第5話「空っぽの目」
昨日の風呂場の出来事が、朝になっても頭から離れなかった。
左肩が痛むたび、傷と一緒に湯気の記憶まで疼く。
「ユイト、ほら行くよー」
先を歩くライラは、何事もなかったような顔で振り返った。
「昨日、肩を洗ってあげたじゃん。ちゃんと動く?」
「心配してるのか?」
「半分。あと半分は――」
耳元まで寄り、にやりと笑う。
「昨日はユイトの素敵なところに触れたし、今日はやる気出るなあって」
「なっ……!」
一瞬で顔が熱くなり、まともにライラの顔を見られない。
「……そういう言い方、やめろよ……」
「肩のことだよ?」
ライラがけろっとした顔で首をかしげる。
笑って離れていく耳の先だけが赤かった。
そんなライラの背中を追いながら、俺も森の奥へ歩いていく。今日、森へ出ているのは五人だ。
先頭を歩くガレウス団長。俺とライラ。それから、荷運びと見張りを兼ねるルフスとネストル。残る四人に拠点を任せ、周辺の見回りと食料調達を担う顔ぶれだ。
ふいに、森の空気が張り詰めた。
ガレウス団長が、ぴたりと足を止めた。
「……全員、構えろ」
森の影から男たちが現れた。
前に三人。さらに後方の木陰に、弓を構えた二人。
こちらと同数だ。
だが、向こうは地形を選び、弓を構えて待ち伏せしていた。
「てめぇら……よくも、兄弟を潰してくれたな」
「あいつはお前に“目”を奪われて――森で獣に喰われた。手探りで逃げるしかなかったんだ」
「直接手を下してなくても、原因はお前だろ?」
――灰色の森で俺たちを襲った野盗の仲間か。
憎悪の声。けど、配置がうまい。
弓で牽制して、前衛で詰める。怒り任せじゃない。狩り慣れてる。
ガレウス団長が短く指示を飛ばす。
「日頃の訓練の成果を見せてもらう。だが、相手の能力が分からねぇうちは深追いするな。こっちの手札も、必要以上に見せるな」
団長が大剣の柄へ手を置く。
「厄介な力だったら、俺が出る」
「了解!」
ライラが短剣を抜いた。真剣な目。
――けれど指先が、ほんのわずか震えている。
それでも引かず、俺の隣に立つ。
「無理すんなよ」
「ううん……ユイトの横にいる」
一瞬の沈黙が落ちた。
前衛の中央で槍を構えた男が、俺とライラを順に見た。憎悪に濁った目の奥に、冷たい計算がある。
こいつが、この五人を動かしている。
「獲物は二人だ」
男が指を鳴らした。
赤い輪が俺の足首とライラの手首に絡みつく。直後、五人の呼吸が揃った。
《穿界視》を開くと、二つの印から五人全員へ魔力の筋が伸びている。
(位置を共有しているのか?)
俺は、わざと右へ重心を移した。
剣士が逃げ道を塞ぎ、同時に弓手の照準まで右へずれる。
(違う。動き出す方向まで伝わってる)
前衛の三人が、一斉に斬りかかってきた。
右の剣が肩へ。
左の斧が膝へ。
正面の槍が腹へ。
さらに弓の二人が、俺の退路へ狙いを合わせていた。
――一拍でも遅れたら、終わる。
(見ろ。欲張るな。焦点は一点)
俺は右から迫る剣士へ焦点を絞った。
踏み込む脚。前へ移る重心。張りつめる肩と腕の筋肉。
剣を握る腕に、力が集まっていく。
(来る――右上から!)
