第四話 聖地(こくぎかん)の決戦
東北の古刹での事件から一週間ほどが経ち、大相撲五月場所が始まった。
竜炎山は初日から好調を保ち、十四日目を終えて十二勝二敗。同じ成績で優勝争いの先頭に並ぶ横綱、雷王山との結びの一番に勝てば、二場所連続の優勝が決まる。
迎えた千秋楽の昼、エルザは相撲部屋へ大きな紙袋を抱えて現れた。
「差し入れ。勝った後に食べる団子よ」
エルザが紙袋を差し出した。
「まだ勝つと決まったわけではない」
竜炎山は生真面目に答えた。
「勝つつもりがないなら、私が全部食べるけど」
「それは困る」
竜炎山は紙袋を受け取り、棚の一番上へ置いた。
「ちょっと、なんでそこに置くのよ」
「取組前に食べぬようにな」
「私が取れない高さに置いたでしょ」
「跳べば届くだろう。勇者なのだから」
「団子のために勇者の加護を使わせる気?」
「それほどの価値がある団子なのだろう?」
「それはそうだけど……! 戻ってきたら絶対、踏み台を持ってこさせるから」
「ふっ、好きにしろ。だが、取組が終わるまではそこに置いておく」
竜炎山は小さく息を吐き、右の拳を一度だけ握り締めた。
「緊張してる?」
「している」
あまりに素直な返事に、エルザは目を丸くした。
「意外。あんたでも緊張するのね」
「大事な一番だからこそ、恐れがある。恐れがないのは、相手を見ていない証拠だ」
「じゃあ、ちゃんと怖がって、ちゃんと勝ちなさい」
「承知した」
「負けたら団子は私のものだから」
「それは勝たねばならんな」
だが、その日の夕方。
結びの一番を目前にした国技館から、すべての音が消えた。
「よりによって、本場所の最中に攻めてくるなんていい度胸じゃない!」
エルザは神格鑑定局の特製スーツを羽織り、東京・両国国技館の地下通路を疾走していた。いつものトレンチコートとは違い、局の防弾防魔仕様のタイトなスーツだが、背中には変わらず白銀の大剣が背負われている。
黒祖会の調停者が言い残した「最終段階」の舞台は、他でもない大相撲の聖地、国技館だった。
結びの一番までは、あと三番。通常の進行なら二十分もない。
だが、その国技館は今、黒祖会によって現実から切り離されようとしていた。
水面下で、国技館を囲む結界が内側から書き換えられ、会場全体が異空間へと隔離される異常事態が発生したのだ。
客席の数千人の観客は、黒祖会の術式によって一時的な仮死状態(昏睡)に陥っている。静まり返った館内。土俵の上には、不気味な黒い法衣を纏った男――黒祖会の調停者が、薄笑いを浮かべて立っていた。
その頭上には、虚空に開いた巨大な「裂け目」があり、そこから黒い神気が絶え間なく溢れ出している。
取組用の締込を締めた竜炎山は、一人、支度部屋に立ち尽くしていた。壁際には、土俵入りを終えた化粧まわしが掛けられている。
彼の周囲では、付け人も、部屋の親方も、周囲の力士たちも、みな床に崩れ落ちて眠っている。呼出の太鼓も止まっていた。竜炎山だけが、自身の身に宿る神気の加護によって、辛うじて意識を保っていた。
館内時計の針は、静かに、しかし確実に前へ進んでいる。
眠る師匠の横顔を、竜炎山はしばらく見つめた。
――土俵に上がれば、逃げ場はない。だからこそ、自分が何者かを定められる。
若い頃に叩き込まれた言葉が、腹の底から浮かんできた。入門したての彼は、身体だけが大きくて、心の細い少年だった。土俵を「勝ち負けを決める場所」だと思っていた。師匠は何度も同じことを言い続けた。違う。土俵は、自分を定める場所だ、と。
竜炎山は、化粧まわしの飾り緒を一度強く握り締めてから、そっと手を離した。
「行くか」
誰に告げるでもなく、呟いた。
