第8話「白い粉の先」
薄曇りの空の下、俺たちは山道を越え、王都へ続く街道を歩いていた。
木々の間を抜ける風は冷たく、朝霧がまだ足元に残っている。
昨夜、レナリア先輩が「王都で似たものを見た」と言った白い粉。その出所を追うためだ。
小さな瓶に残っていた甘ったるいのに鼻を刺すような匂いが、妙に頭から離れない。
*
その日の夕暮れ。
野営地に選んだのは、谷をまたぐ古い導水橋の下だった。
橋と呼ぶには、あまりにも大きい。
大人が何人かかっても抱えきれそうにない石柱が、谷の向こうまで連なっている。その多くは途中で折れ、蔦と苔に覆われていた。
それでも頭上には、途切れた石の水路が残っている。
誰が造ったのか。
どこから水を引き、どこへ運んでいたのか。
知っている者はいなかった。
日が落ちると、石柱に刻まれた古い紋様が淡く光り始めた。
青白い光が一本の柱を昇り、途切れた水路を渡るように隣の柱へ移っていく。
水なんて流れていないのに、頭上にだけ光の川が残っていた。
「昔の人って、なんでこんなでかいもの造ったんだろ」
隣でライラが顎を上げる。
「必要だったからじゃねぇの」
「必要でも限度があるでしょ。上まで登ったら、王都より先に空へ着きそう」
「登るなよ」
「まだ何も言ってないじゃん」
言っていないだけで、顔には書いてある。
そんなやり取りをしていると、森へ狩りに出ていたルフスとネストルが戻ってきた。
二人が担いでいるのは、額に短い灰色の角を持つ山兎だ。
「今日は当たりだな」
「明日の朝の分も残しとけよ」
ガレウス団長の声に、二人が返事をする。
ネストルは木の実と香草を下ろす。外周の見回りを終えたティモンは、水袋を並べながらも来た道から目を離さない。
「外周、異常なし」
「ティモン、お前も飲め。倒れたら見張りが増える」
ルフスが水袋を一本押しつける。
「……分かってる」
盗むだけで生きているわけじゃない。
狩って、拾って、水を汲んで、火を守る。
全員が戦いを専門にしているわけではない。それでも、この山で生きる以上、誰もが最低限は武器を扱えた。
解体した肉を、ライラが焚き火を囲む平たい石の上へ並べる。
「火、強すぎないか?」
「強くない。これくらいが一番早く焼けるの」
「表面だけ焦げるやつだろ」
「じゃあユイトのだけ、ゆっくり焼いてあげる」
嫌な予感がして覗き込むと、俺の分だけ火から遠い石の上へ置かれていた。
「朝までかかるだろ、これ」
「注文が多いなあ」
結局、俺たちは少し焦げた肉を、香草と一緒に固いパンへ挟んで食べた。
「ユイト、これ」
ライラが自分のパンから、よく焼けた肉の端を抜いて寄越す。
「そこ、好きでしょ」
「……よく覚えてるな」
「十年一緒に食べてればね」
「ユイト、こっちも持ってけ」
ネストルが俺へ差し出した肉を、ライラが横から奪った。
「おい。それは俺がユイトにあげようとした肉だぞ」
「これは、あたしが好きだから」
「自分のをユイトにやっただろ!」
「だから補充した」
「俺の分で補充すんな!」
ライラがけらけら笑い、周りからも笑い声が上がる。
その横で、ガレウス団長の木杯が空になった。
団長が酒袋へ手を伸ばすより先に、レナリア先輩が木杯へ酒を注ぐ。
「悪ぃ」
「飲みすぎないでください」
「注いどいてそれ言うか」
「空の杯を振り回される方が邪魔なので」
「俺は振り回さねぇよ」
「昨日やりました」
ガレウス団長が黙った。
また笑いが起きた。
*
食事を終えた仲間たちは、見張りを交代しながら順々に寝床へ入っていった。
火は小さくなり、頭上では導水橋の青白い光だけがゆっくり流れている。
俺はそれを見上げた。
誰が造ったのかも分からない遺構。
見たことのない土地。
まだ知らないものが、この世界にはいくらでもある。
逃げるためでも、盗むためでもなく。
いつか、自分の意思でこういう場所を見て回れたら。
そんなことを考えたのは、初めてだった。
「……ユイト。少しいい?」
レナリア先輩が近づいてきた。
手には、例の小瓶を包んだ布がある。
俺の向かいへ腰を下ろすと、先輩は声を落とした。
「昨日は、王都で似たものを見たことがあるって言ったわね」
「はい」
「知っていることが、もう少しある」
レナリア先輩は瓶を火明かりにかざした。
「最近、白い粉を使った人間がおかしくなるって噂が増えてるの」
「おかしくなる?」
「魔力の巡りがひどく乱れる。感情も荒れやすくなる。嫉妬や怒りを抑えられなくなって、人を襲った例もある」
嫉妬。
その言葉だけが、胸の奥に引っかかった。
