二回裏 歓迎
一月。
正月だった。年が明けて、まだ数時間しか経っていないが、宮若颯汰は早朝ランニング中だった。街は静まり返っていた。田んぼ道は真っ暗。空には星が輝き、まだ初日の出すら登っていない。それでも颯汰は、走り出さずにはいられなかった。期待と不安が胸の中で膨れ上がって、いてもたってもいられなかったのだ。
監督のスカウトにより憧れの緑茂高校に入学が決まったのが一二月ごろ。勉強はからっきしだった彼にとって、これは願ってもない吉報だった。
小学生の頃から野球を続けていて、ポジションは外野。彼は飛び抜けて野球が上手い……わけではなかった。周りと比べても、背丈も高くなく、それほど目立った選手ではなかった。
ただ、足が速かった。
50m走は5秒8。最近では野球も一芸重視になってきていて、たとえ打てなくても、足が速ければ代走などで使われたりする。颯汰も、颯汰がお世話になったシニアの監督も、そこを見てもらったのだろうと喜んだ。
道中、冷たい横風に晒され、颯汰は身震いした。緑茂高は甲子園常連の強豪校だった。他県に住んでいた颯汰も、その名前は何度も中継やニュースで目にしたことがある。全国から名だたる4番バッターや黄金エースが集結している。その中でレギュラーを獲るのは、並大抵のことではないだろう。
だからこそ、足だけは負けるわけにはいかない。颯汰はそう思った。白い息を吐き出し、カエルの合唱に包まれながら、彼は近所の神社に向かった。
神社には人気がなく、誰もいなかった。有名で人気な神社が郊外にあるから、みんなそっちに初詣に行ってるのだろう。ランニングウォッチをストップさせ、鳥居を潜り、彼は馴染みのない境内をフラフラと彷徨い歩いた。
やがて小さな本殿の前にたどり着いた。
薄暗がりに浮かぶ木造の本殿は、静謐に満ちていて、何処か不気味だった。
颯汰はポケットに入れておいた五円玉を賽銭箱に投げ入れた。賽銭箱の前で頭を下げ、両手を合わせながら、颯汰は見たこともない、いるかいないかも分からない神様に語りかけた。
世界が平和になりますように。
自分が、家族が健康で暮らせますように。
それから……
……それから、野球はやります。
自分の手でやります。
もし野球の神様がいるのなら、どうか温かく見守って、変な手助けだけはやめてください。
……初詣が終わると、ちょうど東の空がうっすらと明るくなり始めていた。
帰ろう。引っ越しの準備も進めなくちゃ。そういえば……颯汰はランニングウォッチを再開させた。草むらの奥で野良猫がにゃあ、とあくびをしながらのんびり寝返りを打つ。
今度引っ越す緑茂町は、新興宗教が盛んで、住人のほとんどが信徒だと聞く。
たしか彼らが信仰していたのは、オヤタマサマ……。
時は過ぎ、それから、四月。
緊張の入学式が無事終わり(入学式は特別に保護者だけカメラの持ち込みが許された。生徒たちのスマホは校門前の管理室に預ける校則になっていた)、その足で颯汰は、見送りに来た親と別れ、大勢の新入生たちと共に指定された会場へと向かった。これから野球部の歓迎会があるのだという。颯汰はしきりにキョロキョロと周囲を窺った。
総勢245名。大所帯である。ここにいる全員が野球部……これから三年間、共に暮らし、切磋琢磨する仲間たちだ。心なしか、皆自信に満ち溢れているように見える……まるで自分だけが不安を抱えているような……寮どころか、家元を離れ他県で泊まったことすら滅多にない颯汰にとって、これからの新生活はまさに未知との遭遇だった。
「リラックス、リラックス」
そんな颯汰の肩を叩いてくれたのは、まだ名前も知らない、見知らぬ同級生だった。颯汰は顔を上げた。いつの間にか隣に立っていたのは、背の高い、素朴な顔をした青年だった。
「吉常だ」
差し出された手を、颯汰はおずおずと握り返した。
「……宮若です。よろしく」
「よろしく」
がっしりとした力強い手だった。吉常と名乗った青年が、白い歯を見せた。訛りからして、どうやら地元の人ではなさそうだ。
「そんなに緊張しなくても良いよ。僕たち、野球をやりに来たんだろ?」
「……うん」
