第三話 古刹の影と黒い糸
「それにしても、山登りなんて聞いてないわよ、どすこい!」
新緑が目に染まる初夏の山道。エルザはトレンチコートを脱ぎ捨て、大剣を杖代わりにしながら不満を爆発させていた。
東京湾での激闘から一週間。神格鑑定局から二人に下された次なる任務は、東北の山奥にひっそりと佇む古刹「黒鉄寺」の調査だった。
近年、この山一帯の霊素濃度が異常に上昇し、周辺の村では「夜な夜な巨大な蜘蛛の糸が空を覆う」という怪現象が噂されていた。
「これもしごとのうちだ、エルザ。山を踏み締めるのは、足腰の良い鍛錬になる。それにしても、
その荷物、さっきから妙に重そうだな」
「任務に必要なものよ」
「団子が三箱見えるが」
「山頂で食べる分、下山中に食べる分、非常食」
「非常食が最も多いようだが」
「細かい男は横綱になれないわよ」
「初耳だ」
竜炎山は息一つ乱さず、巨大な雪駄で険しい石段を着実に登っていく。その手には、東京湾で遭遇したカルト組織『黒祖会』の残した黒い鑑定状の断片が握られていた。
「局の記録では、この寺の地下には、平安時代から続く織物の守護神が眠っている。かつては山麓の機織り職人たちに祀られていたが、集落が途絶え、制御できる祭祀も失われたため、寺の地下に鎮められたらしい」
「危険だから封印されたわけじゃないの?」
「残された鑑定書には、脅威度Cとある。人に敵対した記録はない。ただし、長い年月で在り方が変質している可能性はある」
ようやく石段を登り切ると、エルザはその場に大剣を突き立てた。
「着いた……。山頂用の団子を解禁するわ」
「先に周囲を調べる」
「じゃあ一串だけ」
「調査が先だ」
「神格より団子に厳しいわね、あんた」
山頂に辿り着くと、そこには半ば崩壊した山門と、不気味な静寂に包まれた本堂があった。だが、何かがおかしい。寺の周囲の木々には、白く粘着質のある「糸」がびっしりと張り巡らされていた。
「……静かすぎるわね。人の気配が全くない」
エルザが鋭い目を光らせ、大剣を構えた。二人が本堂の扉を押し開けた、その時だった。天井の暗闇から、無数の「赤い目」が一斉にこちらを見下ろした。
キチ、キチ、キチキチキチ――!
「うわっ、蜘蛛!?」
エルザの叫びと同時に、天井から人間の頭ほどもある巨大な蜘蛛の群れが降ってきた。ただの虫ではない。それぞれの背中には、苦悶する人間の顔が浮かび上がっている。自然に生まれたものではない。何者かの術式によって作り変えられた『眷属』たちだった。
エルザが大剣を振り上げた瞬間、竜炎山の太い腕がその進路を止めた。
「待て。こやつら、我らを喰おうとしているのではない」
「どう見たって襲ってきてるでしょ!」
「足を見ろ」
蜘蛛たちの脚には、黒い糸が何重にも巻きついていた。自ら飛びかかっているのではない。天井の奥から伸びる糸に引かれ、無理やり動かされている。
背中に浮かぶ人の顔も、苦しんでいるのではなかった。口が、同じ言葉を繰り返している。
『ほどいて』
『ほどいて』
『主様を、返して』
エルザは大剣の刃を返した。
「先に言いなさいよ!」
白銀の光が、蜘蛛の身体ではなく、脚を操る黒い糸だけを切り裂いた。
「はああッ!」
エルザの白銀の斬撃が空を舞い、迫り来る蜘蛛たちの糸を次々と一刀両断にしていく。しかし、切っても切っても、奥の暗闇から無限に湧き出してくる。
「キリがないわ! どすこい、奥に親玉がいる!」
「うむ。ここは我に任せて、お前は奥へ進め!」
竜炎山が前に出た。彼は両手を大きく広げ、本堂の床板が抜けんばかりの勢いで仁王立ちになった。
「はっけよい――!」
竜炎山が強烈な『突っ張り』を繰り出した。手のひらから放たれるのは、神聖な空気の弾丸。一撃ごとに数十匹の蜘蛛の黒い糸が吹き飛ばされ、本堂の中に安全な一本の道が切り開かれる。
「助かる! 後で団子奢りなさいよ!」
エルザはその隙間を縫うようにして、本堂の奥、地下へと続く隠し階段へと飛び込んだ。地下の洞窟は、巨大なドーム状の空間へと繋がっていた。そこは、数千、数万の黒い糸で編まれた、巨大な「繭」が鎮座する祭壇だった。
