第一部第二話 依代
その龍は、天井に開いた穴を見上げていた。
そこから、まれに人間が落ちてくる。都合よく怯えてくれれば、そのまま丸呑みにできる。
しかし今夜、龍が見ていたのは獲物ではない。穴の向こうに瞬く星だった。
自らの死期が近いことを、悟っていた。
龍の翼には、無数の穴と古傷が残っている。人間との戦で受けた傷だ。
あれから、二千年ほどになるか。
当時の人間は、石斧なんぞを武器にしておった。龍は武器ごと丸呑みにし、胃の中でまとめて消化した。
今の人間がシラスの踊り食いをするより、よほど罪深くはない。
とはいえ、人間はさすがに増えすぎた。
もはや、少々間引いたところでどうにかなる数ではない。たまに街の近くをうろついて人間どもを怯えさせ、その褒美として一人さらって帰る程度のものだった。
選ぶなら、やはり若い方がいい。適度に太っているとなおよい。
痩せた雌は駄目だ。化粧と言ったか。あれが非常にまずい。
若く、適度に太り、化粧をしていない雌がよい。
子供も駄目だ。食うところが少なすぎる。
丸呑みも試したが、あれもいかん。骨が細く、かえって喉に刺さる。そうなれば、ねぐらへ戻って大量の木の葉を食い、骨を胃まで押し流さねばならなかった。
それにしても、腹が減った。
いや、もう歳なのかもしれん。空腹なのか、死にかけているのか、自分でもよう分からぬ。
次に落ちてくる人間に見込みがあれば、例の秘術を試してやろう。
成功するのは、一万人に一人。
地上にはあれだけ人間がうようよしておるのだ。一人くらい、ここへ落ちてくる阿呆もいるじゃろうて。
もう、龍の姿を保ち続けることに魂が疲れてきておる。
その証拠に、腹の歌まで聞こえてきた。
――生きたきゃ食えよ、何でもな。
――喰わなきゃ、おまえが食われど。
やはり、食物連鎖はよい。
食ったものの知識を得られるからな。
もっとも、わしが人間ごときを食ったところで、知識の程度が違いすぎて大した足しにはならん。
火トカゲほど大きな獲物なら、記憶まで流れ込んでくる。肉もうまい。
入ってくる知識は、大抵ろくでもないものだったが。
もし人間が、わしの肉を食ったなら――。
いや。起こりもしないことを考えて、どうする。
わしはこの洞穴で、干からびて死んでいくのじゃ。
ドサッ。
何かが落ちてきた。
人間か。
男。
右手と左足がない。喉も潰れておる。
望みは薄い。
こいつは、わしの胃袋行きじゃな。
――生きたい。
声ではない。
落ちてきた人間から、剥き出しの思念が流れ込んできた。
たった一言。
だが、言葉にするよりもはるかに強い。
これは、もしかすると……もしかするかもしれんぞ。
「聞こえるか、そこの人間。お主、自分がどこへ落ちたか分かっておるか?」
少年はわずかに顔を上げた。
「そうじゃ。龍の巣の中じゃ。最初はお主を食おうと思ったのだが……なんともまあ、生への渇望だけは並々ならぬものがある」
龍は、少年の顔をのぞき込んだ。
「そこで相談じゃ。お主、生きたいか?」
少年は、かろうじて頷いた。
「声は出ぬか。気にするな。お主が思うだけで、わしには聞こえる。なんといっても、わしは万物の霊長様じゃからな」
本来は猿どもの自称らしいが、わしの方がふさわしいので貰った。
――勝手な奴だ。
「聞こえておるぞ」
龍は鼻を鳴らした。
「よし。こちらまで来い」
少年は地面へ残った左手をついた。
右手と左足を失った身体は、思うように動かない。それでも残った手足を使い、地面を這い始めた。
少年の進んだあとには、血と泥の混じった細い筋が伸びていく。
「もうよい」
龍は途中でそう告げた。
「人間にしては、よう頑張った。このまま死ね」
それでも、少年は止まらなかった。
指を地面へ食い込ませ、身体を引きずる。
何度崩れても、もう一度動いた。
そして、ついに龍の腹元まで辿り着いた。
「ほう。やるではないか。この男なら、例の毒にすら耐えるかもしれん」
――しゃべりすぎだ。
「何じゃと?」
龍は大きく首をもたげた。
「わしがこの巣穴にいて、何年だと思う? 二百年じゃぞ、二百年! 一人遊びなど、とっくの昔に飽きておる。たまに落ちてくる愚か者の戯言を聞くくらいしか、楽しみがないのじゃ」
龍は、ふんと鼻息を漏らした。
「要するに、話し足りんのだ」
少年は答えなかった。
答える体力すら、もう残っていない。
「ほれ。腹の鱗が一枚、割れて剥がれておるじゃろう。その下に肉が見える」
龍の声から、ふざけた調子が消えた。
「食らいつけ」
少年が、わずかに目を動かした。
「その肉を食って、万が一にも生き残れば、わしの力と記憶の一端がお主へ移る。身体も多少は修復される。失った手足まで生えるわけではないがの」
少年から、再び思念が流れ込んできた。
裏切られた。
張本人を探し出し、話を聞く。
そのうえで、場合によっては――殺す。
「人間は、まどろっこしいのう。さっさと殺して食えばよいものを。ああ、同族食いは禁忌だったか」
龍は、剥き出しになった自らの肉を示した。
「少なくとも、喋れる程度には回復するじゃろうて」
少年は、龍の肉へ歯を立てた。
硬い。
そのうえ、弾力が凄まじい。歯を立てても、なかなか噛み切れない。
「ああ、龍の肉など食わせるものではなかったか。くすぐったいわ!」
それでも、少年はやめなかった。
――生きる。
生きて、復讐する。
その思念とともに、さらに深く歯を食い込ませた。
プチッ。
何かがちぎれた。
龍は尻尾を、バシン、バシンと地面へ叩きつけた。
少年は残された顎の力を、肉を剥ぎ取ることだけに使い果たした。
ブチ、ブチと肉を引きちぎり、噛むこともできないまま、根性で丸呑みにする。
次の瞬間、少年の身体が大きく跳ねた。
残った左手で喉をかきむしり、声にならない息を漏らして悶える。
やがて、その身体は力を失い、地面へ倒れ込んだ。
動かない少年を見下ろし、龍はため息をついた。
「はぁ……失敗じゃったか」




