第3話「契約の書」
「まだだ」
団長が大剣の柄を握り直した。片膝をついたまま、その目はルキアノスの背後へ向いている。開いた玄関扉。その先は、灯りの届かない外だ。
「ヴィンク、左を塞げ。ライラは右だ」
鎖槍が男の左側へ走り、右には三本の紅刃が浮かんだ。団長は大剣を支えにして立ち上がる。
「外へ追い出すぞ。俺たちの家で、これ以上好き勝手させるかよ」
俺も床に手をついた。さっきから、立とうとしては脇腹の痛みに邪魔されている。せめて、団長たちが動くときにここで転がっていたくない。
「戦う場所を変えられるのですか?」
「追い出されてんだよ」
団長が踏み込んだ。大剣が迫り、鎖と紅刃が左右を塞ぐ。ルキアノスは今度こそ後ろへ下がった。胸元を過ぎる大剣をかわしてもう一歩退くと、黒い外套が扉の向こうへ消える。
「全員、外へ出ろ!」
ヴィンクが鎖槍を構えたまま後を追い、ライラも続いた。俺は脇腹を押さえ、どうにか立ち上がる。セドも食卓から身体を起こし、落とした剣を拾っていた。ルフスとネストルは、胸を押さえるティモンを両脇から支えている。
玄関まで出ると、冷たい空気が顔に当たった。ルキアノスは帰ろうともせず、建物の脇を歩いていく。レナリア先輩に腕を支えられた団長がそれを追い、俺たちも裏手へ回った。
男が足を止めたのは、訓練場の真ん中だった。
いつもなら、剣を打ち合う前に立つ場所だ。今は、屋敷の窓から漏れる灯りの中に、あの黒い服がある。竹の囲いの向こうには森が続いていた。そっちへ抜けていってくれればいいのに、ルキアノスはわざわざ俺たちへ向き直る。
団長と先輩が前へ出て、その右にヴィンク、左にライラがついた。俺はセレナと後ろへ残る。裏口の方では、セドが剣を構え、ルフスとネストルがティモンを扉の脇へ下がらせていた。
「団長、傷が開いています」
「見りゃ分かる」
「なら《鋼心》を止めてください」
「こいつを止めたらな」
団長の左脇から血が落ち、乾いた土が黒くなった。大剣を持ち直す背中を見て、俺も剣を握り直す。あの腕が下がったとき、次は俺が前へ出られるだろうか。
「まだ続けていただけるのですね」
「てめぇを山から蹴り落とすまではな」
団長が構えるより先に、隣のセレナが動いた。モチくんを連れて、団長の前へ出る。
「下がれ、嬢ちゃん」
「下がれません」
「さっき見ただろ。こいつは――」
「見ていたからです」
セレナは退かなかった。
「わたしにも、できることがあります」
足元でモチくんが小さな両腕を上げた。セレナはその隣へしゃがみ、黒い目を覗き込む。
「モチくん。力を貸してもらえますか?」
大きく頷いた頭の上で、稲穂がぴんと立った。白い身体が膨らみ、短い手足が太く伸びていく。盛り上がる肩と胸を追って顔を上げるうち、見上げるほどの巨体になった。三メートル近い身体のてっぺんで、一本の稲穂が揺れている。
セドの手を軽く弾き飛ばした、あの身体だ。
セレナはその隣で立ち上がり、胸の前へ右手を差し出した。青白い光が集まり、一冊の本が現れる。
「――《契約の書》」
開いた本へ、セレナが左手を添えた。
「わたしの力も、使ってください」
その手から青白い光が頁へ流れ込み、光の帯となってモチくんの胸へつながった。白い身体の表面を、光が巡っていく。
セレナが左手を離すと、光の帯がほどけた。本も細かな光に変わり、右手の上から消えていく。
モチくんが両拳を構えた。丸い頭と黒い目、小さな口はそのままなのに、今はその白い背中を頼もしく思った。
「モチくんに、そのようなお姿があったとは」
ルキアノスが赤い目を見開いていた。あいつにも、知らないことはあるらしい。
「モチくんは、わたしの大切な相棒です」
セレナが巨体の隣に立つ。ルキアノスの目は、もう団長から離れていた。
「ぜひ、お相手をお願いしたいものです」
「モチくん。団長を守ってください!」
モチくんが地面を蹴った。右拳を突き出すと白い腕が一気に伸び、横へ跳んだルキアノスの足元へ突き刺さる。土と小石が飛び、着地した男を今度は左拳が追った。
「ほう」
銀色の刃が振り下ろされた。
左腕が切れ、拳のついた先が地面へ転がる。
「モチくん!」
セレナの声に、俺も息を呑んだ。だが、地面に転がる腕へ、残った腕の白い切り口が細長く伸びていく。切り離された先へ吸いつき、一気に引き戻した。継ぎ目が盛り上がって、すぐに平らになる。
……つながった?
