8-4.Viande 鹿ロースのロティ 低温のコンフィ仕立て
「これから、どうすれば……」
俺は王宮の控室の椅子に座り、艶やかな紅い髪を掻き毟りながら深く頭を抱えていた。
傍らに控えているのは、執事のアルフォンスと護衛の騎士が一人だけ。
ソフィーはすでに別室へと案内され、今日から一週間、料理勝負の日までこの王城で隔離生活を送ることになった。幸いにも、ソフィーの父であるヴァロワ伯爵も同室の許可が下りたのはせめてもの救いだった。領地で待つ夫人たちが、伯爵が戻らないことを不安に思わないよう、すでに早馬を手配してある。
そして、親父さんはというと……。
さんざん勝負を煽り散らしたくせに、嵐のように去っていったのだ。
『勝負を見届けたいのはやまやまなのだが、これ以上、領地を空けるわけにはいかぬのでな。アルフォンス! 事の顛末は都度、詳細な報告書を送るように! いつものように、お主の豊かな情景描写と巧みなる筆致を楽しみにしておるぞ!』
『はっ、御意に。お任せくださいませ』
アルフォンスは右手を胸に当てて、優雅に深々と一礼していた。
(……情景描写? 筆致?)
報告書というよりまるで小説に対する評価じゃないか。
もしかしてアルフォンス、お前が親父さんに送っている定期報告書って、セリーヌを主人公にしたヒロイック・ファンタジー小説か何かになってるのか!? 俺が料理をしてるという報告は入れ違いになったせいかまだ伝わっていなかったようだが……。
今後の俺の言動が、どんな仰々しい文体で親父さんに伝わるかと思うと、別の意味で胃が痛い。
『ではセリーヌ。別れの前に、最後に……』
そう言って、親父さんは満面の笑みで丸太のような両腕を広げ、俺ににじり寄ってきた。そして——
『ぎゃあああああああああっ!』
むさ苦しい大男の全力ハグと、容赦ない髭のジョリジョリ攻撃に、俺とセリーヌの意識が一つになったような断末魔が王宮の控室に響き渡ったのだった。
――そして今、赤くなった頬がまだ地味にヒリヒリしている。
「さて、まずは辺境伯邸に戻りましょうか。何はともあれ、勝負のための食材を探さねばなりません。アルフォンス、王都で良い食材を扱っている店を知っていて?」
俺が気を取り直して問いかけると、アルフォンスは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「申し訳ありませんが、私は存じません……それに王都の当家の屋敷に出入りする商店は、基本的に留守を預かる使用人向けの食材を扱う者たちにございます。勝負に使えるような高級食材や特級品を、すぐに揃えるのは難しいかと」
「そうですか……」
俺は小さく息を吐いた。
確かに、王都の辺境伯邸はあくまで情報収集拠点や仮住まいのようなものだ。親父さんが王都に来た時も、基本的には王城に泊まり、食事も王城で済ませる。そう考えれば、出入りの商人が日常使いの品を中心に扱っているのも当然だ。
(向こうは王宮の料理人。国中から集められた最高級の食材が選び放題だろうな……)
「とにかく、王都で食材を扱う商店を見て回りましょう。百聞は一見に如かず、ですわ」
はぁ、ともう一度一息吐いて、俺は立ち上がった。その時——
コンコンコンコン……
突然のノックに、俺とアルフォンスが顔を見合わせる。騎士にサッと緊張が走った。
「どなたですか?」
「私はジャン・ド・ポムドテールと申します」
その名を聞いたアルフォンスが、そっと俺に耳打ちしてくる。
「ポムドテール男爵家のご当主です。宮廷貴族で、辺境伯家に近い者ではありませんが、第三王子の派閥でもないはずです」
俺は小さく頷いた。
「お入りください」
アルフォンスが扉を開け、騎士がわずかに俺を庇うように前へ出る。
現れたのは、人の良さそうな、五十代くらいの白髪が混じった小太りの男だった。
「お初にお目にかかります。私はジャン・ド・ポムドテール男爵と申します」
俺はドレスの裾をつまみ、丁寧に一礼した。
「ご丁寧な挨拶、痛み入ります。男爵閣下。私はセリーヌ・ド・ヴァン=ルージュと申します。ところで、何かご用でも……父はすでに王城を発ってしまいましたが……」
「いえいえ、お話があるのは辺境伯閣下ではなく、セリーヌ様にございます」
「私に……? どのようなご用件でしょう」
(めんどくさい案件じゃなければいいけどな)
「実は……ルイ=オーギュスト殿下との『料理勝負』の件を耳にしまして……」
「えっ! どなたから!?」
(まさか、あのバカ王子、もう吹聴して回ってるのか!?)
