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8-1.Viande 鹿ロースのロティ 低温のコンフィ仕立て

 馬車の窓の向こうで、王都の賑やかな喧騒が流れていく。


 商人たちの活気ある声、行き交う人々の熱気。それらに石畳をリズミカルに叩く馬の蹄の音が混じり合う。


 王城の城下町は、国の中枢として活気に満ち溢れていた。


 俺とソフィーの乗る馬車の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 俺の隣に座るソフィーは、膝の上で両手を白くなるほど固く握りしめ、小刻みに震えている。


 視線は伏せられ、その横顔は蒼白で、緊張していることが一目で分かった。


 無理もない。突然『国王陛下』から直接召喚されたのだ。しかも要件は、王子とセリーヌの婚約破棄騒動。


(俺だって、まだ経験も浅かった頃、いきなり総料理長に「VIPに出す一皿を作れ」と言われた時は、包丁を握る手が震えたものだ)


 俺は、白く強張ったソフィーの小さな両手の上に、自分の手をそっと重ねた。


「……セリーヌ様……」


 少し冷たくなった彼女の手に、俺の体温を分けるように優しく包み込む。

 ビクッと肩を揺らしたソフィーが、驚いたように顔を上げた。


「大丈夫ですわ、ソフィー様」


 俺は、黄金色のコンソメのように、澄み切った声をかけた。


「国王陛下であろうと、何も恐れることはありません。貴女は何も間違ったことはしていないのですから」


「セリーヌ、様……でも、私なんかが……」


「大丈夫です。自分の意思をはっきりと示しましょう。それに……何があろうと、私が必ず貴女をお守りしますから」


 真っ直ぐに目を見て告げると、ソフィーの揺れていた瞳から、不安が消えていくのがわかった。


 重ねた手から伝わる震えが、少しずつ、確かな温もりへと変わっていく。


 やがてソフィーはふわりと、まるで湯を注がれた花茶が開くように、柔らかく微笑んだ。


「……はいっ。セリーヌ様!」


 その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥で「ドクン」と心臓が大きく鳴った。


(……いかんいかん。またおっさんの動悸が)


 俺は必死に平常心を装いながら、外に目を向けた。視界に映ったのは馬車が向かっている場所。王都の中心に聳え立つ白亜の王城だった。




 ◇




 俺たちを乗せた馬車の一行は、昨日の午後に王都へ到着した。そのまま王都にあるヴァン=ルージュ辺境伯邸で一泊し、翌日の朝、慌ただしく登城することになったのだ。


 セリーヌの親父さんである辺境伯は、昨日から王城に泊まり込んでいるらしく、まだ顔を合わせていない。


 そして今、俺たちの目の前には、重厚なオーク材の扉がある。


 俺は深呼吸をし、隣のソフィーと静かに頷き合った。


 ゆっくりと扉が開かれ、俺とソフィーは静寂に包まれた『謁見の間』へと足を踏み入れた。


 広間の最奥、深紅の絨毯の先に鎮座する玉座。豊かな髭を蓄え、柔和な面差しの奥に君主としての厳しい視線を宿した中年の男――国王が座していた。


 傍らには王妃。その隣には第三王子、ルイ=オーギュストの姿がある。王太子たる第一王子は不在のようだが、第二王子の姿も確認できた。


 そして、彼らと対峙するように立つ、セリーヌと同じ深い赤髪を持ち、軍服と言っても間違いではない仕立ての服に身を包んだ筋骨逞しい大男。ヴァン=ルージュ辺境伯が静かに立っていた。その横には、ひどく恐縮した様子のヴァロワ伯爵の姿もある。


 俺はソフィーと共に、深く頭を下げた。


「久しいな、セリーヌ嬢。面をあげよ」


 国王の低く、しかしよく通る声が、広間に重々しく響き渡る。


「はい、六年ぶりでございます。陛下」


 俺は静かに顔を上げて答える。


「ふむ、あれは其方とルイが十歳の頃、婚約式の場であったな」


「はい……」


 俺が静かに肯定すると、国王は玉座の肘掛けに肘をつき、ひどく重い、そして疲労感の滲む大きなため息をついた。


 そして、傍らに立つ第三王子へ、スッと視線を向ける。


「卒業後の結婚式を、余はことのほか楽しみにしておったのだがな」


「……ご期待に沿えず、申し訳ございません」


「そうです、父上! 悪いのはすべてセリーヌなのです! この女はソフィーに嫉妬し、陰湿な嫌がらせを――」


「お主は黙っておれ」


 第三王子の言葉を国王の低く冷ややかな一喝がピシャリと遮った。


 国王は顎の豊かな髭を軽く撫でながら、自分の息子を冷ややかに一瞥している。


 それは火加減を間違え、目を離した隙にソースを焦がして煮詰めすぎた不出来な弟子を見る、厨房の総料理長(マスターシェフ)の目のようだった。


(……そりゃあ、そうなるわな)


 俺は内心で一人納得した。王族の結婚は『政治』だ。


 第一王子と第二王子には、共に近隣の国の姫が嫁いでおり、すでに外を固めている。ならば、第三王子の婚姻には、王国の西の要である強大な辺境伯家と王家を結び、国内の安定を図るという重要な『内固め』の役割があったはずだ。国の未来を見据えた、完璧なフルコースの構成。


 それなのに『真実の愛』という得体の知れないスパイスでコース料理を根底からぶち壊したのだ。国王(マスターシェフ)が頭を抱えるのも当然である。


「此度の件に際し、二、三聞きたいことがあってな。……ソフィー嬢、であったな」


 国王の鋭い瞳が、ギラリと、頭を下げたソフィーを真っ直ぐに見据えた。


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