モチくんは両拳を構え直していた。血も出ていない。今切られた方の手も、ちゃんと握れている。
「これは失礼」
ルキアノスが地面を蹴り、巨体の懐へ入った。左手の鞘が白い腹へ突き込まれる。
思わず自分の脇腹を押さえた。さっき、あれを食らって息ができなくなった。
けれど、モチくんの腹は鞘を包むほど深くへこんだあと、勢いよく膨らんだ。押し返されたルキアノスが後ろへ跳ぶ。
モチくんが小さな口をきゅっと結んだ。その肩の下が膨れ、左右に二つずつ、新しい腕が伸びてくる。
元の二本と合わせて、六本。
俺は剣を握ったまま、その拳を見比べた。さっき食卓でパンを配っていたときは、二本しかなかったのに。
「ヴィンク!」
団長の声で、ルキアノスへ目を戻す。鎖槍が地面を走り、男の右足へ巻きついた。
「捕まえた!」
「ライラ!」
「分かってる!」
三本の紅刃が左右と頭上を塞ぎ、六本の白い腕が伸びた。正面から、横から、足元から。ルキアノスが剣で二本を切り落としても、残りの拳は止まらない。
鞘で逸らされた拳の下を、別の拳が抜けていく。切れた腕も地面から引き戻され、すぐにまた伸びた。さっきまで誰の攻撃も寄せつけなかった男が、剣と鞘を休みなく動かしている。
これなら、届くかもしれない。
俺は《穿界視》で男の足を追った。拳ばかり見ていたら、また見逃す。鞘の先が鎖を持ち上げ、右足が抜けた。そこへ体重を乗せる。
逃げるなら、そっちだ。
「モチくん、そいつの右だ!」
一本の腕が地面すれすれを回り込んだ。ルキアノスが振り向くより早く、白い拳が脇腹を捉える。
鈍い音がした。男の身体が横へ飛び、片足で着地しても止まらず、土の上を滑っていく。訓練場の端で、ようやく片膝をついた。
「入った!」
ライラの声に、俺も頷いていた。今度は間に合った。俺の声を聞いて、モチくんが当ててくれた。
六本の拳が打ち合わされ、モチくんが再び走り出す。立ち上がりかけたルキアノスへ、左右から拳が伸びた。剣で切られても腕はつながり、一つを逸らされても次が追う。
地面が砕け、竹の囲いが折れた。男は少しずつ、訓練場の外へ押されていく。とうとう剣と鞘の両方を身体の前へ構えたが、口元にはまだ笑みが残っていた。
どうして、まだ笑っているんだ。
「モチくん、今です!」
六本の腕が地面へ突き立てられた。モチくんの胸と腹が膨らみ、舞っていた土が口元へ吸い寄せられる。
何をする気だ。あの腹、まだ膨らむのか。
小さかった口が大きく開き、空気が爆発した。
肩をすくめ、足を踏ん張った。目の前の土が一気に削れ、剣と鞘を交差させたルキアノスの両足が地面を離れる。黒い外套がはためき、その身体は竹の囲いを突き破った。奥の木に背中からぶつかり、折れた竹と葉が降ってくる。
「モチくん!」
セレナに呼ばれ、モチくんが振り返った。大きく頷く頭の上で、稲穂が揺れる。
俺は竹の向こうを見た。あれをまともに受けたんだ。すぐには立てないはずだ。
団長を休ませられる。そう思いかけたところで、黒い人影が動いた。
折れた竹を踏み越え、ルキアノスが戻ってくる。外套の肩は裂け、銀灰色の髪には葉が絡んでいた。けれど、血は見えない。
「期待以上でございます」
鞘を握った手の甲で髪の葉を払う。次に地面を蹴った足を、俺は目で追いきれなかった。
速い。
