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8-5.Viande 鹿ロースのロティ 低温のコンフィ仕立て

 商会の重厚な扉を開けると、大理石の廊下にふかふかの赤い絨毯が敷かれていた。


 そこを進むと、身なりの良い店の男から声をかけられた。正装をして、きちんとした礼儀作法を身につけた隙のない青年だった。


「パルマンティエ商会へようこそおいでくださいました。失礼ながら初見の方とお見受けいたします。どなたかからの紹介状をお持ちでしょうか?」


「ええ。ジャン・ド・ポムドテール男爵からの紹介状を持っております」


「ありがとうございます。それでは奥へお入りください」




 通された先の応接室では、支配人を名乗る初老の男が待っていた。


「お客様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


「セリーヌ・ド・ヴァン=ルージュと申します」


「おお、貴女様が名高き辺境伯家の……お会いできて光栄の極みに存じます」


 俺が男爵の紹介状を渡すと、支配人は名と封印を確認し、封も開けずにうやうやしく懐へとしまった。中を見ずとも男爵の名前だけで十分らしい。


「本日は、何をお探しでいらっしゃいますか?」


「肉と、野菜を見せていただけるかしら?」


「かしこまりました。ではまず、肉の保管庫へご案内いたしましょう」


 支配人に連れられて地下の奥へと進み、分厚い木の扉が開かれた瞬間――寒いくらいに肌を刺す、真冬のような冷たい空気が肌を撫でた。


「ここは……」


「当商会が誇る、特製の貯蔵庫でございます。冬の冷たい外気を取り入れ、さらに氷の魔石にて一定の低温を保っております。こちらには、特別なお客様にのみ卸している『選りすぐりの品』をご用意しております」


 支配人が誇らしげに語る通り、そこは市場の喧騒とは全くの別世界だった。


 温度と湿度が完璧に管理された室内。ガラスで区切られたショーケースに整然と吊るし並べられていたのは、この国の豊かな森が育んだ、最高級の野生鳥獣肉(ジビエ)の数々だった。そう、これこそが俺が狙っていた冬の名物だ。


「ひゃあぁ……っ!」


 俺の口から、貴族の令嬢らしからぬ変な声が漏れた。


 だが、興奮を抑えきれない。目の前に広がる光景は、料理人にとって宝の山そのものだ。


 木の実(どんぐり)をたっぷり食べて育ったであろう、雪のように真っ白な脂を蓄えた猪肉。丁寧に毛皮を剥がれ、透き通るような美しいピンク色の肉質をした野兎。


 どれも血抜きが完璧に施されている。その上、見事に熟成エイジングされており、見ただけで旨味が凝縮された最高級の逸品なのがわかる。


「す、素晴らしいですわ……! 完璧な処理、完璧な保管状態……っ!」


 俺はドレスの裾を握りしめたまま、ショーケースに顔がくっつきそうな勢いで肉を凝視した。


「お、お嬢様? そんなに顔を近づけられては……」

「セリーヌ様、お顔がとても恐ろしいことになっております」


 後ろでマルグリットとアルフォンスが若干引いている気配がする。しかし、俺の中のシェフとしての魂は完全に釘付けになっており、他人の目など気にする余裕はなかった。


(たまらん……っ! この猪の表面を焼き固めて、オーブンで蒸しながら煮込んでいくブレゼにしてもいいな。野兎は丸のままハーブに漬け込んで、その中に内臓やフォアグラのペーストを詰めて焼いた『野兎の王様風リエーブル・ア・ラ・ロワイヤル』なんて最高じゃないか?)


 頭の中に次々と溢れ出るレシピ。だが、勝負の一品は『ソフィーの胃袋に見合うもの』でなくてはいけない。


 猪は脂がきつすぎるし、兎は少し癖が強い。ソフィーには、そぐわない料理かもしれない。


(それなら、この二つか……)


 俺の視線は、並んで吊るされている二つの肉に絞られた。


 一つは、ふくよかな胸肉に分厚い脂を纏った、見事な野鴨(コルヴェール)


 もう一つは、深いルビーのような美しい色合いをした、鹿肉(ヴェネゾン)だ。


(……鴨か、鹿か)


 俺は腕を組む。

 鴨は脂の旨味が強く、皮目をパリッと焼き上げて甘酸っぱいフルーツのソースを添えれば、間違いなく王道の美味しさになる。ピリッとするグリーンペッパーのソースでもいい。


 だが、王道すぎるかもしれない。


(もしかすると、王子側の料理人も鴨を出してくるかもしれない)


 ならば、鹿はどうか。


 目の前にある鹿肉は、赤身の美しさが際立っている。鹿肉は鉄分が豊富で旨味が強い反面、脂が少ないため、火の入れ方を少しでも間違えれば途端にパサパサになり、硬くなってしまう。非常に扱いが難しい食材と言える。


 人を断罪してくるような王子の代理人が、あえてこのリスクの高い鹿を選ぶ可能性は低いだろう。


(失敗したら何を言われるかわからないだろうからな。俺も見習い時代の総料理長の顔が浮かぶぜ……)


 ただ、この世界の料理のレベルは決して低くない。庶民の食材を見下したりと、食材への偏見が多少あるが、それは日本でも大なり小なり存在していた。ましてや相手はこの国の最高峰の料理人だ。才能やこれまでの研鑽だけで言えば、一介のシェフだった俺が、おいそれと立ち向かえる相手ではないかもしれない。


 だが、俺には現代の調理法(チート)がある。そして何より、ソフィーの未来がかかっているんだ。プロの意地にかけても、絶対に負けるわけにはいかない。


「決めましたわ」


 俺は振り返り、支配人を真っ直ぐに見据えた。


「こちらの、鹿のロース肉をいただきます。……それも、一番状態の良いものを、ブロックで」


「鹿、でございますか?」


 支配人が少し意外そうな顔をした。この商会の顧客には、脂の乗った肉の方が好まれることが多いのだろう。


「ええ。今日は試作用に、とりあえずこの大きさのものを。後日、もう一度いただきたいのですけれど」


「かしこまりました。新鮮な食材を、前日の朝にお届けいたします」


 意図を汲むのが早くて助かる。さすがは一流の商会だ。


「ええ、それでお願いいたしますわ」


 その後、付け合わせにするための根菜や香草などの、これまた高品質な野菜もいくつか見繕い、俺は支配人と契約書を交わした。


 契約書の内容は、代金の支払期日や、商会に著しい不利益をもたらす行為の禁止などが盛り込まれたもので、前世の業者との取引でもよく見た、至極一般的なものだった。


 辺境伯令嬢として流麗なサインを書き入れる俺のペンは、驚くほど軽やかに紙の上を滑った。


 そうして、俺は焼き立てのスポンジケーキに軽やかな生クリームをホイップしていくような、ふんわりと弾むような気持ちで商会を後にし、辺境伯邸への帰路についた。


 ――後ろを歩くアルフォンスやマルグリット、そして屈強な護衛の騎士までもが、両手いっぱいに大量の試作用食材を抱え込み、フラフラと歩いていることには、あえて目を背けながら。

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