最終話 結びの一番
異空間の結界が解け、国技館に夕暮れ時の光が戻った。
眠っていた観客たちが、一斉に「はっ」と息を吹き返し、きょとんとして隣の人間の顔を確認し始める。彼らにとっては、瞬きの間の出来事だった。
竜炎山は静かに立ち、大きく息を吐いた。
大時計の針は、取組開始予定時刻を数分過ぎていた。
エルザが土俵に降り立ち、額の汗を拭いながら時計を見上げた。顔が曇る。
「……どすこい」
「分かっている」
竜炎山は穏やかに言った。その顔に、悔いはなかった。
その時、花道の暗がりから、ゆっくりと人影が現れた。
締込を締めた巨漢の力士だった。縦縞の化粧まわしを外し、すでに取組の構えで竜炎山を見ている。
「雷王山……」
「何だかよく分からねえが、こっちは一番もしてねえ。待ってただけだ」
雷王山は土俵の周縁で止まり、竜炎山を真っ向から見据えた。
「逃げたとは思えなかったからな。……結びの一番、まだ終わってねえぞ」
観客席がざわめき始めた。何かが起きていたと感じている者も、ただ一瞬意識が途切れた気がする者も、全員が同じものを見ていた。
土俵の上に、二人の巨漢が向き合っている。
竜炎山は土俵中央へ戻り、仕切り線の前に腰を下ろした。神気は使い果たした。腕はずっしりと重く、腰の奥に鈍い痛みが残っている。
土俵を踏む足の裏から、積み重なった無数の取組の記憶が伝わってきた。稽古の汗、敗れた痛み、もう一度立った朝。
師匠の言葉が、また腹の底から浮かんだ。
土俵は、自分が何者かを定める場所だ。
「行司、頼む」
観客たちの意識にとっては、ほんの一瞬が抜け落ちただけだった。呼出は自分の役目を思い出したように声を張り上げ、行司が土俵へ戻ってくる。
「はっけよい!」
両者が激突した。
衝撃が館内に轟き、観客が立ち上がった。
竜炎山は、開始直後から押し込まれた。
雷王山の突進は重く、疲労した身体では足が後退する。二歩、三歩。追い詰められ、かかとが徳俵に触れた。
土俵際。
客席の声が最高潮に達した。
竜炎山は残した。
腰を落とし、雷王山の圧力を正面から受け止める。右足を徳俵に掛けたまま、相手の腕をたぐり、身体を入れ替えた。
前へ出る力を止められなかった雷王山が、竜炎山の脇を抜ける。
その足が、先に土俵の外へ着いた。
行司の軍配が、竜炎山へ向いた。
どっと湧いた歓声が、国技館の天井を震わせた。
竜炎山は立ったまま、大きく息を吸った。汗が顎から滴り落ちる。腕が震えている。しかし、足は土俵の上にある。
「……おめでとう」
エルザが土俵溜まりから、ぼそりと言った。目の端が赤くなっていた。
「ごっつあんです」
竜炎山はそう答え、雷王山へ深く頭を下げた。
夕暮れの国技館に、どよめきと拍手の波が満ちていた。人と神の境界線を守った者たちの戦いを、誰も知らない。ただ、一人の力士が土俵際で残したことだけを、この場にいる全員が見ていた。
その場所で二場所連続優勝を果たした竜炎山は、後日、横綱昇進の伝達を受けた。
「力士としても、鑑定士としても、その名に恥じぬよう努めます」
竜炎山は、深く頭を下げた。
数週間後。
竜炎山は、新横綱として初めての地方巡業に参加していた。
巡業先に設けられた稽古場には、朝から若い力士たちの掛け声が響いている。青空の下では、トン、トトンと、のどかな太鼓の音が鳴っていた。
「あー、やっぱり日本の団子は最高ね!」
エルザは稽古場の縁側に腰掛け、みたらし団子を頬張りながら青空を見上げていた。
「エルザさん、それ、横綱への差し入れですよね」
稽古を終えた若い力士が、空になりかけた箱を見て恐る恐る尋ねた。
「大丈夫。一本は残してあるから」
そこへ、大きなタオルで汗を拭きながら竜炎山が戻ってきた。
「一本しか、の間違いではないか」
真新しい横綱の綱は、今は宿舎に大切に納められている。だが、土俵で四股を踏む姿は、大関だった頃と何も変わらなかった。
「横綱になったのに、やることは同じなのね」
「横綱になったからこそ、同じことを続けねばならん」
「それより、これ。勝った後に食べる約束だった団子よ」
エルザが最後の一本を差し出した。
「我が取り分は、最初から一本だったのか」
「細かいことを気にする横綱は嫌われるわよ」
「その言葉は、どこの相撲界の教えだ」
周囲の若い力士たちが、堪えきれずに笑った。
二人の懐にある通信機が、同時に電子音を鳴らした。
画面には、神格鑑定局本部から、新たな「カミサマ」の目撃情報と調査依頼が表示されている。
「まったく。横綱になっても、私たちの仕事は終わらないみたいね」
エルザは残りの団子を口に放り込み、大剣を肩に担いだ。
「それもまた良し。人と神が正しく共存できるよう、境界を守るのが我らの務めだからな」
「ちょっと待って。今の、あんたの団子だった」
「分かっている」
「怒らないの?」
「次の任務が終わったら、二箱買ってもらう」
「横綱になって要求が増えてるじゃない!」
大相撲の新横綱と、異世界の女勇者。
凸凹コンビの鑑定士たちは、若い力士たちに見送られながら、今日も新たな土俵へと歩み出した。
(完)