地下通路を抜けてエルザと合流したのは、ほぼ同時だった。
「遅い!」
「すまぬ」
「謝ってる場合じゃ――あと、十七分しかないわよ」
エルザは端末の時刻を突きつけた。竜炎山は頷き、花道の入り口から館内を見渡した。
静寂の中、土俵の上で調停者が二人を見下ろしている。
「ついにこの時が来ました。国技館とは、日本最大級の『信仰の集積地』。ここで千秋楽の熱気が最高潮に達した瞬間、聖地の力を反転させ、我が組織の最高神を現世に完全顕現させる」
調停者がゆったりと両腕を広げた。
「そのために必要なのは、最後の一押しだけ。この国技館に満ちた『勝利への渇望』を、すべて喰い尽くす神が降りればいい」
「ふざけた真似をしてくれるわね!」
エルザが地下通路から土俵溜まりへと飛び出し、大剣を引き抜いた。
「どすこいの神聖な土俵を、あんたたちのカルトの祭壇にさせるもんですか!」
「おや、勇者様。ですが、手遅れですよ」
調停者が嘲笑う。土俵の周囲には黒い神気の嵐が吹き荒れ、エルザの『勇者の加護』の光さえも弾き返されてしまう。
「さあ、竜炎山。あなたにも聞いておかなければ」
調停者の目が、花道に立つ竜炎山へと向いた。
「あと十四分で、あなたは不戦敗になります。今日を逃せば、横綱への道はどうなるか――」
調停者は片手をあげ、指を折り始めた。
「我が組織は、あなたの経歴を丁寧に調べました。三年、大関の地位に留まり続けた。毎場所、わずかなところで届かなかった。それもすべて、鑑定局の任務が割り込んできたからではないですか」
竜炎山は黙って歩み続けた。
「力士として生きたいのなら、今すぐ花道へ戻ればいい。取組まで間に合う。顔も知らぬ数千人のために、あなたが人生を捨てる理由がありますか。彼らを救っても、あなたの横綱昇進を返してはくれませんよ」
「それが、お前たちの考える価値というものか」
竜炎山は立ち止まった。
「勝者には価値があり、敗者には価値がない。強者の命は重く、弱者の命は軽い。だから番付の高い者の夢が最優先されるべきだと」
「違いますか? あなた自身が、それを信じているから上を目指してきたのでしょう」
「否」
竜炎山の声は、穏やかだが揺るがなかった。
「番付は、力士の今の強さを示す目安だ。人の価値ではない。大関も、序二段も、土俵に上がればどちらも力士だ。それと同じく、鑑定士の等級も、神の存在価値そのものではない」
「美しい言葉ですね。では、問いましょう。その言葉と引き換えに、あなたは今日の一番を手放せますか」
竜炎山はゆっくりと土俵へと歩み出た。驚くべきことに、調停者が張った黒い神威の障壁が、竜炎山が一歩踏み込むたびに、パキパキと音を立てて割れていく。
「国技館の土俵には、相撲の祖神をはじめ、八百万の神々の守護がある」
竜炎山は土俵の中央で深く腰を割った。
「選びなさい、竜炎山。世界を守る鑑定士としてここに残るか、夢を追う力士として花道へ戻るか」
「選ぶ必要はない」
竜炎山は正面を見据えた。
「土俵の上で人を守るのも、土俵の外で神を鎮めるのも、我には同じことだ。我は神格鑑定士である前に力士であり、力士であるからこそ鑑定士なのだ」
「……言いましたね」
調停者の口の端が歪んだ。
「では、そちらの勇者様にも尋ねましょう」
その視線が、エルザへ移る。
「あなたは、自分を人間だと思っているのですか」
「何よ、急に」
「異世界で魔王を倒し、救世主と呼ばれ、人々の祈りと感謝を一身に集めた。こちらの世界へ渡った今も、その力は失われていない」
調停者は、値踏みするようにエルザを見た。
「人間の肉体に、『勇者』という信仰と役割が定着した存在。神格鑑定局があなたの正式分類を保留している理由も明白です。測れないのではない。認めるのを恐れているのですよ」
