパンへと投入する。


 ――ジューーーーッ!!


 激しい音と共に、香ばしい煙が立ち上る。

 中まで火を通すのが目的ではない。表面にだけ一気に焦げ目をつけるのだ。この焦げ目こそが、肉の旨味を爆発させる『魔法《メイラード反応》』なのだ。


 まな板に肉を移し、少し休ませて肉汁を落ち着かせてから、薄くスライスしていく。


「まぁ……っ!」


 隣で見ていたマルグリットが、感嘆の吐息を漏らした。


 切った断面は、まさに明るく輝く赤。生焼けの血の赤ではなく、火が通ってなお、肉が水分を湛えて光を受けている薔薇色(ロゼ)だった。


 マルグリットが温めておいてくれた純白の皿に、フォン・ド・ヴォーと赤ワインを煮詰めた赤ワインソースソース・ヴァン・ルージュを美しく敷き、色鮮やかな付け合わせの野菜と、艶やかな鹿肉を盛り付ければ『鹿ロースのロティ(ロースト)』の完成だ。


「出来たわ……さぁ! みんなで食べましょう!」







 屋敷の食堂。


 俺は大きなテーブルに、使用人や護衛の騎士たちを全員座らせた。セリーヌと同じテーブルに座ることに戸惑いを覚えている者もいた。ヴァロワ伯爵領での遠征に同行しておらず、俺と食卓を囲むのが初めての使用人たちだ。


「これは食事ではなく、本番に向けた『試食会(しごと)』です。食べて、忌憚のない意見を教えてください」と真剣な顔で説得すると、恐る恐る従ってくれた。


 全員の前に、ほんわりと湯気を立てる鹿肉のロティが置かれた。


 俺もナイフを手に取り、肉へと刃を沈める。


(……よし。スッと切れる)


 切り分けた一口にソースをたっぷりと絡め、フォークで口へと運ぶ。


「――っ」


 噛み締めた瞬間、鹿肉の野性味溢れる濃厚な旨みが、口の中いっぱいに弾けた。


 血生臭さや獣臭さは全くない。ただただ、牛肉よりも遥かに濃く、深い肉の味が舌の上に力強く留まる。そして、パサつきやすいはずの赤身肉が、低温でじっくりと加熱されたことで、驚くほどしっとりと、舌の上でほどけるように柔らかい。


 そこに、赤ワインソースの芳醇な酸味とコクが合わさり、完璧なマリアージュを生み出していた。


(……くそっ! 今すぐ重めの赤ワイン(ボルドー)が飲みたいぜ!!)


 俺は内心で、おっさん丸出しの魂の叫びを上げていた。


 ふと周囲を見渡すと、試食を始めた使用人たちや騎士たちが、一様に目を丸くして動きを止めていた。


「や、柔らかい……! なんですかこれ、溶けます……!」

「鹿肉が、こんなに美味しいなんて……!」

「このソースの香りがまた……お肉の味ととても合います!」


 身分の壁も忘れ、口々に歓声が上がる。

 あらかじめ「率直な意見を」とは言っておいたが、相手は主人。お世辞を言う可能性もゼロではないと思っていた。

 だが、ナイフを動かす手は止まらず、皆の顔はだらしないほどに綻び、瞳は驚きと喜びにキラキラと輝いている。

 その中で、アルフォンスだけは黙々と食べていた。いつもの寡黙な表情を崩さないのが残念だと思っていたが、よく見れば目尻がわずかに下がっている。それに反比例して、俺の口角は上がった。


「お嬢様! 絶対にお嬢様の勝ちです!」


 マルグリットが泣きそうな顔になっていた。ソフィーの胃袋を掴むつもりが、どうやらマルグリットの胃袋も完全に掴んでしまったらしいな。


 そうして、次の日からも俺は更なる低温調理の安定法の研究と、鹿肉に合うソース作りに明け暮れた。







 何日目かの夜。


 俺は屋敷の庭に出て、夜空に浮かぶ冷たい月を見上げていた。ずっと厨房に詰めて立ちっぱなしだったから、全身の関節が痛い。俺は「うーん」と大きく背伸びをした。


(こんなに厨房にこもりきりだったのは、前世で倒れる間際以来かな……)


