四回裏 安堵
吉常は自殺だった。
それは公には秘密にされていて、事実を知っているのは野球部の中でも……運悪く飛び降りる瞬間を直接目撃してしまった生徒など……極一部に限られていた。
「吉常は今、校舎の奥の集中治療室にいる」
監督の説明はこうだった。薄暗い体育館に集められた部員たちを見渡して、野坊監督が何とも難しい表情を浮かべた。
「幸い命は無事だ。ただ、両足が骨折してしばらくまともに歩けそうもない。それにかなり動揺していて、情緒不安定になっている。無理もない。専門家の医師と相談し、しばらく隔離して療養させる事にした」
なるほどもっともらしい説明だったが、颯汰も含め、部員たちでその説明を信じている者は誰一人いなかった。辺りは血の海で立ち入り禁止になったとか、膝から足の骨が飛び出して胸に刺さっていただとか、パックリと割れた頭蓋骨から中身が溢れていたとか、皆そっちの、根も葉もない噂の方を信じていた。
実際現場は厳重に人払いがされていたし、そもそもこの学校に集中治療室なんて大層な代物がないことは、ここに通う生徒なら誰でも知っていた。あるのは人が入れそうな巨大な冷凍庫くらいだ。
「みんな、吉常の分も頑張ろうな」
全員が静まり返っていると、監督が皆を見渡して、まるで演説をするように、野太い声で叫んだ。
「せっかくA組に抜擢されたのにこんなことになって、一番辛いのは吉常だと思う。だけどここで俺たちまで立ち止まってしまったら、彼の今日までの頑張りまで無駄になってしまうぞ。彼のためにも、俺たちはこれまで以上に必死になって野球に取り組むんだ」
一瞬間を置いて、オウ、と地鳴りのような返事が冷たい体育館に響き渡った。監督への返事に「NO」がないことは、今更言うまでもない。監督が、コイツがレギュラーだと決めたらたとえ万年0割打者でもレギュラー固定だし、バントをしろと言ったらどんな絶好球でもバットを寝かせなければならない。上の命令には絶対服従。それが緑茂高校野球部という組織だった。
どうして真実を公表しないのか。
もちろんそれは、大会が近いからに他ならなかった。この大切な時期に不祥事や事件・事故が起きてしまっては、世間の風評に煽られ、最悪の場合出場停止・出場辞退に追い込まれかねない。それは颯汰も含め、野球部全員が恐れていることだった。
そう、本当のことを言うと、誰もが恐れていた。
吉常の自殺を。その事実が公の元に晒されるのを。喪失の悲しみよりも、今は足が竦むような恐怖の方が上回っていた。
当然不祥事があったのだから、辞退するべきだなんて、出ない方が良いなんてことは皆分かっている。そんなの誰だって知っている。だが、それでも出たいのだ。理解はできても納得はできない。どんなに常識として間違っていようとも、湧き上がるこの気持ちまでは、どうにも否定しようがないではないか。
これからも野球はできるのだろうか?
だって、今まで野球しかやってこなかった。そのためにわざわざ、地元を離れ、24時間、365日野球のことだけを考えて過ごしてきた。それなのに、突然野球が出来なくなるなんて……今まで池の中しか知らなかった小魚が、突然、陸に揚げられたようなものだった。衝撃なんてものじゃない。文字通り世界が変わってしまう、晴天の霹靂、天変地異にも等しい所業だった。
だから、監督が吉常の自殺を隠蔽すると暗に決めた時、皆が黙って、何なら積極的にそれに従った。何処かホッとしている自分さえいるのを颯汰は感じた。
颯汰は自分で自分に驚いた。そして、死んだ吉常の顔がチラつき、そんな風に感じてしまう自分が嫌になる……恐怖、悲しみ、混乱、衝撃、安心、それに罪悪感……どんなに優秀なAIですら、このぐちゃぐちゃの感情をたった一言で要約なんてできないだろう。彼らは悶々としたまま練習に戻った。
外は雨が降っていた。いつにも増して激しい練習が終わり、倒れ込むようにして部屋に戻った。颯汰に続き、ルームメイトたちも次々と戻ってきたが、誰も、何も言わなかった。練習に打ち込んでいる間は、何もかもを忘れられた。そして忘れていた分……見て見ないふりをしていた分……忘れ物はさらに大きくなって自分に返ってきた。
一人分広くなった部屋を、重たい、重たい沈黙が包んだ。窓の外を叩く雨粒の音だけが、颯汰の耳にやけに大きく響いた。
「……僕が死んだら」
やがて沈黙に耐えかね、誰かがポツリと言葉を漏らした。颯汰も含め、皆が一斉にそちらに視線を向けた。いつも吉常の隣で寝ていた生徒。少しぽっちゃり気味の、黒縁メガネの。松尾だった。
「僕が死んだら、誰か悲しんでくれるんかな?」
「…………」
誰も、返事をしなかった。できなかった。松尾が今にも泣き出しそうな顔で呻いた。
「それとも……ここにいたら、死んだことすら無かったことにされてさ。それでほとぼりが冷めた頃……野球部にも悲しき過去とか……『アイツのために頑張れた』みたいな美談にされちゃうのかなぁ?」
「やめろ」