エルザの大剣を握る指に、わずかに力が入った。
「あなたは人間ではない。異界降臨型の勇者神格――新たな神を迎えるための、これ以上ない器だ」
「私を、あんたたちの神様にするつもり?」
「神にするのではありません。本来の姿へ戻して差し上げるのです」
調停者が黒い手を差し伸べた。
「竜炎山の隣で剣を振るう外部契約鑑定士などという、卑小な立場を捨てなさい。我らがあなたを正しく鑑定し、真の神名を与えましょう」
「お断りよ」
エルザは迷わず大剣を構えた。
「私は、誰かに名前をつけてもらうために戦ってるんじゃない」
「では、あなたは何者なのです」
一瞬だけ、エルザは答えなかった。
竜炎山が横目で彼女を見た。だが、代わりに答えようとはしなかった。
やがてエルザは、剣先を調停者へ向けた。
「今はまだ、全部は分からない」
その声には、以前のような苛立ちではなく、確かな意志があった。
「でも、あんたたちに決められることだけはない。私は、私が選んだ相手を守る。それでじゅうぶんよ」
竜炎山が、わずかに頷いた。
調停者は差し伸べていた手を下ろした。
「では、どちらも持ったまま、すべてを失えばいい」
頭上の虚空に亀裂が走り、裂け目が一気に広がった。そこから溢れ出した黒い神気が、人の形を結び始める。
それは、人の顔をしていた。
いや、正確には、無数の「顔」を持っていた。歓声を上げる観客の顔、勝ち名乗りを受ける力士の顔、土俵に沈む敗者の顔。勝利への渇望と、敗北への恐怖が一塊になって肉体を得た、黒祖会が国技館の信仰を歪め、強引に形を与えた疑似神格だった。
『勝者のみが神となる。敗れた者は消えよ。これは、お前たちが決めたことだ』
その声は、かつてここで響いた無数の歓声と、怒号と、溜め息を反転させたような、不快な反響を帯びていた。
「鑑定状、読み上げる」
竜炎山は土俵脇の塩を一掴みし、頭上へ高く撒いた。
白い粒が黒い神気を弾き、土俵の四方へ降り注ぐ。俵が一本ずつ静かに光を帯び、円形の土俵全体が巨大な鑑定印へと変わっていった。
光の内側で、疑似神格を形作る無数の顔が透けて見えた。
勝ち名乗りを受けた力士へ向けられた歓声。敗れた者へ向けられた落胆。次こそは勝ってほしいという願い。負ければ価値を失うという恐れ。
それらの感情が黒い糸となり、観客席から疑似神格の胸元へ流れ込んでいる。
だが、その中心にあったのは、勝利を讃える純粋な熱ではなかった。
敗者を見下し、消えて当然だと決めつける歪んだ執着だけが、黒祖会の術式によって選び取られ、巨大な核へ編み直されていた。
「勝利への願いだけではないな」
竜炎山は黒い糸の流れを目で追った。
「敗れることへの恐怖と、敗者を切り捨てる思い。それを集め、人為的に神格へ育てたか」
さらに、疑似神格から伸びた糸が、眠る観客たちの胸元へ突き刺さっている。吸い上げられているのは信仰だけではない。生命力そのものだった。
「この土俵と、ここに積み重ねられたすべての取組を証人とする」
竜炎山の瞳に、青白い炎が灯った。
「対象の正体は、黒祖会が国技館に蓄積された勝敗への執着と信仰の熱量を素材として作り上げた、勝者信奉型の疑似神格。分類は、人為生成型疑似神格。勝敗への執着を媒介とする寄生信仰種。等級二級、脅威度A。観客の生命力を現在も吸収中。回避、協定、封印の猶予なし。撃滅対象と認定する」
『黙れ。等級など関係ない。ここに集まった者たちは皆、勝者を望んでいた。敗れた者が消えることを、心のどこかで認めていた。だから私は生まれた』
「その通りだ」
竜炎山は穏やかな声で言った。