 ふと、記憶が蘇る。俺が厨房で倒れてから、あの職場はどうなったのだろうか。忙しいピークの最中だった。客や仲間たちに、どれだけ迷惑をかけてしまっただろうか……。


 それと、ソフィー。思えば、俺がこの世界に来たあの断罪パーティーの日から、こんなに離れているのは初めてだ。


(ちゃんと美味しいもの食べてるかな……?)


 ソフィーが美味しそうに食べる姿を見るとなんだか嬉しくなって心が温かくなる。そう、高校の頃に出会ったあの子のように——。


 はぁ、と。冷たい夜気に白く濁る息を吐いた、その時だった。


「セリーヌ様?」


「ひゃっ!」


 背後から不意に声をかけられ、俺はビクッと肩を跳ねさせた。しかし、その声が聞き覚えのある、落ち着いた低い声であることに気づき、ホッと胸を撫で下ろした。


「……アルフォンス。びっくりしましたわ」


「お邪魔をいたしました。申し訳ございません」


「冗談ですわ。……アルフォンスも、お月見ですか?」


「ええ。とても綺麗な月が出ておりましたので」


 そのセリフを聞いて、俺は前世の知識を思い出し、ついクスッと笑ってしまった。


「『月が綺麗ですね』……それを、愛の告白とする国もあるそうですよ」


「ほう。それはそれは畏れ多いことです。寡聞にして、そのような風習は聞いたことがございませんが――」


(やばい、迂闊なことを口走ったな。その国はこの世界のどこにもない)


「……セリーヌ様。貴女様は一体、誰方(どなた)なのですか?」


 ――ゴクリ、と。

 俺は生唾を飲み込み、アルフォンスを振り返った。


 月明かりに照らされたアルフォンスの静かな瞳が、俺の奥底にある『三十八歳の男の魂』までも見透かしているように思えた。


「わ、私は――」


 俺は拳を握り、ドレスの胸元に手を当てる。動悸が激しくなり、それ以上の言葉が喉に詰まって出てこない。今の俺はセリーヌだ。だが、セリーヌではない。この忠義の執事に、俺はなんて言い訳をすれば――。


「――そう、思ったのですが」


 アルフォンスは俺から視線を外し、再び夜空の月を見上げた。


「セリーヌ様は、やはりセリーヌ様でした。幼い頃、私が手作りの木製パズルを差し上げた時、セリーヌ様は寝る間も惜しんで、たった一人でずっとそのパズルに没頭していらした。……厨房で調理に打ち込む今のセリーヌ様と、そっくりです」


 その言葉に、張り詰めていた心が、じんわりと解けていくのを感じた。


「セリーヌ様のお料理。心がこもった、本当に素晴らしい一皿でした。マルグリットがすっかり虜になったのも頷けます」


 そして、アルフォンスはまた俺に顔を向ける。その瞳は、長年見守ってきた愛娘を見るような、とても優しい瞳だった。


「いつか、お料理が上手になられたその『秘訣』を教えていただければ幸いです。……今はただ、勝負に勝ちましょう。このアルフォンス、セリーヌ様のお力になれるよう、全力を尽くして参ります」


「ええ……! 頼りにしていますわ。本当に……!」


 俺は、心の底からの感謝を込めて頷いた。







 勝負の前日の朝。


 パルマンティエ商会から、本番用の食材が届く日だ。状態をしっかり確認しなければならない。俺は来るのを今か今かと待っていた。


 だが――。

 約束の時間が過ぎても、食材の到着を知らせる(ベル)は、鳴らなかった。

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