「アンリ=シャルル殿下からでございます。何やら大変楽しげなお顔をされておりましたので、私めがお声をかけましたところ、教えてくださいまして」
「そ、そうなのですか……」
(あの第二王子、絶対面白がって広めてるだろ……!)
「実は私、美食家として少々名を通しておりましてな。もし勝負に使う食材をお探しでしたら、良い商会をご紹介できますぞ――」
◇
一度屋敷へ戻り、留守番をしていたマルグリットも連れて向かったのは、王国でも有数の規模を誇る中央市場だった。
石畳の広場には所狭しと露店や商店が立ち並び、威勢の良い呼び込みの声と、様々な香辛料や食材の匂いが入り混じっている。人々の熱気と活気は予想以上だった。
その中を歩く俺の足取りは、料理人にとって最高のイベント――買い出しを前にして、極薄の衣で揚げたフリットのように軽かった。
「セリーヌ様、あちらの肉屋に立派な肉が吊るされておりますよ!」
マルグリットが弾んだ声で指さす。
その先には、大きな牛の塊肉が堂々とぶら下がっていた。
「本当に見事ね。ただ――」
(脂の入り方はいまひとつだし、さすがに現代日本の徹底管理された畜産牛とは比べものにならない。それに……)
この世界ではまだ適切な温度と湿度で寝かせる『熟成』の技術も未熟だ。火の魔石を燃料にしたコンロなら下級貴族の家にもあるが、氷の魔石はひどく高価だ。この世界で冷蔵設備はまだまだ希少品であり、ムルソーの辺境伯家にあるものも小型の一台だけ。ただしこの国の地下の食材庫は温度も湿度も一定で、日本の常温よりは遥かに食材の保存に向いているのだが。
「もっと、いい食材が欲しいわね……」
そう。肉料理で勝負するなら、畜産よりもむしろ、冬の《《あれ》》が狙いだ。
野菜の市場も同様だった。
王都の台所を支えるだけあって種類も量も豊富だが、どれも『良い野菜』の域を出ない。形は整っていても、ヴァロワ家の菜園でミュジニが我が子のように育てた、あの生命力あふれる野菜には及ばない。
本当に上等な品は、市場に並ぶ前に王宮や大貴族の屋敷へ直接卸されてしまうのだろう。ここに出ているのは、あくまで市井向けの品だ。
妥協した食材で勝てるほど、相手は甘くない。向こうは最高の素材を、最高の状態で揃えてくるはずだ。
賑わう市場のただ中で、俺はぎゅっと唇を噛み締めた。
「お嬢様は、本当に食材にお詳しいのですね。それに……マルグリットから伺いましたが、その卓越した料理の腕前は、一体どうやって身につけられたのですか?」
アルフォンスが、鋭く、そして不思議そうな視線を向けてくる。
「ほ、本で! 本を読んで覚えたのですわ!」
「本で、ですか……?」
アルフォンスの目が、明らかに疑わしげに細められる。
(くっ、さすがに言い訳が苦しいか……! この先もボロが出そうだ……どうすれば……)
冷や汗をかきながら市場を通り抜けた先に、目当ての商会が現れた。
——パルマンティエ商会。
建物は三階建てで、白い石造りの外壁が日に照らされて輝いていた。商会の紋章が描かれた旗が、風を受けて揺れる。
俺はポムドテール男爵からの紹介状を握りしめ、ごまかすように早足で商会の扉へと足を進めたのだった。




