第4話「湯気の中の本音」
湯気の立ちこめる石造りの浴場に、手製の石鹸と乾燥薬草の香りが淡く漂っていた。拠点はもう静かで、仲間たちは寝床へ引っ込んだ頃だ。俺は湯船に入らず、洗い場の腰掛けに座っていた。桶で湯をかぶり、泡立てた石鹸を腕へ伸ばす。
――ズキッ。
昨日の戦闘のあと、左肩の傷はレナリア先輩に縫ってもらい、上から布を巻いてある。だが、傷口はまだ熱を持っている。腕を動かした途端、縫い合わせた皮膚が引き攣れるように疼き、息が詰まった。肩より上に腕が上がらない。背中まで手を回そうとしても、傷が引っ張られて届かなかった。
「……くそ」
たった一太刀で、日常がここまで不自由になる。情けなさを飲み込みながら桶に指を浸すと、温い湯の感触が、昨日の恐怖を呼び戻す。
――《万象奪界》。
触れた瞬間に見えてしまう、“奪えるもの”の輪郭。
その中から一つを選び、相手から奪う力。
力を使えば、嫉妬や羨望みたいな黒いものが、少しずつ胸に溜まっていく。自分が自分じゃなくなるような怖さがある。それでも、あのときは――やるしかなかった。泡だらけの左手で、もう一度背中へ腕を回して――届かない。
苛立ちを飲み込んだ、そのとき。
ギィ……と木の扉が開いた。
「ん? やっぱ入ってた」
ひょこっと顔を覗かせたのは、赤橙色の髪の少女――ライラだった。
「ライラ!?」
俺は咄嗟に、浴槽の縁に置いていた身体を拭くための布を掴み、腰回りを隠した。
「待て、入ってくるな! 今、俺は――」
「洗ってるの、見れば分かるよ」
そう言いながら、当たり前みたいに入ってくる。胸元に大きな布を一枚巻いただけの姿で、湯気の中でも頬がほんのり上気して見えた。
「……なんで来たんだよ」
「昨日のお礼」
からかう時の声じゃない。妙に真面目なトーンだった。
「左肩、痛いんでしょ? 洗いにくいところ、やってあげる」
「いや、自分で――」
「だーめ。さっきから背中届いてないの、見てた」
図星で言葉が詰まる。ライラは少しだけ眉を下げた。
背後に回ったライラの慎重な指先が、俺の左肩を覆う布の端に触れた。痛みが来るはずなのに、触れ方がやたら丁寧で、身体が固まる。
「動くと、しみる?」
「……ちょっと」
「じゃ、ゆっくり」
泡立てた石鹸が、傷を避けて肩から背中へふわりと広がる。ふざけた気配がなくて、余計に落ち着かない。
「……変なとこだけ優しいな」
「変じゃないし。普通だし」
「普通のやつは男が入ってる風呂に来ねぇ」
「文句言うなら帰るよ?」
「……帰らなくていい。いや、帰っても……いや、帰るな」
ライラが小さく笑って、背中を軽く叩いた。
「はい、じっとして」
手が肩から背中、脇腹へ。泡の感触がくすぐったくて、思わず変な声が漏れる。
「ひゃっ……」
「今の声、変」
「変って言うな!」
くすぐったがる俺を面白がるくせに、左肩の辺りだけは本当に優しい。
そこが余計に、胸の奥をざわつかせる。
「……前も流すね。泡ついてる」
ライラが前へ回り込もうとして――
「ちょ、ちょっと待て! 前に来るな!」
「洗うの、前もだよ? 左肩痛いでしょ」
正論で殴られると弱い。でも前だけはやばい。渋々従った瞬間、ライラが桶を置こうとして足を滑らせた。
「わっ――!」
転びかけた身体を支えようと伸ばした彼女の手が勢い余って、俺の膝元に――触れた。
「……っ!?」
頭が真っ白になる。湯気の熱の中で、背骨の芯だけが冷えた。
固まる俺。固まるライラ。
遅れて、彼女の声が落ちる。
「……え、なに今の」
冗談の温度じゃない。理解が追いついていない声だった。
「今のは忘れろォ!!」
叫んだ瞬間、自分の叫びでさらに恥ずかしくなる。視線を逸らす俺と、こちらを見たままのライラ。俺の呼吸が浅くなる。
「ち、ちがっ、わざとじゃない! 転び――」
弁解する声が裏返りかけて、こっちの心臓がさらにうるさくなる。なのにライラは、唐突に背筋を伸ばした。平気な顔を作り直すみたいに。
「……べ、別に?」
「別にって何がだよ」
「事故だし。事故。……じ、事故! あたし平気だし!」
「落ち着け!」
強がりを重ねるほど、握りしめた手がぶるっと揺れる。そして、強がりは最悪の方向へ転がり始める。
「……確認。確認するだけだから」
「何をだよ!」
「事故かどうか! もう一回触ってみて本当に触ったか確認する! 違うかもしれないし。ほら、事故って……たまに……あるじゃん!」
「そんな事故あるかぁ!!」
伸ばすか引くか迷う指先が宙をさまよう。本人も恥ずかしいのか、声だけやたら早い。
「べ、別に変な意味じゃないし! ユイトが勝手に――」
「勝手にって何だよ!」
「……うるさい! 静かにして!」
