第一部第一話 新米士官初陣
——13:40——
青髪の若者が、地中に開いた大穴を覗き込んでいた。
十八歳の小隊長、アレン少尉。その隣には、四十代の先任曹長ブルックが立っている。二人の後方を固めるのは、四十名の小隊から選抜された十二名の古参兵だった。
彼らの制服には、長年の戦闘で染みついた泥と血の跡が残っていた。その中で、着任したばかりのアレンの制服だけが不自然なほど新しい。
穴の入口を包囲する兵士たちの姿は、何かの侵入を警戒しているというより、中にいる何者かを決して外へ出すまいとしているように見えた。
底は見えない。
岩壁が幾重にも重なりながら、暗闇の奥へ続いている。
「巨大な蟻の巣みたいだな」
アレンが身を乗り出した瞬間、背中に強い衝撃を受けた。
足元が消え、身体が大穴へ放り出される。
「なっ――」
落下しながら身体をひねり、岩壁へ手を伸ばす。しかし右手は岩肌の表面を削っただけで滑り落ちた。
次の瞬間、岩壁から突き出していた石の棘が、アレンの左手を貫いた。
激痛と引き換えに、落下だけは止まった。
左手を貫く石の棘にぶら下がりながら、アレンは頭上を見上げた。
穴の縁から、ブルックと十二名の兵士がこちらを見下ろしている。誰一人として、助けるための手を伸ばしてはいない。
ブルックがライフルを構えた。
「……すまん、隊長」
「ブルック?」
——12:30——
「ごちそうさん。明日も頼むぜ、おっちゃん」
アレンは昼食の空箱を閉じ、向かいに座るブルックへ差し出した。
「帝国大学を主席で出た士官様が、いつまで人に弁当を作らせるつもりだ」
「大学にいる四年間だけって約束だったろ」
「卒業してから半年経っているぞ」
ブルックは文句を言いながらも、空箱を受け取った。
アレンが幼年学校へ入るより前から、ブルックは彼を知っている。幼いアレンが訓練場へ忍び込み、自分の背丈ほどもある木剣を振り回していた頃からだ。
周囲の誰もが、アレンはそのまま帝国騎士団へ進むものと思っていた。
ところがアレンは、帝国幼年学校を二年飛び級で修了すると、帝国大学戦略研究科へ進学した。さらに主席で卒業し、十八歳で少尉へ任官され、ブルックたちの小隊長として戻ってきた。
「この任務が終わったら、親父のところへ行ってみるよ」
アレンが何気なく言った。
「お前の親父が住んでいるのは、騎士団領と旧イベニティ領、それに竜族領まで領有権を主張している山奥だろう。里帰り気分で行く場所じゃない」
「だから迎えに行くんだよ。放っておいたら、一生山から下りてこないぞ」
アレンの母親は現在、旧イベニティ領にいる。魔法とLoTaSの相互関係を研究し、双方の技術を組み合わせられないか調査しているらしい。
父親は、それよりもさらに人里から離れた山奥で暮らしていた。
「母さんも旧イベニティ領から戻らないしな」
アレンは小さく笑った。
「そろそろ家族三人で飯を食うくらい、許されてもいいだろ」
ブルックは何も答えず、空箱を袋へしまった。
——12:45——
昼過ぎ、アルディオン帝国陸戦部隊第42小隊は、旧イベニティ領軍との短い交戦に入った。
敵部隊はすぐに後退したものの、第42小隊にも三名の負傷者が出た。
「負傷者を後方へ運ぶ。残りは周囲を警戒しろ」
アレンの命令に、一部の古参兵が露骨に顔をしかめた。
「三人やられた程度で、また戦線を離れるんですか」
一人が、周囲に聞こえるようにつぶやいた。
「撤退じゃない。負傷者の搬送と部隊の再編成だ」
アレンは教本どおりに答えた。
生存者ならば応急処置を施し、後方へ搬送しなければならない。死者であれば遺体を回収し、埋葬する必要がある。
三名という数字は、四十名の小隊にとって決して軽くなかった。
だが、実戦を生き延びてきた古参兵たちは、それを新米士官の臆病さと受け取った。
「大学では、そう習うらしい」
別の兵士が笑った。
「机の上には『良い参謀とは』とか、『人を束ねるリーダーシップ』なんて本が積んであるんだろうよ」
押し殺した笑いが広がった。
「口を慎め!」
ブルックの一喝で、兵士たちは黙った。
しかし、その顔から不満が消えたわけではなかった。
——13:00——
第42小隊は一時的に戦線から離れ、三名の負傷者の治療を始めた。
アレンとブルックが率いる四十名の部隊は、アルディオン帝国陸戦部隊歩兵大隊、チャーミング大佐の指揮下にある。
この小隊は、前任小隊長を戦闘で失っていた。