剣で刃を外へ払い、半歩内側へ潜る。
すれ違いざまに膝裏を裂くと、男は踏ん張れずに崩れ落ちた。
倒れた剣士が邪魔になり、正面の槍が止まる。左の斧も俺を捉えきれず、空を切った。
斬り抜けると同時に、左肩の傷が疼いた。目の奥にも鈍い痛みが走る。
「ユイト!」
その隙に、ライラが前へ出た。
「――舞って。《紅蓮舞踏》!」
無数の紅刃が宙へ浮かぶ。
だが、ライラが踏み込んだ瞬間、その動きも印を通して共有された。
残った前衛がライラへ向きを変え、弓手の一人まで狙いを移す。
「ライラ、右――!」
俺は小石を蹴り上げ、右の弓手の手元へ当てた。
「弓手は任せろ!」
ネストルが叫び、矢が逸れた隙に右の弓手へ突っ込む。
団長が大剣を抜き、左の弓手が放った矢を弾いた。ルフスが、その弓手へ走る。
それでも指揮官は薄く笑う。
「遅ぇよ。――狩りは、ここからだ」
そして俺を見て、口元を歪めた。
「ガキが……女が先だ」
残る前衛の二人が、ライラを挟むように動いた。
斧使いが正面から間合いを詰め、槍使いが横へ回る。
二人同時に、ライラの逃げ道を削っていく。
「っ……!」
ライラが紅刃を放つ。
斧使いが身を捻る。だが、避けきれなかった一枚が腕を焼く。
斧が地面へ落ちるより早く、槍使いが前へ出る。
一人が崩れれば、別の一人が穴を埋める。
群れの狩りだ。
包囲が狭まり、ライラの足が半歩遅れた。
ライラへ意識を向けた指揮官の正面が開く。
(こいつを止める)
俺は一気に踏み込み、左手で男の腕を掴んだ。
触れた瞬間、《万象奪界》が開く。
腹の底から、ごっそりと魔力を持っていかれた。
男の中にある、“奪えるもの”が浮かび上がる。
怒り。恐れ。復讐心。
その奥に、ひときわ強く残っているものがあった。
――《矜持》。
狩る側でいるという誇り。
自分は上だ。自分は屈しない。
そう信じ続けるための、最後の支えだった。
(これを抜けば、立てない)
選んだだけで息が詰まり、奪う瞬間にはさらに魔力が削られた。
黒紫の光が掌へ流れ込み、男が崩れ落ちる。
赤い輪が消え、野盗たちの連携も崩れた。残りはルフスとネストルが制圧した。
ネストルが野盗の武器を蹴り集め、ルフスが縄を回す。声を掛け合わなくても、二人の手は止まらなかった。
だが、掌では奪った《矜持》が脈打っていた。
誰にも屈するな。もっと奪え。誰より上に立て。
その衝動が、自分の欲望のように胸を満たす。周囲の人間を見て、誰が何を持っているのかを探してしまった。
――欲しい。
「……違う」
声に出し、目を閉じる。今のは奪った《矜持》の残滓だ。そう思いたかった。だが、俺の中にも同じ欲望があるから響いたのかもしれない。
自分を取り戻すように、昨夜みんなで飯を囲んだ時間を思い返す。
揺れる火も、ライラの声も覚えている。
なのに――何を食べたのかだけが、抜け落ちていた。
その小さな空白が、ひどく冷たかった。
「ユイト……!」
ライラが駆け寄ってきて、俺の右腕を掴んだ。
「大丈夫……?」
声がいつもより小さい。
その手も、ほんの少し震えていた。
「……ああ」
そう答えたのに、ライラはすぐには頷かなかった。
倒れた男へ視線を向ける。
さっきまであれほどぎらついていた目から、もう力が抜けていた。
「……怖いね」
冗談も、からかうような笑いもなかった。
「ユイトが奪った瞬間……あの人、急に別人みたいになった」
「……ああ」
怖い。
この力も。
それを使える自分も。
ライラがもう一度、俺を見る。
それから俺の袖を、ぎゅっと掴んだ。
「でもさ」
「……ん?」
「ユイトも、今すごく怖そうな顔してる」
「なんだよ、それ」
「だって……それ見て、なんとも思わなくなったら、その方が怖いじゃん」
言葉が出なかった。
ライラは袖を掴んだまま、少しだけ力を込める。
「だから……今は、それでいいと思う」
胸の奥で暴れていたものが、ほんの少しだけ静かになった。
少し離れた場所では、ガレウス団長がこちらへ目を向けていた。
俺を見ているのか、倒れた男を見ているのかは分からない。
やがて団長は短く息を吐いた。
「……終わったな」
ガレウス団長は、まだ意識のある弓手の前まで歩いていった。
「お前らが奪った荷はどこだ」
「……知らねぇよ」
団長は何も言わず、男を見下ろす。
「…………」
「もう一度聞く。どこだ」
男の頬が引きつった。
しばらく黙り込んだあと、諦めたように顔を背ける。
「……北の岩棚だ。倒木の下に隠してある」
団長が顎をしゃくると、ルフスとネストルが森の奥へ向かった。
しばらくして戻ってきた二人が抱えていたのは、金貨や薬、乾燥肉。それに、見覚えのない村印が押された袋だった。
荷のどこかから漂う甘ったるい匂いが、かすかに鼻の奥を刺した。
ガレウス団長が、袋の一つを持ち上げる。
「ずいぶん溜め込んでやがったな」
袋をルフスへ放り渡した。
「明日、山を越える。持ち主に返すぞ」
「分かった。ユイトには無理させねぇ」
奪ったものを、返す。
俺は自分の掌を見る。
ついさっき、この手は人間から《矜持》を奪った。
同じ「奪う」でも、団長がやっていることとはまるで違う気がした。
「ユイト」
袖が軽く引かれる。
振り向くと、ライラが俺を見ていた。
「帰ろ。今日は……もう十分」
「……ああ」