松尾の隣にいた堀北が低い声で唸った。颯汰は慌てて目を逸らし、窓の外に興味があるふりをした。
そりゃもちろん、人一人死んでいるのだ。吉常にだって家族がいるし、いつまでも隠し通せるとは誰も思っていない。いつかは公表しなければならない日が来るだろう。十中八九大会が終わった後になるだろうが……おそらく自殺ではなく、治療の末という建前になるだろう。
その時は
《仲間の死を乗り越えて》
だとか、
《亡くなった友に誓った 決意の大会出場》
《悲しみを胸に それでも前に進む球児たち》
みたいな見出しの記事が出るかもしれないなと颯汰は思った。思わず涙を誘うような美談にされてしまうのは想像に難くない。そうやって、何でもかんでも物語にされてしまうのだ。食べやすいサイズに加工されて消費されてしまうのだ。たとえ人一人の命だろうが。何が『悲しき過去』だよ。颯汰は何だか胃がムカムカしてきた。
「でも……でも、本当にそれで良いんかな?」
松尾は、とうとう本当に泣き出してしまった。
「せ、せめて僕たちくらいは……吉常のことをちゃんと悲しんでやるべきなんじゃないのかな……?」
再び部屋に沈黙が訪れた。
「……俺、しょんべん」
しばらくして、堀北が無表情で立ち上がった。
「あ……ぼ僕も……」
颯汰もまた慌ててそれに続き、逃げるようにして部屋を出た。自分の部屋だと言うのに、どうにも居た堪れなかった。部屋を出ると、すでに消灯時間を回っていて、廊下はトンネルの中のように薄暗かった。非常灯の緑を頼りに、二人して端っこにある共同便所へと向かう。堀北は振り返ることもなく、また一言も喋らなかった。それは颯汰も同じだった。黙って俯き加減に、薄汚れた床を見つめ、トボトボと彼の背中についていった。
……だから、前を歩く堀北が突然立ち止まった事に、颯汰は気が付かなかった。そのまま彼の背中に鼻から打つかってしまった。
「ごっごめ……」
「シッ!」
慌てて謝ろうとすると、堀北が颯汰の方を振り返り、口の前で人差し指を立てた。それから黙って前方に目を移す。共同便所の手前に、広めの給湯室があった。廊下に明かりが漏れている。誰かが夜中に、コーヒーでも淹れているのだろうか? 颯汰が不思議に思っていると、暖簾の向こうから話し声が聞こえてきた。
「……けど意味わかんねーよな」
その声を聞いた瞬間、颯汰は思わず身震いし、息を呑んだ。三年だ。間違いない。
「殴られた側が自殺するならまだしも、何で殴る側が死ぬんだよ? バカじゃねーの」
ヘラヘラと嘲るような嗤い声が給湯室に響いた。声からするに、3〜4名はいるだろう。不意に鼻腔をツンと刺激され、颯汰は慌ててくしゃみを堪えた。堀北が緊張した面持ちで振り返り、颯太と顔を合わせた。この臭いは……まさか、ここで隠れて煙草を吸っているのだろうか?
最悪だ。間の悪い時に便所に来てしまった。颯汰は激しく後悔した。
「だな。せっかくこっち側にしてやったのになぁ」
その嗤い声を聞いて、颯汰は危うく失禁するところだった。真堂先輩だ。颯汰は、最悪の底が抜けて、その下にある地獄の釜の入り口が開く音を聞いた。
……冷静に考えればトイレに行っているだけで、こっちは何も悪いことはしていないのだが。しかし、こんな時間にこんな場所で、よりによって真堂に見つかってしまっては。一体どんな因縁を付けられて殴られるか分からない。
「ま……結局アイツもその程度だったんだろ」
暖簾の向こうから、真堂の軽やかな話し声が聞こえてきた。
「男には二種類いるんだよ。殴れるやつと、殴れないやつ。つまり、強いやつと弱いやつってことだ。弱いやつは集団じゃ生きていけない。獲物も狩れない仲間も守れないじゃ、社会にとって足手まといでしかないからな。動物だったらとっくに見捨てられてるか、殺されてるかだろうな。だから男は、強くならなきゃいけないんだよ。弱いやつはチームを腐らせっからな」
「ま……俺たちの代は何とかなりそうで良かったよ」
再び嗤い声。
「そのうち記事にはなるんだろうがな。俺たちが引退するまでは何とかなるだろ」
「嗚呼……」
「でもよ」
颯汰たちが固唾を飲んで聞き耳を立てていると、三年の誰かが不意に不安げな声を出した。
「あの女……」
「は?」
「ほら、あの女だよ。今ちょうど取材に来てるだろ。名前なんつったかな、あの女記者」
「嗚呼……そういえば」
「確か教祖様の友達の孫娘、だっけ?」
「もしあの記者に今回の事件を勘付かれたら……」
「オイオイ……」
「いや、あれもこっちの味方なんじゃねーの? どうせ提灯記事書かせに来たんだろ。頼んだら黙っててくれるんじゃね?」
「分かんねぇだろ。いくら記事を差し止めたって、SNSで呟くとか、友達に話すとか……所詮は信徒でもない、部外者だからな。万が一のことだってある」
不意に給湯室が沈黙した。颯汰は音を漏らさないように、必死に息を殺した。
「確かに……やばくね?」
「今はバレてなさそうだが」
「そうだな……」
やがて真堂が静かに告げた。
「……あの女、ちょっと邪魔だなァ」




