第4話「逃がす者たち」
ルキアノスの赤い目が、また団長へ向いた。
俺はセレナの前へ出て、剣を構えた。セレナは空になった両手を胸元で握り、まだ動けずにいる。
「お前ら」
団長が大剣を持ち上げる。左脇からは、今も血が落ちている。
「いつも通りだ。空いた場所を埋めろ」
ヴィンクの鎖槍が地面すれすれを走り、ルキアノスの左側を塞いだ。セドは団長とライラの間へ、ティモンは団長とヴィンクの間へ入る。胸を押さえていた手を離し、短剣を低く構えた。
ルフスとネストルは左右へ大きく回っていく。俺も剣を握り直した。全員が同じところへ斬り込んだって邪魔になる。誰かが動かした先を、次の誰かが狙う。俺にも、入れる隙間はあるはずだ。
ライラの周りに紅い火が集まる。レナリア先輩だけは団長のすぐ後ろから動かなかった。
団長が胸へ拳を当てた。
どくん。
左脇に新しい血がにじんだ。
「団長、これ以上は――」
二度目の鼓動が、先輩の声に重なる。
「――《獅子の咆哮》!」
声が夜の森へ響き、熱が身体の内側へ流れ込んできた。脇腹の痛みが遠のく。剣を握る指へ力が戻り、足も、さっきまでとは違うくらい軽くなった。
傷が治ったわけじゃない。痛みも疲れも、団長の力に押し退けられている。
胸を押さえていたティモンが短剣を握り直した。ヴィンクの鎖が張り、セドたちが一斉に地面を蹴る。ライラの周りでは、火が十本を超えても崩れずに形を保っていた。
その向こうで、団長の足元へまた血が落ちる。
動けるようにしてもらったんだ。今度こそ、あの人を休ませないと。
「――《紅蓮舞踏・群舞》!」
ライラが両手を広げた。十本を超える紅刃が夜空へ散り、訓練場を紅く照らす。すぐには飛ばず、ルキアノスを囲むように回り始めた。
「行くぞ!」
団長が正面から踏み込み、地面すれすれに大剣を薙いだ。ルキアノスが後ろへ跳ぶ。そこには、もうティモンがいた。
「足はもらうぞ!」
短剣が右脚へ迫る。細身の剣に弾かれると、今度は横からセドが斬り込んだ。鞘がその剣を受け、背後へ回ったルフスとネストルが同時に踏み込む。
ルキアノスが身を沈めた。頭上で二人の刃が交差する。かわされても、誰も止まらない。あいつが次の攻撃へ顔を向ける間に、もう別の剣が届く。
「ヴィンク!」
「あいよ!」
地面から跳ねた鎖が、剣を持つ右腕へ巻きついた。ヴィンクが腰を落として引く。ルキアノスの腕が外へ開き、頭上から紅刃が落ちた。
鞘で一つ弾き、細身の剣でもう一つを払う。その横から迫る紅刃を避けて、右足が踏み出された。
俺は《穿界視》をその足へ絞った。体重が乗る。ここだ。
「上がれ!」
剣を握っていない左手を、地面へ向けた。《大地覇掌》が男の右足の下だけを持ち上げる。拳一つ分。それだけで、ルキアノスの身体が傾いた。
「今だ!」
セドとティモンが左右から詰め、後ろをルフスとネストルが塞ぐ。残った紅刃が落ちる中、団長の大剣が正面から走った。
ルキアノスが細身の剣を斜めに当てる。また外へ流されるかと思ったが、右腕の鎖がぴんと張った。剣の位置がずれ、大剣の切っ先が黒い外套を裂く。
その大剣に隠れるように、レナリア先輩が懐へ入っていた。喉へ向かった剣先を、ルキアノスが左手の鞘で受ける。先輩はそこで手首を返し、鞘に沿って刃を滑らせた。
頬に、赤い線が走った。
ルキアノスが右腕をひねり、鎖を振りほどく。振り向きざまにルフスとネストルの剣を弾き、二人の間を抜けて跳び退いた。
距離が開いても、頬を流れる血は見えた。俺たちの攻撃が、ようやく届いた。
「入った……!」
ライラが息を切らしながら言う。セドたちはもう散り直していた。俺も左手を地面へ向ける。もう一度、足を止める場所を探そうとした。
ルキアノスが、鞘を握った左手の親指で頬を拭った。
指先の血を眺め、笑みを深くする。
「よい渇望です」
足元へ絞っていた《穿界視》の中で、魔力が脈打った。細く整っていた流れが太くなり、脚を巡る速さまで増していく。
「――《闘宴昇華》」
ルキアノスが地面を蹴った。
団長からもらった熱は、まだ身体に残っている。それなのに、さっき狙えた足を追いきれない。
「来るぞ!」
叫んだときには、黒い外套が紅刃の間へ入っていた。ライラが指を動かし、二本で左右から挟む。閉じるより早く、その間を抜けた鞘が肩へ叩き込まれた。
「くっ……!」
ライラが土の上へ倒れる。俺がそちらへ足を向けると、セレナが横を駆け抜けていった。しゃがみ込み、ライラの肩を支える。
俺はルキアノスへ目を戻した。地面を持ち上げるなら、あいつの足の下だけだ。誰かの足元を崩すわけにはいかない。
だが、鎖が鳴った方を見たときには、もう遅かった。
ルキアノスの左手の鞘に、ヴィンクの放った鎖が絡んでいる。鞘ごと強く引かれ、ヴィンクの身体が前へ崩れた。待っていた剣が、右肩を切り裂く。