前任者はブルックの目の前で頭部を撃ち抜かれ、即死した。その後、生き残った兵士に別部隊の新人や中堅兵が加えられ、急ごしらえの四十名が編成された。
兵士同士の連携は悪く、指揮官への信頼もない。
本来なら一度後方へ下げ、実戦を知る将校が部隊を再編成するべきだった。しかし、補給不足と司令部の混乱により、それすら行われていない。
そんな小隊へ送られてきたのが、十八歳のアレンだった。
帝国大学を主席で卒業した新米少尉。
帝国にとっては、若く優秀な士官の存在を宣伝するための格好の材料だった。
しかし兵士たちにとっては、血の臭いも知らない若造に命を預けろと言われたにすぎない。
ブルックは兵士たちから慕われていた。
前任小隊長を失ったあとも部隊を支え、何度も彼らを戦場から生還させてきたからだ。
アレンが来るまでは、事実上ブルックがこの小隊を率いていた。
士官に対する不満は、とうに限界へ近づいていた。
——13:10——
負傷者の治療中、周囲を捜索していた古参兵から報告が入った。
「先任曹長、妙な穴があります」
ブルックは数名の兵士を連れ、現場へ向かった。
地面には、巨大な生物が掘り抜いたような穴が開いていた。入口の周囲には、焼け焦げた岩と巨大な爪痕が残されている。
それを見た古参兵の顔色が変わった。
「ここはドラゴンの巣穴です」
「確かなのか」
「昔、似たものを見ました。もし中に成体がいるなら、この小隊が壊滅するどころの話じゃありません。下手をすれば、帝国軍と魔導国軍が総力を合わせても、勝てるかどうか……」
「戦時中に敵の戦力を当てにするでない!」
ブルックは一喝した。
だが、古参兵の警告を無視することもできない。
ドラゴンの巣穴が事実なら、放置するにも攻撃するにも、正確な情報が必要だった。
ブルックはアレンへ報告するため、急いで小隊の野営地へ戻った。
——13:30——
報告を受けたアレンは地図と方位を確認し、巣穴の調査を決めた。
「小隊全員を動かす必要はない。経験のある者を十二名選抜する」
「承知しました、隊長」
ブルックは敬礼した。
そのとき彼が浮かべた表情を、アレンは見ていなかった。
アレン、ブルック、そして選抜された十二名の古参兵が巣穴へ向かった。残された兵士たちには、負傷者の護衛と周囲の警戒が命じられた。
巣穴へ続く道を歩きながら、アレンは何度も地図を確認した。
「入口を確認したら戻る。中には入らない。ドラゴンを刺激するな」
「教本どおりですな」
背後の兵士がつぶやいた。
何人かが小さく笑った。
アレンは振り返らなかった。
彼らが自分を信用していないことは知っている。それでも実績を重ねれば、いずれ認めてもらえると思っていた。
特にブルックだけは、最後まで自分の味方でいてくれる。
そう信じていた。
——13:40——
「ブルック?」
左手を貫く石の棘にぶら下がりながら、アレンはもう一度その名を呼んだ。
銃口が自分へ向けられている意味を、アレンはまだ理解できなかった。
「お前が悪いんじゃない。本当にな」
ブルックの顔が歪んだ。
「だが、お前の命令で勝てば、お前の功績になる。負ければ、死ぬのは俺たちだ」
「何を言って――」
「俺はもう、若い士官の後始末だけをして終わりたくない」
ブルックは安全装置を外し、セレクターを単射に合わせた。
「今度こそ、俺がこの小隊を率いる」
銃声が響いた。
銃弾がアレンの右腕を撃ち抜き、砕けた肉と骨が暗闇へ落ちていった。
十二名のうち七名が、それに続いて発砲した。歓声を上げる者もいた。
だが、残る五名は銃口を下げたまま動かなかった。
人間が抉れていく姿に耐えられなかった者。
いくら憎くても、これはやりすぎだと感じた者。
命令に逆らえば自分も殺されると知りながら、それでも引き金を引けなかった者たちだった。
何発目かの銃弾が、アレンの左膝を砕いた。
新品だった制服は血に染まり、いくつもの穴が開いている。右腕はほとんど原形を失い、左脚も動かない。
奇跡的に、顔だけは傷ついていなかった。
アレンの体重を支えていた石の棘に、亀裂が走る。
ブルックはライフルを下ろした。
「隊長は奮戦の末、ドラゴンの巣穴へ落下した。生死不明――上官様には、そう報告しておきます」
石の棘が軋んだ。
「だから安心して、落ちてください」
亀裂が根元まで達し、石の棘が折れた。
「ブルック……」
アレンの身体は、底の見えない暗闇へ消えていった。