俺は頷いた。
掌にはまだ、あの男から何かを引き抜いた感触が残っている。
消えてほしいと思った。
けれど、忘れちゃいけないとも思った。
俺はその手を握りしめ、ライラたちと森の道を戻り始めた。
*
拠点へ戻る途中、少し開けた場所で一度だけ足を止めた。荷の整理と、捕らえた野盗たちの見張りの交代――そのために止まったはずなのに、団員たちの視線が妙に俺へ集まる。さっきの“落ち方”を、みんなが見ていた。
崩れ落ちる男。黒紫の光。焦点の消えた瞳。
「……なぁ、ユイト」
年嵩のルフスが、ためらいがちに口を開いた。
「さっきの、見たぞ。あいつ……急に“抜けた”みたいになった。あれ、何だ?」
ネストルも、怯えと興奮の混じった声で続ける。
「お前……何者だよ。その能力はなんだ?」
空気がざわつく。
向けられる視線には、恐れが混じっていた。
それでも、誰も俺から目を逸らさない。
俺は答えようとして、口を閉じた。
適当な嘘なら、すぐに思いつく。
けれど、一度ここで誤魔化せば、次も、その次も嘘を重ねることになる。
ライラに言われた言葉が、胸の奥で鳴る。
――怖いなら、ひとりで背負わないで。
俺が口を開くより先に、ガレウス団長が制した。
「ここでは話すな」
ガレウス団長の低い声が、ざわめきを止めた。
団長は集まった顔を見回し、短く命じる。
「荷をまとめろ。拠点へ戻る」
「でも団長、ユイトの今の力は――」
「だからだ」
ガレウス団長が言葉を重ねる。
「今のは、ここにいる奴らだけで聞いていい話じゃねぇ。この団に関わる話だ」
それ以上、問い返す者はいなかった。
ガレウス団長はルフスへ顔を向ける。
「先に戻れ。ティモンを外周の見張りから戻せ。今夜、全員を広場へ集める」
「分かった」
ルフスが一足先に森の道を駆けていく。
胸の奥で固めた覚悟が、少しだけ揺れた。
今度は全員の前で言わなければならない。
逃げる時間が延びたんじゃない。
覚悟を決める時間を与えられただけだ。
*
荷と捕らえた野盗たちを連れての帰路は、歩みが遅かった。拠点に着く頃には、日はすっかり傾いていた。
中央の広場では大きな焚き火が燃え、その周りに団員たちが集まっている。
外周の見張りから戻ったティモン。
馬や荷の手入れを切り上げた者。
食事の支度を中断して来た者。
事情を知らない団員たちが、戸惑った顔で俺たちを見ていた。
捕らえた野盗たちは、焚き火から離れた広場の端に座らせ、縄で繋いだ。団長はその姿が見える位置へ俺たちを集め、声を落とすよう手で示した。
ガレウス団長が全員を確かめるように見回す。
「揃ったな」
ざわめきが静まった。
俺の隣にはライラがいる。
何も言わず、俺の袖をほんの少しだけ掴んだ。
ガレウス団長が俺を見る。
「言え、ユイト」
俺は息を吸った。
「……俺の能力は、《万象奪界》です」
視線が一斉に集まる。
「接触した相手から、ひとつだけ奪えます。能力だけじゃない。感情や記憶も。選ぶ時と、実際に奪う時、その両方で魔力を使います」
一度、息を継ぐ。
「それと……奪ったあと、他人の持つものが前より欲しくなる。使うほど、その感覚も強くなります」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
「さっき、昨日の夕食だけ思い出せないことに気づきました。能力のせいかは、まだ分かりません」
「触れられたら、俺たちからも記憶を奪えるのか」
ルフスが低く聞いた。
「……奪えます」
焚き火の向こうで、誰かが身じろぎした。
「なら、今日俺たちを守ったからって、平気だとは言えねぇ」
「でも、あの時ユイトはそれであたしを守った!」
ライラが一歩前へ出る。
「今日も、あたしたちを守るために使った!」
「ライラ」
ガレウス団長が二人を止めた。
「こいつの力が危ねぇのも、今日俺たちを守ったのも、どっちも本当だ」
ガレウス団長は、団員たちへ言い聞かせる。
「どっちか一つだけ見て、ユイトを決めつけるな」
そして俺を見る。
「この話は外へ漏らすな。接触が条件だと知られりゃ、次は近づく前に潰される」
「……はい」
「必要な時以外は使うな。溺れそうになったら、俺が止める」
俺は息を呑んだ。
止める。
その言葉が、不思議と怖くなかった。
ガレウス団長は、そのまま団員たちへ視線を回す。
「お前らもだ。ユイトの様子がおかしいと思ったら黙って見てるな。能力が強ぇからって、こいつ一人に背負わせるな」
仲間たちの目には、まだ恐れが残っていた。
それでも、誰もその場を離れなかった。
しばらくして、ライラが小さく口を開く。
「……あたしも、今日、一瞬だけ足がすくんだ」
焚き火を見たまま続ける。
「囲まれた時、怖くて半歩遅れた。訓練してたのに……あの時と同じだった」
唇を噛む。
「ユイトの力も怖い。でも……」
そこで初めて、俺を見た。
「また守られた自分が、一番怖かった」
ライラがぎゅっと拳を握る。
「次は遅れない。絶対」
俺はその目を見て、頷いた。
「……ああ」
ライラが俺の袖を、もう一度引いた。
「……戻ろ」
「分かった」
俺たちは焚き火から離れる。
掌にはまだ、あの男から何かを奪った感触が残っていた。
それでも、袖を掴んだライラの指の温かさも、ちゃんと残っていた。




