十回表 正解
ここは……?
「……先生?」
ここは……職員室だ。千紘はいつの間にか、職員室にいた。目の前に先生の大きな背中が見えた。嗚呼。千紘は懐かしさに胸がぎゅっと締め付けられた。顔を見なくても分かる。大好きだった小学校の先生だ。
「先生……?」
千紘はいつの間にか、自分が泣いていることに気がついた。それから滲んだ目線が、いつもの半分以下の高さになっていることも。嗚呼、分かった。ここは小学校なんだ。
「先生」
私は今、小学生なんだ。泣きながら、千紘は必死に先生に呼びかけた。
「先生……なんで?」
なんで? どうして?
「なんで、いじめって無くならないんですか……?」
助けて。助けて。助けて。椅子に座って作業をしていた担任の先生が、千紘の呼びかけに気が付いて、ゆっくりと振り向いた。
「千紘ちゃん。先生たちは仕事中、いつ休憩してると思う?」
「ひっ」
その姿を見て、千紘は思わず悲鳴を上げた。その顔は、倍以上に腫れ上がり、至るところ青あざだらけで、薄気味悪いまだら模様に変色していた。首から下はさらに悲惨だった。ボタンの外されたシャツの奥に、メスで乱雑に切り裂かれた胸部が曝け出されていた。そう、文字通り中身まで。
まるで人体模型だ。千紘は息を呑んだ。首の付け根から骨盤の辺りまで、魚の開きみたいにぱっくりと内側が露わになっている。肋骨はへし折られ、心臓は抜き取られ、肺、肝臓、腎臓の片方もなかった。
頭頂部にはノコギリや錐が刺さったままになっている。そこからブヨブヨとした脳が引っ張り出されて、はみ出した残りがだらんとウィッグのように垂れていた。よく見ると目が暗く濁っていた。移植のために角膜を切り取られたのだ。
「給食中は教室に居なければならない」
絶句している千紘を横目に、先生は普段と同じ、優しい声で語りかけてきた。材料の計算を間違えて爆発したパンみたいな顔で、うっすら笑みすら浮かべている。喋るたびに喉の奥で血がゴボゴボ鳴った。
「昼休みは勤務時間に当たる。一応法律上は休憩時間が定められているけど、まぁ守られた試しはないな。朝から晩まで働きっぱなし、ずっと子供の相手で、トイレに行く暇すらないってのが教師あるあるなんだ。部活動に至ってはボランティアという名の半強制、無給の時間外労働だし」
「あ……あ……」
「つまり学校は、いじめられてる子供たちだけじゃない、働く大人に取っても、完全に無法地帯なのさ」
「あ……!」
「そんなお偉い先生方に、ぜひ質問してみなよ。『なんでいじめって無くならないんですか?』って。『いじめって犯罪じゃないんですか?』って、『法律は守るべきものじゃないんですか?』って。それはそれはご立派な『正解』を教えてくれるだろうよ」
「いやあぁあああぁああぁあ……!」
職員室が、目の前の滲んだ景色がぐにゃりと歪む。先生が千紘の頭を撫でようと、血だらけの手を伸ばしてきた。千紘は、動けなかった。腰が抜けていたのだ。ヘナヘナと尻餅を着いた千紘を、先生が両手を広げ、抱き寄せた。イヤ。助けて。誰か助けて……!
千紘の悲鳴は、彼女の顔は、心臓のない赤黒い穴の空いた胸部へと吸い込まれ……。
「……ット、ラァイィイクッ!」
響き渡った歓声で、千紘はようやく目を覚ました。どうやら白昼夢を見ていたようだ。頭が痛い。寒いのに汗が止まらない。力無く顔を上げると、いつの間にか目の前に大勢の人集りができている。『人間ストラック・アウト』の真っ最中だった。
そこは病院から少し行ったところにある、空き地に近い公園だった。数十メートル先のクスノキの幹に、大人が2人磔にされている。千紘はその顔に見覚えがあった。多々良と古林。あの探偵2人組だ。町内に潜伏していた彼らは、善良なる市民に捕えられ、吊し上げられていた。
「さぁ、言え!」
鬼のお面を被った誰かが、硬球を振りかぶりながら怒鳴った。
「誰に雇われたんだ、言わないか!」
「うぅう!」
「ストッライークッ!」
鬼の投げたボールは、見事古林の脇腹あたりに命中して、それでまた観客が沸いた。
「1人10球までが限度ですからね。4回連続外したら交代ですよぉ」
マウンドの横で、これまた鬼のお面をした男がにこやかに告げた。千紘はゾッとした。よく見ると『ストラック・アウト』の列は何十人、いや何百人と並んでいた。
多々良と古林は、血と雨でずぶ濡れになっていたが、衰弱しているのが一目で分かった。足元に大量の白球が転がっている。彼らはヘルメットも防具も何もしていなかった。露わになった肌は、先ほどの悪夢のように奇妙な赤青紫色に変色していた。もし、石のように硬い硬球が頭に打つかったら、死んでもおかしくない。
「オイオイ! 吐かせる前に殺したら罰金だぞぉ! ひひひ!」
どうしよう。どうすれば。仮面の下で、千紘が震えていると、やがて別の仮面が向こうから走ってきた。傘もささずに走ってきた鬼は、千紘のすぐそばまで来ると、千紘……ではなく、そのすぐそばにいた野坊に耳打ちを始めた。
「センセ。学校の方で、逃亡していた学生3人が捕まったようです」
「そうか。割と時間はかかったが……」
野坊は腕時計をチラと覗き込んだ。釣られて千紘も腕を上げると、時計の針は20時を過ぎていた。日はすっかり落ち、今から山を登るのは非常に危険である。
「すぐに戻ると伝えてくれ」
「え? でも……」
戸惑いの声を、野坊が豪快に笑い飛ばした。
「良いんだ。大丈夫、私は慣れてるから。あぁでも、食材やらクーラーボックスやら、諸々運びたいな。ほら、向こうじゃきっと停電してるだろうから。おぉい、君たち」
「え?」
……と、思わず千紘は声を上げるところだった。野坊は、千紘を含め、周辺にいた鬼たち数名に朗らかに呼びかけた。
「すまないが、手の空いているものがいたら手伝ってくれ。今から山を登りたい」
「わかりました」
千紘が返事に困っていると、他の若い鬼が気前良く頷いた。雨がまた一段と強くなってきた。この勢いなら、山道に滝が出来ているかも知れない。
「すまないね」
野坊が申し訳なさそうに頭を掻いた。
「本当にご迷惑を。どうも最近の子供は、物分かりの悪い奴が多過ぎて」
「先生。言っても聞かない奴は、殴るしかないんですよ。ひひ」
「そうそう。俺たちゃそれで立派になったんだ。自分が子供の頃なんて、そりゃあもう。殴られるから強くなる。暴力がイカンなんて言ってるのは、腰抜けの軟弱者だけですわ」
「行きましょう。殴りましょう。世のため人のために、弱き者間違った者を、殴って殴って殴って導こうじゃあぁりませんか。ひひ、ひひひひ!」
「ストライークッ!!」
豪雨の中を、鬼たちがゾロゾロと歩き始めた。千紘は迷ったが、鬼の仮面を被ったまま、野坊たちの背中を追って逃げるようにその場を後にした。