「だったら楽しもうよ。別に野球で失敗したって、命取られるわけじゃないんだからさ」
「……うん」
それから吉常はまた別のところへ行き、知らない誰かと談笑し始めた。昔からの知り合い……ではないだろう。ここに入学してくる生徒のほとんどは、全国から集められ、まだ誰も、顔と名前すら一致してないはずだ。
「ケッ。調子の良いやっちゃなぁ」
颯汰がぼんやりと吉常の背中を見つめていると、また別の生徒が彼の隣でボソリと呟いた。切長の目をした、肌の浅黒い青年だった。
「そうよ、野球をやりに来たんよ。馴れ合いしに来たんじゃないでぇ」
どこの訛りか知らないが、それだけ言うと彼は人混みの中に紛れていった。颯汰はごくりと生唾を飲み込みながら、上級生の待つ会場へと向かった。
会場は食堂で行われた。事件は、その歓迎会で起こった。
歓迎会が始まる前、四角いテーブル席(指定席だった。テーブルの上に名札が置かれていて、各々が自分の席に着いた)で待っていると、続々と上級生たちが会場入りしてきた。制服姿の一年生に対して、彼らはついさっきまで練習をしていたのか、皆ユニフォーム姿だった。やはり先日まで中学生だった一年に比べ、一回りも二回りも体付きが大きい。皆に一斉に緊張が走った。
席は一年生の間と間に、上級生が座るような配置だった。両隣に先輩が腰かけ、颯汰も慌てて背筋を伸ばした。あと来ていないのは、三年生、レギュラークラスだけになった。全員が揃うまで、まだ少し時間がある。会場はざわざわと雑談タイムのようになった。
タゲられるなよ。
……あれは結局、誰が言ったのだろうか?
今思い返しても分からない。それは歓迎会が始まる前、颯汰がまだ名も知らぬ上級生から、こっそり受けた忠告だった。タゲられる……つまり特定の1人にキツく当たることで、組織全体の結束や緊張感を高めようと言う、典型的なパワー・ハラスメントの一種だった。
あるひとりにだけ過度な練習量や処罰を課す。あるいは仲間外れにして無視する。加害者側は「選手のため」「チームのため」だから、自分は間違ってないと正当化しているから、罪の意識もない。
後から知った。毎年新入生からひとりは先輩に目を付けられ、タゲられるという……そして今年タゲられたのは……あの吉常だった。
やがて全員が揃った。監督の姿はない。
監督が選手の前に現れるのは、グラウンドに立ってからのことだと言う。歓迎会は生徒のみで執り行われる予定だった。
「それでは緑茂高野球部歓迎会を始めます」
誰かの号令と共に、盛大な拍手と共に、目の前に大量の料理が運ばれてきた。良い匂いがする。颯汰は鼻を引くつかせた。そういえば入学式が始まってから今の今まで、何も食べていない。全員が腹ペコだった。銀色のボウルが外され、中の料理が露わになった時……会場から悲鳴が上がった。
颯汰は目を疑った。目の前に並べられているのは、炊き立ての白米に、ゆで卵、ブロッコリー、鶏肉のソテーなど……いや、それは良い。
虫だ。
美味しそうな料理の中に、何故か昆虫が混ざっているのだ。
一年生たちは皆絶句していた。颯汰は隣に座った二年生の、あるいは三年生たちの料理を見た。そっちの料理には、虫は混ざっていない。虫が入っているのは、一年生の皿のみだった。颯汰は隣に座っていた二年生の顔を見上げた。彼はこっちの方を見なかった。ただ黙って、号令を待っていた。あ……冗談じゃない。本気なんだ。その時颯汰は悟った。
「いただきます」
やがて上級生たちが大合唱し、歓迎が始まった。一斉に箸が動く……一年生以外は。当然だ。中には目に涙を浮かべている子もいた。
「大丈夫だよ! 僕でも出来たんだから!」
向こうの席で、眼鏡の、如何にも真面目そうな二年生が腰が引けている一年たちを励ました。
「僕が出来たんだから、みんなだってきっと出来るよ!」
しかし、やはり誰も手を付けようとしない。白米の上でピクピクと蠢く毛むくじゃらの脚を見て、数人が叫び声を上げた。一番奥の席から、三年の真堂が、それを見てせせら嗤った。
「残さず食べろよ。全員でコオロギと蛾の幼虫を完食する。それがこの野球部のルールだ」




