第5話「分かってしまう」
「行けるわけないだろ!」
俺はネストルの身体を抱え直し、そっと土へ横たえた。まだ温かい。口元には血が残っていて、拭おうとした指まで赤くなった。
「持ってけ」と言われたばかりだ。その口がもう動かないことを、何度見ても飲み込めなかった。少し離れたところには、ティモンも倒れている。
二人をここへ置いて、逃げろっていうのか。
団長たちまで置いて。
ここへ帰ってきたという実感は、まだ戻っていない。それでも、みんなと生きたいと思った。ここに残ると、自分で決めたばかりだった。
妹を助けられなかったあの日と同じように、また俺だけが残るなんて嫌だ。
俺は土に手をついて立ち上がり、剣を抜いた。背中の袋が肩へ食い込む。
胸の奥に響いていた団長の鼓動が、遠くなっていた。《獅子の咆哮》の熱が薄れ、脇腹が痛み始める。さっきまで軽かった剣を、握り直さなければ支えていられなかった。
「俺も残ります」
「あたしも!」
ライラがセレナの腕を振りほどこうとした。まだ片膝をついたままなのに、右手を上げる。消えかけた紅い火が、その周りへ集まった。
「わたしも残ります」
セレナはライラの肩から手を離さず、ルキアノスへ向き直った。
「全員まとめて命令を聞け!」
団長の声に重なって、土を蹴る音がした。ルキアノスが踏み込み、横から伸びたヴィンクの鎖槍に剣を弾かれる。セドとルフスが左右から斬り込むと、男は後ろへ跳んだ。
団長はその隙に、先輩へ声をかけた。
「レナリア!」
「はい!」
「あいつらだけじゃ、まだ危なっかしい。まとめる奴が要る。三人を頼む」
先輩の目が、俺からライラへ、セレナへと動いた。
感情を読める人だ。うまく言えなくても、置いていけないことくらい分かってくれるはずだった。
けれど、先輩は団長たちへ目を戻し、一度だけ目を閉じる。
「……分かりました」
先輩は団長の横を離れなかった。
「レナリア! 何してる! 早く三人を連れていけ!」
団長が大剣を叩きつける。細身の剣に外へ流されても、今度はセドとルフスが迫り、ヴィンクの鎖槍が足元を走った。
先輩は剣をルキアノスへ向けたまま下がり、俺たちとの間に立った。
「三人とも、森へ下がって。私は後ろを守る」
「嫌だ」
ライラがすぐに返す。
「レナリア先輩も一緒じゃなきゃ、あたしは行かない」
「団長を連れて、すぐに追いつく」
「嘘」
先輩は否定しなかった。
「それでも行って」
「どいてください!」
横を抜けようとした俺の胸へ、先輩の左腕が当たった。
「俺も戦えます!」
「駄目」
「目の前でみんなが死んでるんですよ!」
「分かってる」
「だったら!」
肩をぶつけても退いてくれない。すぐ向こうで剣がぶつかっている。誰かの荒い息も聞こえる。俺だけがここで、先輩の腕を押していた。
その肩越しに、ルキアノスの鞘がセドの剣を跳ね上げるのが見えた。返った細身の剣がルフスの脇腹を裂き、服に血がにじむ。二人は下がらなかった。
「お退きください」
ルキアノスは、二人の向こうの団長を見ていた。
「団長を置いて退けるかよ」
セドが剣を構え直す。
「ライラ! グレディオルに着いたら、俺の小遣いは一日銅貨三枚だからな!」
「二枚でしょ! 増やしたいなら、生きて戻ってもう一度言いなよ!」
「面倒くせぇな。じゃあ、あとで言う!」
セドが笑い、剣を上段へ持ち上げた。同時にルフスが低く踏み込み、ルキアノスの脚を狙う。鞘がその剣を弾いた。
銀色の刃が返り、ルフスの胸を深く切り裂く。
血が噴いた。
倒れる、と思った。けれど、ルフスは片膝をついたまま男の足首へしがみついた。
剣を振り下ろすセドへ、ルキアノスは自分の剣を突き出した。足を押さえられたまま、避けようともしない。
細い刃が、セドの腹へ沈む。
「セド!」
土を蹴った。先輩の腕を押しのけようとしたが、今度は身体ごと前へ入られた。その向こうで、セドの剣先が黒い外套の肩へ届く。布が裂け、ルキアノスの肩に血が流れた。
男が剣を引き抜くと、ルフスの指が足首からほどけた。
セドは腹を押さえ、二歩下がった。
「……三枚、だからな」
ルフスの隣へ膝をついた。そこで身体が傾き、もう起き上がってこない。
「セド! ルフス!」
返事がなかった。
あとで言うって、今言っただろ。