さっきまでとは違う。モチくんの六本の拳が伸びきる前に、剣が前の二本を切り落とした。横から来た拳は鞘で跳ね上げ、その下へ潜る。白い腕がつながろうとする間にも、男は近づいていた。
「モチくん、後ろへ!」
セレナが叫んだ。ルキアノスの目がこちらへ向く。
俺が剣を構え直した目の前で、モチくんがセレナとの間へ身体を入れた。戻った腕も広げ、白い壁のように彼女をかばう。だが、銀色の刃は止まらない。道を塞ぐ腕を切りながら、黒い服がすぐそこまで来る。
「モチくん、もう一度です!」
モチくんが息を吸い、胸と腹が膨らんだ。俺はルキアノスの足元から顔へ《穿界視》の焦点を移す。
あいつ、セレナを見ていない。
モチくんの口を見ている。さっき自分を吹き飛ばした口が開くのを、待っている。
「セレナ、待て!」
間に合わなかった。
「ありがとうございます」
モチくんの口が開くと同時に、ルキアノスが動いた。つながりかけた腕の間を抜け、巨体の脇へ回る。空気で張った腹に剣が走り、横一文字の切り口が開いた。
そこから空気が噴き出した。衝撃が地面を削り、土を訓練場の端まで吹き飛ばす。
モチくんがよろめいた。腹の切り口が伸び、つながろうとする。だが、塞がる前に剣が返った。肩が切れ、脇腹が裂け、伸ばした腕まで落ちる。
早くつながれ。さっきみたいに、戻ってくれ。
切れたところは、そのたびに伸びていた。つながろうとしている。それなのに、戻りきる前に次の刃が入る。六本の腕が地面へ垂れ、膝が土へ沈んだ。
頭の稲穂が、力なく倒れていく。
「モチくん!」
セレナが駆け出した。傾いた巨体は、彼女がたどり着く前から縮み始めていた。盛り上がっていた肩と胸が小さくなり、増えた四本の腕が身体へ沈んでいく。
セレナが膝をついた。子猫ほどの大きさに戻ったモチくんを、両手で受け止める。
薄く開いた黒い目が、セレナを見上げた。小さな手が伸び、彼女の頬へ触れる。
「はい。わたしは大丈夫です。モチくんが守ってくれました」
手が下がり、目が閉じた。
俺も脇腹を押さえながらそばへ寄った。頭の稲穂は、まだわずかに動いている。
「よく頑張りました。もう大丈夫です」
胸へ抱き寄せた腕の中で、白い身体が青白く光った。
短い手足がほどけ、丸い輪郭が細かな光に変わっていく。セレナの指の間からも光がこぼれた。最後に残った黄金色の稲穂が一度揺れ、それも消える。
セレナはすぐには腕を下ろさなかった。
さっきまで、あそこに収まっていた。手を伸ばせば、あの柔らかい身体に触れられたのに。
「大変よい精霊でした」
ルキアノスが剣を下げていた。
俺はそちらへ顔を向けた。今のが、モチくんをあんなふうにした奴の言葉なのか。
「まだ、わたしがいます」
セレナが立ち上がった。空になった両腕を胸元へ寄せ、ルキアノスの前に立つ。足が震えている。それでも、道を空けようとはしなかった。
「殿下ご自身は、どのように戦われるのですか?」
男の笑みが薄くなった。赤い目が、震える足と何も持たない両手を眺める。
「わたしは……」
声が途切れた。ルキアノスはしばらく待ち、それからセレナの肩越しに団長を見た。
「なるほど」
セレナの横を通り過ぎる。
「どうぞ、お下がりください」
セレナは胸元で両手を握ったまま、動かなかった。
ルキアノスは一度も振り返らなかった。