静かにしろと言われたせいで、全部がやけに鮮明になる。湯気の匂い、石の冷たさ、水音――そして、近すぎる距離。
ライラは目をぎゅっと閉じた。
「……い、いくよ?」
「勝手に宣言すんな!」
「黙って! こっちだって心の準備が……!」
「準備って何の準備だよ!」
深呼吸を一回、二回。
肩が上下するたび、こっちが変に意識してしまう。そして指先が――伸びかけて、止まった。
「……っ」
ライラの指先が、宙でぶるぶると震えている。
「……む、無理」
絞り出すような声だった。
「そうだ。俺も無理だ。やめろ……」
「無理って何!? ユイトがそれ言わないで!」
ライラは真っ赤な顔でまくし立てる。
「あたしの『無理』は、こういうのはまだ早いっていう意味で……とにかく、無理なものは無理! なんかこう……なんか……っ」
その先は声がごにょごにょと小さくなり、聞き取れない。ライラは言葉を諦めるように両手で顔を覆った。手で隠しきれない耳まで真っ赤だった。
「……確認、失敗」
その一言が妙に正直で、俺は思わず息を吐いた。笑うつもりはなかったのに、その息に小さな笑いが混じった。
「……なんで笑うの」
「笑ってない」
「笑ってる!」
「……少しだけ」
けれど、心臓のうるささだけは誤魔化せない。ライラは一度深呼吸して、ようやく俺の方を見た。視線はまっすぐなのに、瞳が揺れている。
「……ね、ユイト」
小さな声で、ライラは冗談みたいに言った。
「あたしに“奪われる”のは怖い?」
心臓がひくりと跳ねた。でも何を言ってるんだこいつは。
「……怖いよ」
湯気の中で、声が思ったより弱くなる。
「奪われるのが……じゃない。“奪う”のが、怖い」
ライラの表情が、ほんの少しだけ静かになる。
「この力で、いつか大切なものまで壊しそうで……お前のことまで壊したらって思うと……それが一番怖い」
情けないほど震える声を、湯気が飲み込んだ。少しの沈黙のあと、ライラは息を吐いた。
「……バカだな、ユイトは」
「……悪かったな」
「悪いって言ってない。ただ、バカ。何もわかってない」
笑おうとして笑い切れない顔。
そして、俺の左肩を覆う布に触れた手が――ほんの少し震えているのに気づいた。
「昨日さ」
視線を落としたままライラが言う。
「ユイトがあたしを突き飛ばした直後には、もう斬られてた。頭が真っ白になって……あたし、何もできなかった」
言葉の端がかすれる。
「だから今日くらいは……あたしが役に立ちたかった」
「……十分、役に立ってる」
「うそ。さっきだって、途中で止まったし……」
「そこは言うなって!」
ぺし、と軽く叩かれて、少しだけ空気が和らぐ。それでもライラは、もう一度真面目な声で言った。
「怖いなら、ひとりで背負わないで。……あたし、隣にいるから」
「……ライラ」
「別に重い意味じゃないよ? 勘違いしたら殴る」
「どっちだよ……」
照れ隠しみたいに鼻を鳴らし、ライラは桶で湯をすくって、残りの泡を丁寧に流した。
「痛かったら言って」
「……平気」
「強がり」
「お前もな」
「あたしは……まぁ、強いし」
そう言って一瞬だけ目を逸らす。俺は息を吐いた。誰かの温度がそばにあるだけで、恐怖が少しだけ“言葉”になる。
「……もう上がれ」
ライラが、もう一枚の布を俺の肩にかける。
「今日は左肩が主役。湯船なし。無理したら明日もっと痛む」
「いつから手当係に」
「昨日から」
俺は立ち上がり、左肩の抗議に顔をしかめた。
身体を拭き、傷を覆う布を巻き直す。
背後のライラは落ち着かない。視線を壁や天井に逃がしている。
「……ねえ、ユイト」
「なんだ」
「奪うのが怖いならさ。奪わずに済む方法、一緒に考えよ。あたしもいるんだから」
湯気の向こうで、ライラが穏やかに笑った。
「……分かった」
俺が頷くと、ライラはくるりと背を向けた。
「じゃ、あたしは出る。……もう変なこと、しない」
「変なことって言うな!」
「ふふ。はいはい」
扉のところで立ち止まり、振り返らずに言う。
「でも、また無茶したら様子を見に来るから」
「来なくていい!!」
「左肩、ちゃんと治すの。命令」
ぱたん、と扉が閉まり、浴場に静寂が戻った。俺は湯気の中でしばらく立ち尽くす。
胸の奥がまだ熱い。湯の熱じゃない。
「……奪われる、か」
廊下へ出ると、少し冷えた空気が肌に触れた。遠くでは寝床に行ったと思っていた団員たちの笑い声。いつもの夜の匂い。
なのに、頭の中だけがさっきの一瞬を再生しようとする。
(……やめろ。思い出すな)
布団に潜り込み、目を閉じる。
眠気はすぐそこなのに、妙に意識が冴えたまま――最後にひとつだけ、思った。
(明日、あいつが何て言い出すかが一番怖い)




