八回裏 青狸
……あれは、そう、小学生の頃だったっけ。
千紘は当時、同級生の女の子からいじめを受けていた。と言っても、映画やドラマで描かれるような、苛烈で重たい事件ではない。
みんなに無視されるとか、
物を隠されるとか、
何かするたびに笑われるとか、
実に凡庸ないじめ体験談だった。とても高尚な物語や、立派な犯行動機にはならなさそうな、どこにでもあるような話だ。いじめのきっかけは……結局何だったんだろう? それすらもう忘れてしまった。
だから平気だった……というわけではない。
みんなからいじめられて、その時千紘は、平気なふりをした。こんなこと大したことない、と自分に言い聞かせた。自分がいじめられていると認めるのが怖くて、特にお父さんやお母さんにバレるのが嫌で、必死で平気なふりをした。
よく、偉い先生や聖人君子みたいな大人が、もしいじめられたら周りに相談しなさい、助けを求めなさいなんて仰られる。確かに正論ではあると思う。素直に助けてと言えて、それで助かったらどんなに良いだろう。だけど正論は、正解は必ずしも物事を解決しない。
現実の世界にドラえもんはいない。現実は「助けて」も言えない人がほとんどだ。いじめられたら、大抵は助けを求める前に、まず隠そうとする。まさか自分がいじめられているだなんて、恥ずかしいし、悔しいし、情けない。自分が嫌われている存在だなんて、誰だって認めたくない。
親や友人にはなおさら知られたくない。悲しませたくない。困らせたくない。だから、誰にも見られないよう、ベッドの中で、路地裏の隅で千紘はこっそり泣いた。雨の日が好きだった。外に出て、元気なフリをして、誰かに会わなくても済むから。音楽を聴くが好きだった。誰かの笑い声を、自分を笑っているかもしれない声を聴かずに済むから。本を読むのが好きだった。現実の世界には、とても自分の居場所がなかったから。
必死に平気なふりをして、自分は大丈夫と言い聞かせてきた千紘だったが、ある日、担任の先生に呼び出された。まだ若く、物腰は柔らかく、普段から生徒を気にかけている優しい先生で、千紘も大好きな先生だった。誰もいない空き教室で、先生は千紘の目を下から覗き込みながら、いつもの柔らかい声で尋ねた。
「千紘ちゃん、誰かにいじめられてるんじゃないだろうね?」
もちろん千紘は否定した。
大好きだからこそ余計に知られたくなかった。それでも先生はしつこく千紘に問い続け、何度も何度も尋ねられるうちに、とうとう耐えきれなくなって泣き出してしまった。一度防波堤が決壊してしまうと、もうどうにも止められなかった。なんで。どうして。胸の奥にしまい込んでいた感情を、千紘は目の前の先生にぶち撒けた。助けて。助けて。助けて。
事実を知った先生は翌る日、いじめっ子たちを大いに説教して、その親たちに執拗に攻撃され、やがて鬱病で退職してしまった。びっくりした。大人も、いじめをするんだ。千紘にとっては、自分がいじめられたことよりもショックだった。私のせいだ。私が助けを求めたせいで……先生が……。
「先生、お願いします」
祭壇は町外れの病院にあった。担架に乗せられ、ブルーシートを被せられ、神輿のように運ばれる、裏切り者とされた野球部の生徒。1人目を捕まえ、さらに二手に分かれることになった。千紘は急いで手を挙げ、山を降りる役に立候補した。とてもじゃないが、武器を持って、もう1人の獲物を殴打する気にはなれなかった。
徐々に空は暗く、雨は強くなり始めた。担架の端を持ち、慎重に、ゆっくり、ゆっくりと町を練り歩いていく。雨と泥で、白装束はガッツ溢れるプレーを見せた高校球児みたいに汚れている。担架からだらんと伸びた腕から滴り落ちる血と、饐えた鉄の臭いが千紘の脳内をクラクラと刺激した。さっきから寒気が止まらない。もしかしたら、軽く熱も出ているかもしれない。
どれくらい歩いただろう。病院に辿り着くまでに、千紘の足は棒のようになってしまった。仮面の集団は、さすがに病院の中までは入らなかった。敷地内にたどり着くと、玄関の前で、気の弱そうな白衣の医師が佇んで待っていた。何となく、小学校の頃の担任に似ている。朦朧としてきた頭で、千紘はそんなことを思った。
「先生、お願いします」
再びそう言われると、白衣の男性は黙って頷き、鬼の仮面を受け取った。院内からやってきた看護師たち数名が担架を受け取り、手際良く運んで行く。これから何が行われるのだろう? 治療……ではないような気がする。仮面の下で、千紘は顔を青くした。
「やれやれ……」
裏切り者を引き渡した仮面の軍勢たちは、皆リラックスしたように座ったり、タバコを取り出したりして体を休めた。千紘も正直、クタクタだった。出来ることなら横になって寝てしまいたい。屋根のあるところで蹲っていると、近くにいた仮面たちの雑談が聞こえてきた。
「もう歳なんでしょうなぁ。久しぶりで、思うように体が付いていきませんわ。わはは」
声からして、中年男性だと言うことは分かった。男はその場で、まるで一仕事終えたみたいな口調で、ゆっくりと屈伸運動を始めた。隣にいた長身の仮面が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「確かに最近じゃ、珍しいですね。脱走者が出るなんて、いつ以来だろう? 私の監督不行届です。誠に申し訳ない」
「いえいえ……監督が謝ることじゃない」
「皆様のお手を煩わせてしまった」
「とんでもない。実の話、ワシらも山狩は楽しみにしとるんだ。監督は頑張ってるじゃないですか。うちの息子も来年で高校生だぁ。監督、よろしく頼んますよ」
「いやはや……恐縮です」
隣にいた仮面が顔の前で手を振り、愛想笑いした。千紘は思わずあっと声を上げるところだった。初めは分からなかったが、この声。野坊監督の声に間違いない。千紘は思わず肩をすくめ、茂みの影に身を寄せた。冷静に考えればこっちも仮面を被っているので、素性がバレることはない……はずなのだが。
「あ……そうだ」
幸いにも2人はすぐ後ろにいる千紘に無頓着だった。野坊の隣にいた男が思い出したように顔を上げた。内緒話でもするかのように、野坊に顔を近づけ小さな声で囁く。茂みの陰で、千紘は耳を澄ました。
「事務の佐々木さんが言ってたんですがねぇ。実は町に数名、部外者がいるようで……何でも探偵だとか」
そう言って彼はズボンのポケットから、しわくちゃの、濡れた写真を二枚、取り出した。野坊が怪訝そうな声を出した。
「探偵?」
「ええ。誰に雇われたんだか、どうもアンタ、監督のことを探っているようです。気をつけた方が良いですよ。これが顔写真です。名前は多々良と古林」
「なるほどな……ありがとう」
「あぁ、それともう1人」
男はポケットから、さらにもう一枚の写真を取り出した。
「こっちは、真堂センセから正式に排除命令が出てます。見つけ次第贄に捧げろとのことです。女の記者で、名前は上野千紘」