「長く使い続けた人は?」
「元に戻らなくなる人もいる」
瓶を握るレナリア先輩の指に、力がこもる。
「……昔、止められなかった人がいるから」
先輩は口を閉ざした。
俺も問わなかった。
ただ、いつもより少し硬い横顔だけを覚えておく。
*
翌日、昼前。
街道沿いの小さな村へ立ち寄った。
最初に気づいたのは、人がこちらを見ても声をかけてこないことだった。
家はある。
煙突から煙も上がっている。
なのに、道を歩く者は少なく、俺たちが通ると窓や戸口の奥へ引っ込んでいく。
「……何かあるな」
ガレウス団長が低く言った。
「見て、あれ……」
ライラが指差す。
道端に、若い男が座り込んでいた。
背中を壁に預け、虚ろな目で空を見ている。
俺たちが近づいても、顔すら向けない。
「……また……欲しい……」
かすれた声が漏れる。
「もう……ない……」
男の指先の近くに、砕けた小瓶が落ちていた。
地面には、白い粉がわずかに残っている。
ライラの表情から、笑いが消えた。
レナリア先輩が男の前へしゃがみ込む。
「聞こえる?」
反応はない。
瞳を確認し、手首に触れる。
「……ひどい」
「例の粉か?」
ガレウス団長が聞く。
「断定はできません。でも、症状は噂と同じです」
俺は《穿界視》を薄く開き、道端の男だけに焦点を絞った。
身体の内側を流れる魔力が見えた。
流れが一定じゃない。
胸のあたりで急に膨らんだかと思えば、腕へ向かう途中で細く途切れ、また別の場所で滞っている。
(……ぐちゃぐちゃだ)
普通の人間なら、もっと滑らかだ。
こんな乱れ方は見たことがない。
乱れた魔力を追ううち、目の奥がわずかに痛み、俺は《穿界視》を閉じた。
「魔力の流れもおかしいです」
俺が言うと、レナリア先輩が頷く。
「感情もひどく乱れてる。欲しいって感覚だけが、何度も強くなってる」
男のそばを、二人の子どもが遠巻きに通り過ぎた。
怖がって騒ぐこともない。
ただ、近づかないように大きく避けていく。
ガレウス団長がそれを見て、顔をしかめた。
「……見慣れてやがる」
その事実の方が、男の姿より怖かった。
俺は砕けた瓶の底を拾う。
こびりついた泥を拭うと、小さな刻印が現れた。
「レナリア先輩。これ」
先輩が瓶を受け取り、目を細める。
「……この意匠、王都で見たことがある」
「同じ瓶ですか?」
「分からない。でも、よく似てる」
ガレウス団長が低く息を吐いた。
「ここまで流れてきてるってことか」
胸の奥に、熱いものが込み上げる。
こんなものを作った奴がいる。
売っている奴がいる。
そいつを見つけたら――。
奪えばいい。
その考えを自覚するより早く、ライラが俺の袖を引いた。
「ユイト」
俺は握りかけていた左手を開いた。
「……大丈夫」
「ならいい」
ライラはそれ以上、何も言わなかった。
ガレウス団長がルフスに向けて顎をしゃくる。
「こいつを日陰へ運べ。水も置いていく」
「了解」
「村の奴にも話を聞くぞ。治せねぇなら、せめて何が起きてるかは持って帰る」
男を抱き起こすルフスを見ながら、俺はもう一度瓶を見た。
怒るだけじゃ、何も変わらない。
*
その夜。
村を少し離れた場所で、俺たちは火を囲んだ。
聞き込みで、街道を外れた集落に白い粉を売る一味がいると分かった。明日はまず、そこへ向かう。
ガレウス団長が枝で地面に一本の線を引く。
「王都に着いても、いきなり粉を探して騒ぐな」
「じゃあ、どうするんですか」
「まず流れを探る。誰が持ち込んで、誰が売って、どこへ運んでるのかだ」
レナリア先輩が続ける。
「一人捕まえて終わりとは限らない。むしろ、その先があると思った方がいいわ」
俺は左手を見る。
「……売ってる奴の記憶を奪えば、出所が分かるかもしれない」
「最後の手段だ」
ガレウス団長がすぐに言った。
「能力で何でも解決すると思うな。お前自身への影響も、まだ分かっちゃいねぇだろ」
「……はい」
「見て、聞いて、考えろ。それでも必要なら使え」
俺は頷いた。
ライラが隣から覗き込んでくる。
「一人で勝手に能力を使ったら?」
「使わねぇよ」
「もし使ったら?」
「……止めるんだろ」
「うん。殴る」
「そこは変わらないんだな」
ライラが笑った。
それにつられて、俺の肩からも少しだけ力が抜ける。
*
翌朝。
夜明けとともに、俺たちは再び街道へ出た。
霧の向こうへ、道が続いている。
白い粉がどこから来たのか。
誰が人を壊してまで広めているのか。
答えはまだ何一つない。
だから、確かめに行く。
白い粉の先へ。
王都へ。