繭の前には、東京湾で見かけたあの片目のスーツ男――黒祖会の調停者が、妖しく光る呪符を掲げて立っていた。
「あの蜘蛛たちを操っていたのは、やっぱり黒祖会だったのね」
「おや、勇者様。お一人ですか? あの力士は蜘蛛の餌食ですかね」
「舐めないで。あいつがそんなタマじゃないこと、あんたが一番知ってるでしょ」
エルザが大剣に魔力を込める。白銀の光が、洞窟の闇を照らし出す。
「それもそうですね。ですが、もう遅い。この地に眠る古の織守神は、我らの信仰によって生まれ変わった! 人を守り、縁を結ぶだけの古びた神ではない。因果を断ち、世界を黒く縫い潰す神――その名は『黒織神』!」
男が呪符を繭へと突き刺すと、繭が心臓のようにドクン、と大きく脈打った。
バリバリと音を立てて繭が裂け、中から姿を現したのは、上半身が妖艶な女性、下半身が巨大な黒蜘蛛という、異形の神格だった。
その手には、人間の命を吸い上げて紡がれた、不気味に明滅する「黒い糸」の束が握られている。
『我が名は……黒織神……。違う……我は……何を織っていた……? この世の因果をすべて我が糸で縫い止め、混沌の闇へと塗り潰さん……!』
放たれる神威は、東京湾の蛇を遥かに凌駕していた。洞窟の岩壁が、その圧力だけでミリミリと軋み、崩落し始める。
「くっ……!」
エルザは本能的な恐怖に身体を硬直させかけた。だが、彼女は世界を救った勇者だ。
「やれる……やるしかないのよ!」
地を蹴り、黒織神へと肉薄するエルザ。しかし、神格が指先を軽く弾くだけで、空間そのものを切り裂く黒い糸の結界が展開された。
「しまっ――」
鋭利な刃物と化した糸がエルザの皮膚をかすめ、彼女の身体が壁へと叩きつけられる。大剣が手から離れ、床に突き刺さった。
崩れた岩がエルザの頭上へ落ちた。
避けられない。そう思った瞬間、黒織神の指がわずかに動いた。
一本だけ混じっていた白い糸が岩を絡め取り、エルザの横へ落とした。
「……今、私を助けた?」
『違う……我は、すべてを滅ぼす神……』
黒織神はそう答えたが、自分の指を戸惑うように見つめていた。
『消えなさい、異世界の遺物よ』
黒織神がトドメの糸をエルザに向けて放とうとした、その瞬間。
「――ごっつあんですッ!!」
洞窟の入り口から、地響きと共に巨大な影が飛び込んできた。
竜炎山だ。全身に黒い糸を絡ませながらも、それらを引きちぎるようにして進んできた。
彼はエルザの前に立ち塞がると、両手を突き出して迫り来る黒い糸を素手で掴み取った。
「な、何だと!? 神格の因果の糸を、人間の肉体で掴んだだと!?」
黒祖会の男が驚愕の声を上げる。
「ただの肉体ではない。我が身は、土俵の八百万の神々を宿す器!」
竜炎山の掌から、強烈な摩擦熱と神聖な白煙が立ち上る。彼は糸をギリギリと引き絞りながら、黒織神を真っ正面から見据えた。
「暫定鑑定。神格鑑定士・竜炎山が読み上げる!」
竜炎山の瞳に、青白い炎が灯った。
「対象の核は、この地で機織りと人の縁を守ってきた古神。等級四級。人間への積極的な加害記録なし。対処不要、または協定対象」
黒祖会の男が声を荒らげた。
「何を言っている! それは我らが作り上げた国家転覆級の邪神だ!」
「否。お前たちが作ったのは神ではない」
竜炎山は黒織神を覆う黒い糸を指さした。
「古神の上に、恐怖と偽りの神名を編みつけた疑似神格だ。黒祖会製・寄生信仰型。等級二級、脅威度A。宿主の自己認識を侵食し、その力を奪っている」
『我は……黒織神……』
「それは、お前の名ではない」
黒織神の身体が震えた。
「これより討つのは、神ではない。神を縛る、偽りの信仰だ」
竜炎山は掴んだ糸を強引に引き剥がし、黒織神の巨体を自分の方へと引き寄せた。そして、左手を相手の蜘蛛の胴体に深く回し込む。
大相撲の極意――『左上手』。
『な、離しなさい! 無礼な人間め!』
暴れる黒織神。黒い糸に操られた神格が、苦しげに身をよじる。
だが、一度がっちりと上手を引いた竜炎山の力は、神の怪力すらをも凌駕していた。彼の足元の大地が、その重圧で完全に陥没する。
「エルザ! 我が四股で、こやつを大地につなぐ本来の神縁を呼び戻す! 黒い糸だけを断て!」
