九回裏 興味
階段を駆け上がり、3階にたどり着いた。
「はぁっ、はぁ……はぁっ!」
雷鳴とともに、天井の明かりがパチ、パチッと点滅した。一息つく暇はない。颯汰は顔を上げた。
下の階が騒がしくなって来た。誰もいない廊下を、誰もいないうちに、全速力で走っていく。走れば大した距離ではないので、放送室にはすぐにたどり着いた。そういえば、雨の日は室内で練習メニューが組まれる……筋トレ、階段の往復、廊下ダッシュなど……普段は『廊下を走るな!』と口酸っぱく言っているくせに、これが部活の練習になると、もう嫌だと泣きたくなるくらい走らされるのは、一体どういう理屈なんだろう?
聖域なんだ。この国では、部活動それ自体が。何をしても、部活動なら、多少は大目に見てもらえる。鍵穴を回しながら……焦りと緊張で中々思い通りにいかない……ぼんやりとそんなことを考えていた。あいにく僕らはその聖域を汚してしまった。その結果がこの有様だ。今や学校中が……いや、下手したら町中が敵になってしまった。
鍵が開いた。放送室に転がり込むと、壁いっぱいに広がる巨大な、何だかよく分からないボタンやつまみの、たくさん付いた機材が颯汰を待っていた。操作方法は?
分からない。だが、迷ってる暇はなかった。とりあえず電源を入れ……ブゥゥゥウー、ンという鈍い重低音が颯汰の鼓膜を揺るがした……適当に、メチャクチャにボタンを弄る。だがしかし、動かない。実は無線機は雷に影響を受けるのだが、颯汰には知る由も無かった。颯汰は途方に暮れた。何をどうやって、誰にメッセージを飛ばして良いかも謎だった。21世紀生まれの彼にとっては、あまりにもボタンの数が多すぎた。思わず泣き出しそうになりながら、颯汰は必死にボタンを押しまくった。
「ここにいたのか」
不意に後ろから声をかけられ、颯汰は凍りついた。この声。この声は。恐る恐る振り返ると……いた。真堂英輔だ。泣く子も黙る三年生が、緑茂高始まって以来の怪物が、扉の前で、入り口を遮るように仁王立ちして、こちらを睨んでいた。また近くに落ちた雷の、白い逆光が、黒黒とした闇夜の中に一瞬、その影形を顕現させた。出た。鬼だ……颯汰はごくりと唾を飲み込んだ。
「分かってんだろうな……?」
真堂が静かにそう言った。やはり、停電したらしい、今や廊下の電気は完全に消えていた。真堂がゆっくりと部屋の中に入ってきた。口元にはうっすらと笑みすら浮かべている。どうやら彼1人のようだ。颯汰は目を泳がせた。窓を叩く雨の音が、徐々に激しさを増して行った。
「この学校で、この街で、野球部に楯突くのがどういうことか?」
「ひ……っ!?」
身構える間もなく、素早く距離を詰められ、拳が飛んでくる。問答無用で腹を殴られた。手加減や遠慮なんてものはない。息が詰まりそうに、意識が飛びそうになり、颯汰は思わずよろめいた。視界が滲む。恐怖から、やや遅れて痛みがやってきた。くそっ。頭がくらくらする。唇の端から、逆流してきた胃液を溢すと、真堂が心底愉しそうに嗤った。
「お前、生きて帰れると思うなよ?」
そこから先は、良く覚えていない。記憶が曖昧だった。ただ、サンドバッグのように殴られ続け、颯汰はそのうち立っていられなくなった。倒れてからも、雨霰のように蹴りが飛んできて、骨が、内臓がミシミシと悲鳴を上げた。一体いつ終わるんだろう? 口の中で血の味がする。痛い。怖い。助けて……もしかしたら永遠に終わらないんじゃないかと思っていると、不意に頬にそっと手を添えられた。
「安心しろ。お前は最後にしてやる」
真堂がゾッとするほど優しい声でそう囁いた。その手は温かった。人の温もりだ。颯汰には、それが何より空恐ろしかった。嗚呼、これが血も涙もない、冷酷な鬼や悪魔の仕業だったら、どんなに良かっただろう。真堂の拳が顔面めがけて一直線に飛んできて、それで颯汰は気を失った。
……そして、次に目が覚めた時、颯汰は台の上で、縄で縛られていた。いつの間にか手足をベッドの四隅に固定され、Xの形に寝かされている。まぁそれでなくても、もはや颯汰に逃げる気力など残されてなかったが。
ここは……どこだろう?
少なくとも放送室ではなさそうだった。散々腫れ上がって、団子のようになった重たい瞼を……右目は使い物にならなかったので、左目を……無理やり開け、首が稼働する範囲で、何とか周囲を見渡す。電気は点いていなかった。部屋は狭く、薄暗く、全体を見通せない。何処からともなく……颯汰の真横だ……呻き声が聞こえてきて、彼は飛び上がりそうなほど驚いた。
「う……うぅ……!」
縛られているのは、捕まったのは自分だけではなかった。颯汰の右隣に一つ、左隣に一つ、自分も含めると合計三つのベッドが並んでいた。思ったより広い部屋のようだ。
「うぅぅ……っ!」
颯汰は必死に首を曲げ、隣で縛られている人物に目を凝らした。最初、あまりにも顔が腫れ上がりすぎて、知らない人かと思ったが、良く見るとなんと堀北だった。反対側、左隣にいるのは阪木だった。3人捕まった……松尾はどうなったんだろう? 颯汰の背筋に、冷たいものが走った。
「うぅぅぅう!」
「ちくしょう……痛ぇ。痛ぇよお!」
「うぁぁあ、あああ、ああぁん……!」
三者三様の嘆き声が、部屋に谺する。颯汰もそれに釣られ、不意に涙が溢れ出してきた。何で。どうしてこんな目に。一体これから、自分たちはどうなるんだろう?
「やってくれたな、お前ら」
すると、不意に電気が付けられ、部屋の中に見知った声が響いた。顔を見なくても分かる。真堂だ。一瞬で空気が凍りつき、全員が黙った。真堂は颯汰たちの足の方向から、ランチのメニューを選ぶみたいに、軽やかな声で謳った。
「禁止されたカメラを持ち込んで、一体何を撮影するつもりだったんだ?」
「ああぁ、ああぁあん……!」
「分かってるよな? この街でオヤタマサマは、御野球様は絶対なんだよ。下手な口は挟まず、妙な疑問を持たず、ただ黙って従え。それが絶対だ。お前らはその掟を破った。裏切り者は、何をされても文句は言えねぇよなぁあ」
「うあああぁあ、あぁあ、ぅあぁあ……!!」
「さぁ、て」
真堂は、ゆっくりとこちらに近づいてきて、値踏みするように颯汰たちの顔を覗き込んだ。その目は少年のようにキラキラと輝いていた。
「ちょっと興味あったんだ。一回やってみたかったんだよ。トミー・ジョン手術」