俺はもう一度息を吸おうとした。胸が詰まって、名前が出てこない。握った剣だけが震えていた。
「どいてください!」
「ユイト、駄目!」
「嫌だ! 俺はもう、誰も置いていきたくない!」
喉が痛かった。叫んでも、先輩は退かない。
ライラも立ち上がろうとしていた。セレナが肩を支えていなければ、前へ倒れそうだった。
「ライラ。先輩として命令する。行きなさい」
「でも!」
「行って」
ライラの顔が歪んだ。まだ消えていなかった紅い火が三本の刃になり、ルキアノスへ飛ぶ。
「すぐ追いついてよ、レナリア先輩!」
一本が正面から迫り、二本が左右へ回った。ルキアノスは剣と鞘で二本を払い、最後の一本を避けて右へ踏み出す。
その足元を鎖槍が走った。穂先が背後へ回り、鎖が胴へ二重に巻きつく。ヴィンクが両手で引いた。右肩の傷から、腕を伝って血が落ちている。
「行け」
いつもと変わらない声だった。
鎖に引かれた男へ、団長が大剣を振り下ろす。細身の剣が斜めに当たったが、今度はルキアノスの腰が動かない。切っ先が外套の脇へ食い込み、血が飛んだ。
ルキアノスは左手の鞘を腰の鎖へ引っかけ、強く引いた。ヴィンクの足が土の上を滑る。
離せ。もう、引き止められない。
それでも、ヴィンクの指はほどけなかった。引き寄せられた胸へ、細身の剣が伸びる。
刃が沈んだ。
「ヴィンク!」
団長が大剣を横へ振り、ルキアノスが剣を抜いて後ろへ跳んだ。巻き上がった土の中へ、ヴィンクの身体が崩れる。指から落ちた鎖が男の腰をほどけ、地面へ重なっていった。
乾いた音がして、それきり動かなくなった。
団長が俺たちの前へ出た。大剣を大きく振るい、ルキアノスを近づけない。そのたびに、左脇から血が落ちる。
「今だ! レナリア、早く行け!」
先輩の左手が、俺の腕を掴んだ。
「セレナ。ライラをお願い」
「……はい」
セレナがライラの腕を自分の肩へ回した。ライラは体重を預け、訓練場の端へ歩き始める。
俺は足を動かせなかった。
「ユイトも」
「嫌です」
「行って」
「レナリア先輩はどうするんですか!」
「私は大丈夫」
「そんなわけないだろ!」
掴まれた腕を引いた。
「ティモンも、ネストルも死んだ! セドも、ルフスも、ヴィンクも! 団長だって血が止まってない! レナリア先輩まで置いていけるわけない!」
「ユイトが止まれば、ライラも止まる」
先輩の顔から目を離した。
訓練場の端で、ライラがこちらを向いていた。セレナの肩を借りながら、戻ってこようとしている。さっきまで、まともに立てもしなかったのに。
「二人を連れて行って」
「でも――」
「お願い」
ライラの足が、こちらへ一歩動いた。
俺は歯を食いしばり、森へ向き直った。一歩踏み出すと、先輩の手が腕から離れた。
ライラも戻りかけた足を止め、セレナに支えられて森へ入っていく。俺は二人を追い、木々の間へ入る前に振り返った。
先輩はルキアノスへ剣を向けたまま、俺のすぐ後ろまで下がってきていた。その向こうでは、団長が一人で大剣を振るい、あいつを近づけまいとしている。
俺は前へ向き直り、先輩の足音を確かめながら歩いた。背後では、剣のぶつかる音がまだ続いていた。
不意に、背後の足音だけが途切れた。
森へ入って、まだいくらも歩いていない。
「レナリア先輩?」
振り返ると、先輩は訓練場を出たところで止まっていた。俺たちを見ていない。団長が一歩退いたのを見て、そちらへ足を踏み出す。
「待ってください!」
手を伸ばした。さっきまで掴まれていたのに、今は届かない。
先輩は背を向け、団長のところへ歩いていった。
「レナリア!」
大剣と細身の剣がぶつかった。ルキアノスを押し返した団長が、先輩へ顔を向ける。
「何戻ってきてる! お前も早く行け!」
「三人は森へ入りました。逃げ切るまで、ここで止めます」
「そうじゃねぇ! あいつらにはお前が必要だ!」
「もう三人で進めます」
「命令だ! 行け!」
先輩は団長の横へ並び、剣を構えた。
「申し訳ありません。この命令だけは聞けません」
「……馬鹿が」
「団長にだけは言われたくありません」
団長の口元が、わずかに歪んだ。
俺は伸ばした手を下ろせなかった。先輩は、もうこちらを見ようとしない。
二人の前で、ルキアノスが細身の剣を構え直した。