「ぐっ……!」
ヴィンクが片膝をつく。セドとルフスが左右から斬り込んだが、ルキアノスは鞘から鎖を振り払い、二人の間へ踏み込んだ。鞘がセドの胸へ入り、身を返すのと一緒に剣の柄がルフスの顎を打つ。
二人が倒れた。その背後からネストルの刃が首へ迫る。ルキアノスは頭を傾けてかわし、団長の右へ回った。
「右だ!」
ティモンが割って入る。短剣を両手で握り、ルキアノスの剣を受けようとした。
「退いてください」
「嫌だね」
刃がぶつかる、と思った。
けれど、銀色の剣先はその直前に沈んだ。ティモンの腕の下へ入り、胸を貫く。
「ティモン!」
ルキアノスが剣を引くと、短剣が地面へ落ちた。ティモンは一歩だけ下がり、仰向けに倒れた。
ネストルが横から斬り込み、ルキアノスを退かせる。団長と先輩がティモンを背にして並ぶ間に、ルフスが顎を押さえて起き上がり、駆け寄った。
「おい、ティモン! 返事しろ!」
肩を抱き起こされても、頭が後ろへ垂れたままだった。目は開いている。ルフスが顔を覗き込んでも、瞬き一つしない。
返事をしてくれ。そこに短剣が落ちてる。拾って、また立ってくれよ。
俺は剣を握ったまま、ティモンの手が動くのを待っていた。
団長の視線が、ティモンの上で止まった。
やがて顔が動き、セレナに支えられて片膝をつくライラや、肩を押さえるヴィンクを見た。その目が俺まで来る。
「作戦を変える」
「団長?」
「こいつを倒すのはやめだ」
言われたことが、すぐには飲み込めなかった。まだ、剣を握る手には力が入る。さっきは傷だってつけられた。
団長はもう、ネストルを見ていた。
「ネストル。中へ戻れ」
「何を持ってくる」
団長が大剣を構え、ルキアノスの前へ立つ。
「帳簿を持て!」
ネストルが裏口へ走った。俺はその背を目で追いかけ、ルキアノスもそちらへ顔を向けたのを見て、剣を持ち上げる。
「お帰りの支度ですか?」
「ヴィンク!」
「ああ!」
鎖槍が細身の剣へ巻きついた。ヴィンクが両手で引くと、傷ついた右肩から血が滴る。セドが立ち上がり、ルキアノスの左腕へ掴みかかった。
「行かせねぇぞ!」
ルフスはティモンを地面へ横たえた。そっと肩から手を離すと、反対側からルキアノスへ飛びついた。
「レナリア!」
「はい!」
団長の大剣が左から迫り、逃げる先へ先輩の剣が右から走る。ルキアノスはセドを蹴り飛ばし、ルフスの腕を鞘で打って振りほどいた。だが、剣に巻いた鎖はまだ張っている。
大剣を避けて身を沈め、続く先輩の剣から身体をひねる。その動きをヴィンクが引き止め、黒い外套がもう一度裂けた。
ルキアノスはすぐに団長へ踏み込もうとした。大剣はまだ、振り抜いた先にある。
ヴィンクが鎖を引く。剣を持つ右腕が後ろへ引かれたところへ、三本の紅刃が落ちた。
「まだ……動ける!」
ライラが、セレナに支えられたまま右手を向けていた。二人の間の土が焼け、ルキアノスの踏み込みが止まる。
「ユイト!」
振り向くと、ネストルが屋敷から戻ってきていた。片方の肩に掛けているのは、見覚えのある背負い袋だ。
「受け取れ!」
飛んできた袋を左腕で抱き留めた。重い。右手の剣を鞘へ戻し、両方の肩紐へ順に腕を通すと、背中で紙の束がずれた。潮待ちの帳簿に、偽荷札、納品控えが入っている。
ネストルが俺のすぐ前まで来た。袋を背負ったのを確かめ、何も言わずにルキアノスへ向き直る。
鎖が大きく鳴った。
ルキアノスが剣を引き、ヴィンクが踏ん張る。だが、右手の指が鎖からほどけていった。左手だけでは支えきれず、鎖が緩む。
細身の剣が抜けた。
黒い影がセドとルフスの間を通り、まっすぐこちらへ来る。赤い目が俺を捉えていた。
剣を抜かないと。
柄へ手をかけたときには、もう切っ先が近かった。避けようと足を動かすより先に、ネストルの手が俺の肩を横へ押す。
銀色の刃が、ネストルの胸から背中へ抜けた。
「ネストル……?」
よろめいた身体がぶつかり、俺は袋ごと土の上へ倒れた。ネストルの口から血が落ちる。俺の胸にも落ちた。
胸を押す手には、まだ力があった。
「持ってけ」
剣が引き抜かれた。ネストルの身体から力が抜け、俺の上へ倒れ込む。咄嗟に腕を回しても、支えきれなかった。
団長の大剣が横から割り込み、ルキアノスを押し戻した。
「ユイト! ライラと嬢ちゃんを連れて走れ!」
「でも――」
「持ってくのは人と帳簿だけだ! ほかは全部捨てろ!」
団長がルキアノスの前へ立ち、その横へ先輩が並ぶ。ヴィンクも、セドも、ルフスも、傷ついた身体を起こして二人の横へ出た。
「グレディオルまで持っていけ!」
俺はネストルを抱えたまま、団長の背中を見ていた。
背負い袋の紐が肩へ食い込む。
さっきまで胸を押していた手は、もう動かなかった。