「神様ごと斬ったら承知しないからね!」
「承知している。お前ならできる!」
エルザは痛む体に鞭打ち、床に突き刺さっていた大剣を引き抜いた。勇者の加護が、これまでにない黄金の輝きを放ち始める。
黒織神の胸元には、黒い糸が幾重にも絡み合った巨大な結び目が浮かんでいた。その中心には、黒祖会の黒い鑑定状が埋め込まれている。
「――せええええのッ!!」
エルザが大剣を振り抜いた。
白銀の刃は黒織神の身体には触れず、胸元を覆う黒い糸だけを断ち切った。
結び目が裂け、黒い影が神格の身体から引き剥がされる。だが、影は無数の糸へ姿を変え、再び黒織神へ取りつこうとした。
「戻すものか!」
竜炎山が右足を天高く上げ、全力で大地へ踏み下ろした。
「――四股おおおッ!!!」
大砲をも超える爆音が洞窟を揺らした。踏み下ろされた足を中心に円形の結界が広がり、黒い影をその内側へ縫い止める。
黒織神へ伸びていた糸が、一本残らず断ち切られた。
「今だ、エルザ!」
「これで終わりなさい――『勇者一閃・天断』!」
エルザが光の流星となって結界へ飛び込み、黒い影だけを真っ二つに切り裂いた。
『あああ……我らが編んだ神名が……ほどける……!』
幾つもの声を重ねた絶叫とともに、寄生していた疑似神格が白い光の中へ消えていった。
黒織神を覆っていた黒い殻が、糸のようにほどけていく。
あとに残ったのは、白い衣をまとい、下半身に白銀の蜘蛛の姿を持つ女性だった。
『思い出した』
女性は、自分の掌から伸びる白い糸を見つめた。
『我は綾守姫。糸を断つ者ではない。切れかけた縁を、結び直す者』
「ようやく、本当の名に戻れたわね」
エルザが大剣を鞘へ収めた。
『礼を言う、異界の勇者。そして、大地を踏み鎮める者よ。長く偽りの名を着せられ、我が力は弱っている。しばし、この山の傷を繕いながら眠ろう』
綾守姫は二人へ深く頭を下げ、その姿を白い繭へ変えた。封じ込めるための繭ではない。傷ついた力を癒やすための、穏やかな眠りだった。
「局には、撃滅ではなく保護対象として報告する。祭祀の再建も必要だな」
竜炎山の言葉に、エルザが頷いた。
洞窟には、本来の清浄な山の気が戻っていた。
「ばかな……我らが与えた神名を剥がしただと!? 一度固定された神の在り方を、人間の鑑定で覆すなど……! だが、我が黒祖会の計画は、すでに最終段階に入っている!」
黒祖会の調停者は、懐から新たな呪符を取り出し、自らの影の中に飛び込んで逃走した。
「待ちなさい!」
エルザが叫ぶが、すでに男の気配は完全に消えていた。
「深追いは禁物だ、エルザ。奴の言う『最終段階』という言葉が気になるな」
竜炎山は法衣の乱れを整えながら、深く息を吐いた。
「ま、神様一柱を無事に取り戻したんだから、鑑定局もボーナスくらい弾んでくれるでしょ」
エルザは大剣を鞘に収め、へたり込みながらも不敵に笑った。
二人は崩落の始まった地下洞窟を後にし、再び山道を下り始めた。
エルザはしばらく黙っていた。
「どうした」
「綾守姫は、本当の名前を思い出せた」
「うむ」
「じゃあ私は?」
竜炎山が足を止めた。
エルザは前を向いたまま、大剣を杖代わりにして歩いている。
「この世界じゃ、私は『異世界から来た勇者』。局の宿舎に部屋はある。身分証もある。好きな団子屋だってできた。でも、書類の出身地欄だけは、いつも空白なのよね。局の書類には、分類保留の異能存在。黒祖会には、異世界の遺物。どれが本当の私なのかしらね」
「どれも、お前の一面ではある」
「鑑定士らしくない答え」
「鑑定とは、名前を押しつけることではない。対象が何者であるかを、共に確かめることだ」
エルザは振り返った。
「では、お前が望むなら、いつか我が正式に鑑定しよう」
「嫌よ。あんたに『危険度・団子食べ過ぎ級』とか書かれそう」
「それは鑑定せずとも分かる」
「どすこい!」
二人の声が、静けさを取り戻した山に響いた。
黒祖会の影は着実に日本全土、そして世界へと広がっている。人と神の境界線を巡る戦いは、より深く、危険な領域へと突入しようとしていた。