「人は勝ちたいと思う。勝った者を讃える。それが相撲の熱だ。だが、負けても土俵に戻ってくる。また戦う。また敗れる。そしてまた立つ。その積み重ねがなければ、誰も土俵を見に来ない。お前は熱の半分しか見ていない」
『負けた者は忘れられる。それが証拠だ』
「忘れられても、また踏む四股に価値がある。人の価値は勝敗の記録ではない」
調停者が叫んだ。
「問答はそこまでにしろ! さあ、もう七分しかない! 今頃、あなたの夢は砂時計の底へ落ちていく!」
館内の大時計が、エルザの視界の端に映った。残り六分。
「今戻れば、まだ間に合う!」
エルザは黒い触手を切り払いながら叫んだ。疑似神格が放つ念の糸が、床に張り付いた観客たちの身体から生命力を吸い始めていた。このままでは戦闘が終わる前に、全員の力が尽きる。
「どすこい、ここは私が引き受ける! あんたは土俵へ行きなさい!」
「ここが土俵だ」
竜炎山は穏やかに答えた。
「だって、今日勝てば優勝でしょ! 横綱だって――」
「観客を置き去りにして上がる土俵に、勝ちはない」
竜炎山は腰を深く落とした。
「優勝は、また目指せる。横綱も、敗れたなら再び登ればよい。だが、ここにいる者たちの命に、次の場所はない」
調停者が嬉しそうに笑った。
「これであなたは不戦敗だ。長年の夢を、自ら捨てたのですよ」
「否」
竜炎山の両足が、土俵を深く踏み締めた。
「捨てたのではない。守ったのだ。我が相撲を」
白い神気が、土俵いっぱいに満ちた。
館内の大時計が、結びの一番の開始予定時刻を指した。
竜炎山は一瞬だけ、赤く染まった時計を見上げた。それから、正面の疑似神格へと視線を戻した。
「エルザ! 奴の核はあの胸の中心にある! 我が抑えた隙に跳べ!」
「言われなくたって! 信じてるわよ、どすこい!」
竜炎山は仕切り線に手を突いた。
「はっけよい――」
疑似神格の黒い糸が、竜炎山を押し潰さんと一斉に迫る。
「――のこったあああああッッ!!!」
爆発的な突進。竜炎山の『ぶちかまし』が、空間そのものを震わせて疑似神格の巨躯へと炸裂した。黒い念の塊が、竜炎山の押す力の前でずるずると後退していく。観客席の椅子が衝撃で揺れる。
「バカな! 神の念を、肉体で押し返すとは!」
調停者が声を荒らげた。
「今だ、エルザッ!!」
竜炎山が疑似神格の腕をがっちりと両手で抱え込み、その動きを完全に封じた。大相撲の究極の組み手――『がっぷり四つ』。
竜炎山の全身から白い神気が立ち昇り、疑似神格の黒い念を四方から固定する。人と神の境界が、この土俵の上でぴんと張られた糸のように定まった。
「これで、理を固定した!」
「いっけええええッ!!」
エルザは竜炎山の肩を踏み台にして天高くへと跳躍した。大剣を両手で構え、勇者の全魔力を刃に注ぎ込む。白銀の輝きが黄金に変わり、疑似神格の核を貫く一点を捉えた。
「神格鑑定士を、人間の底力を――舐めるんじゃないわよおおおッ!!」
光の彗星となったエルザが、疑似神格の胸の中心へと真っ直ぐに突き刺さった。
「――『人と神の境界』!!」
それは二人が完成させた、鑑定と撃滅を一つにした連携術だった。
閃光が館内を包んだ。黒い念の塊が内側から崩れ、無数の顔が一つずつ解け、ただの光の粒になって散っていく。調停者が自らの術式のバックラッシュに耐えきれず、絶叫と共に灰となって消え去った。
黒祖会にも、無から神格を生み出す技術はない。できるのは、既存の怨念や祭具、古神、信仰の集積へ偽りの神名を接ぎ木し、不安定な疑似神格へ変えることだけだった。その代償を、今度は術者自身が支払ったのだ。
疑似神格を構成していた黒い念が崩れ、眠っていた観客たちの胸元から糸が抜けていく。




