四回表 御心
野球漬けの毎日だったが、隔週に一度、緑茂高では野球以外に大事な行事があった。
それが『球恨の儀』である。
毎日グラウンドで過ごしていたが、この時だけは山を降り、塀の向こうに出られる。
毎月第二・第四金曜日。
学校の外、麓からバスに乗り、ガタガタと揺れるあぜ道を進むこと約30分。緑茂町の郊外にある古めかしい寂れた神社に、颯汰たち総勢245名が集められた。境内はそこそこの広さを誇ったが、それでも全員が揃うと(バスは50人乗りで、5往復しなければならなかった)、満員電車の中のように狭く感じられた。
緑茂神社の敷地内には、しめ縄を巻かれた、巨大なクスノキが聳え立っていた。樹齢何千年かはあろうかという御神木を囲むようにして、部員たちが地べたに直接正座する。ユニフォーム越しに砂利や尖った石が皮膚に食い込むのを感じて、颯汰は思わず歯を食いしばった。
周囲は薄暗かった。西の空の下の方に、滲んだ橙色がぼんやりと残るのみで、すでに満天にはめいめいの星が輝いていた。時々吹く五月のそよ風が、木々を揺らし、心地良く頬を撫でて行く。その間、部員たちは全員一言も喋らず、静かにその時を待っていた。
静寂に包まれた境内の中。やがて何処からともなく、和太鼓やら三味線やら尺八やら、何となく眠たくなるような音楽が聞こえてくる。音楽とともに、神社の中から、鬼のお面を被った踊り子が現れた。
オヤタマサマだ。
オヤタマサマは、何とも言えない動きをしながら御神木の前にやってきて、そこで音楽に合わせて、クネクネと体を揺らして踊った。颯汰にはダンスの素養がさっぱりなかったので意味不明だったけれど、恐らく見る人が見れば、「芸術点が高い」ということになるのだろう。
鬼の仮面を被った踊り子は、そのまま念仏というか祝詞というか、意味が良く分からない言葉の羅列を唄い始めた。いや、実際には意味があるのだろうが、はっきり言ってさっぱり分からない。それに、すごく眠くなる。脛に小石が食い込んでいなければ、颯汰はがっくりと寝てしまっていただろう。
これこそが『球恨の儀』であった。皆でオヤタマサマを迎え、野球が出来ることに感謝をし、襲い来る眠気を堪える。本当に寝てしまったらどんな目に遭うか分からないから、ある意味修行だった。もっとも、この修行が役に立つ場面と言ったら、葬式くらいしか思いつかないが。
「……緑茂高校は、過去に大変な過ちを犯しました」
しばらくすると説教が始まる。踊り子が鬼の仮面を被ったまま、皆の前で訥々と語り始めた。颯汰も、誰も仮面の下の顔を見たことがなかった。声を聞くに、男性であることは間違いないのだが。ここの神社の神主か誰かだろうか。
「とても償いきれないような大罪です。貴方がたの先輩たちは、今もそれで大変苦しんでいます」
説教の内容はいつも同じだった。数十年前、この高校の野球部部員が自殺した。原因は監督から部員への体罰だとも、生徒同士の過酷ないじめだとも言われた。
「嘆かわしいことです。この生徒は成長できなかった」
鬼の踊り子が悲しげな声を出した。
「本来殴るのは、相手を思い遣ってのことです。愛があるから殴るのです。我々は殴られたからこそ成長できた。愛があったからここまで立派になれた。ほとんどの部員たちがそうでした。しかし……彼は違った。弱かったのです」
弱かった……ぼんやりと霞む頭の中に、鬼の踊り子の言葉が染み入って来る。日々の疲れと、眠気を誘う音楽も相まって、颯汰は意識が朦朧としてきた。
「彼を救えなかったのが、我々の罪。貴方がたの先輩たちはそのせいで地獄の苦しみを味わい、そしてその大罪は、同胞である貴方がたにも受け継がれているのです」
地獄……大罪……颯汰はだんだん心が苦しくなってきた。遥か昔にそんなことが……なんてひどい話なんだろう。まるで自分が、生まれながらにして罪深い、穢らわしい、罰せられるべき存在のように感じられた。できることなら今すぐにでも、頭を地べたに擦り付け、涙を流して謝りたい。未来永劫、謝り続けたい。実際に涙を流している部員たちもちらほらと居た。
「貴方がたの先祖は大罪人でした。その子孫である貴方がたは、その罪を肩代わりして、一生をかけて償っていかなくてはならない」
その通りだ。霞む思考の中で、颯汰はそう思った。そのためには。
「そのためには、野球で勝つことです。勝って、暴力は人を成長させるのだと、あの体罰は正しかったのだと証明してください。野球を通して罪を償い、オヤタマサマに全てを捧げてください」
その瞬間、地鳴りのような声が境内に響き渡った。部員たちはやをら立ち上がり、しばらく言葉にならない叫び声を上げ続けた。颯汰もまた、獣のような咆哮を上げ、血を昂らせた。
「知らんがな」
バスに戻ると、ちょうど颯汰の隣の席に、何処かで見たような顔の青年が座っていた。浅黒い肌をした小柄な男。彼は窓枠に肘をつき、白けたような顔でフンと鼻を鳴らした。
「なんでワシが生まれる前の罪まで、このワシが背負わにゃならんのじゃ」
何となく訛りのある喋り方。聞くと、名前を阪木と言う。歓迎会ですれ違った青年だと颯汰が気がついたのは、帰りのバスに揺られて、しばらく経ってからだった。
そうして、日々が足早に過ぎていく中。
やがて……事件は唐突に起こった。
その日、颯汰は異様に眠かった。いや、眠気はほぼ毎日続いているのだが、その日はさらに輪をかけて眠かったのだ。前日に『球恨の儀』があったからかもしれない。そのせいで、普段はしないようなエラーをしてしまった。確かに雨が降っていて視界は悪かったが、平凡な外野フライを捕り損ねてしまった。それも三度も。気合いが入っとらんということで、坂道ダッシュさせられ、その後山の斜面に正座させられた。もちろん連帯責任で、その場にいた一年生全員が、である。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
やがて三年生による『感謝』が始まった。颯汰は心苦しかった。自分のせいで。皆を巻き込んでしまった。いくら規則とはいえ、少なからず誰かに恨まれているのだと思うと、胃の辺りがズンと重たく沈んでいくように感じられた。
山の夜は早い。
暗くなるのが早い。街灯もないから、本当に墨を溢したように、何も見えなくなる。
「ありがとうございます!」
常闇の中、ついに声が至近距離で轟いて、颯汰は観念して顔を上げた。頭蓋骨が硬い物に当たって、ミシミシ音を立てた。鼻の奥がツンと痛む。
「ありがとうございます……!」
感謝の言葉を述べ、顔を上げたその時、颯汰は驚いた。
「え……吉常?」
颯汰は思わず目を疑った。自分を殴っていたのは、三年生ではなかった。暗がりの中、颯汰を冷たい目で見下ろしているのは、同部屋の、あの吉常だった。A組に抜擢され、最近は練習中別行動になっていた吉常。
「あ……」
颯汰が目を見開いていると、さらに拳が飛んできた。吉常は黙って颯汰を殴り続けた。痛みよりも強い衝撃が、混乱が颯汰の頭の中を駆け巡った。何故。部屋ではあれだけ、暴力に、殴ることに反対していた吉常が。どうして殴る側に回っているのか。一体A組で、彼に何があったのか。
答えは出なかった。ひとしきり颯汰を殴り終えると、吉常は次の獲物に移った。颯汰は痛みも忘れ、呆然と吉常を見上げた。吉常は、何も言わなかった。いつもよりさらに青い顔をして、感情を何処かに捨て去ったかのような表情で、ただ同じ一年生を殴り続けた。
「良いぞ」
吉常の後ろから、嘲るような嗤い声が聞こえてきた。真堂英輔。聞き間違いようがない。その声を聞くだけで、姿を一目見るだけで、颯汰は思わず体を震わせ、背筋がピンと伸びた。
「お前もだいぶ分かってきたじゃないか。オヤタマサマの御心が」
英輔がヘラヘラと吉常の肩を叩いた。吉常は、やはり何も言わなかった。何も言わず、機械のように殴る手を止めなかった。
「な? 気持ち良いだろ? どうせ逆らえない奴をブン殴るのは」
「…………」
「一緒なんだ。結局、お前も俺も」
英輔がニヤリと唇を釣り上げた。
「高尚ぶってんじゃねぇ。聖人ぶってんじゃねぇ。同じ人間同士、誰も何も変わりゃしねぇんだよ。お前にだってちゃんとあんだよ。暴力衝動が。憎しみが。怒りが。どうしようもなくドロドロと濁った、後ろ暗い本能がよ」
「…………」
吉常は死んだ魚のような目をして、黙って殴り続けた。やがて闇の中に溶けるようにして、二人の姿は見えなくなった。颯汰はまだ、自分が見たものが信じられなかった。あの吉常が……。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございますッ」
「ありがとうございます!」
それからしばらく、夜の帳が下りた山に、『感謝』の言葉が谺した。事件はその数時間後に起きた。颯汰と同じ一年生、新入部員の吉常が、突然校舎の4階から飛び降りて自殺したのだ。




