第2話「強い人」
「断る」
ルキアノスが顔を上げきる前に、団長は答えた。
「理由をお聞きしても?」
「見りゃ分かるだろ。俺は怪我人だ」
「ええ。承知しております」
「それに、飯時を邪魔する奴と遊ぶ気はねぇ。帰れ」
これで帰ってくれればいい。俺は団長の背中越しに、扉の隙間を見ていた。
ルキアノスは怒りもせず、少し残念そうに目を細める。
「傷を負ったあなたにも、十分な価値があると感じているのですが」
「てめぇがどう感じるかなんざ知るか」
団長がティモンへ顎を向けた。
「閉めろ」
「分かった」
「お待ちください」
扉へかかった手が止まる。セレナが、モチくんの後ろからルキアノスを見つめていた。
「あなたは、団長と戦うためだけに王都から来たのですか?」
「はい」
「……なぜ急に、父のもとを去ったのですか。今は、何をなさっているのですか」
「こうして、お会いしたかった方を訪ねております」
セレナは眉を寄せ、隙間の向こうの顔を見直した。
知り合いなら、話が通じるだろうか。俺は剣に手をかけたまま、二人のやり取りを聞いていた。
「父も、城の者たちも、あなたを頼りにしていました。誰かが困っていれば、いつも真っ先に手を差し伸べてくださったではありませんか」
「恐れ入ります」
ルキアノスが軽く頭を下げた。セレナの口が開き、何も言わないまま閉じる。
「そうではなくて……。王都では、今も大勢が苦しんでいるんです。なのに、なぜ傷を負った団長と戦うことが先なのですか」
「わたくしにとっては、とても大切な用件なのです」
「あなたは、そんな方では……」
最後まで聞かずに、赤い目が団長へ戻った。
もうセレナの顔も見ていない。赤い目には、団長が動き出すのを待ちきれないような熱がある。黒い杖の柄を握り直す指に、力がこもった。
「本当に、お考えは変わりませんか?」
「二度も言わせんな」
「左様でございますか」
穏やかな声のまま、ルキアノスの右手が杖の柄を引いた。
「では――少々、無作法をお許しください」
剣が出る。
そう思ったときには、閉まりかけた扉の隙間を銀色の線が抜けていた。
「っ!」
ティモンが手を引く。手の甲に細い傷が走り、血が浮いた。ルキアノスの右手には細身の剣、左手には鞘になった黒い杖が残っている。
「てめぇ!」
ティモンが腰の短剣へ手を伸ばすより早く、鞘が扉を押し広げた。隙間へ踏み込んだルキアノスが、剣の柄頭をティモンの胸へ突き込む。
「がっ……!」
身体が扉から離れた。その脇を、黒い外套が通り抜ける。
「入れるな!」
ヴィンクの鎖槍が入口を横切った。ルキアノスは鎖へ細身の剣を添え、穂先を壁の方へ流す。鈍い音がして、扉の脇に穂先が突き立った。
「なに……?」
弾いたようには見えなかった。あの一振りだけで、ヴィンクの槍が?
鎖が張り、穂先が壁から抜ける。その間にもルキアノスは進んでくる。俺は椅子を押し退け、食卓から離れた。
「レナリア! 嬢ちゃんを下げろ!」
団長は長椅子まで戻り、立てかけていた大剣を掴んだ。レナリア先輩がセレナの腕を取る。
「セレナ、こっちへ!」
「ですが、ルキアノスを止めないと――」
「今は団長の指示を聞いて!」
セレナが食堂の奥へ引かれていき、モチくんも後を追う。セドが剣を抜き、ルフスとネストルが左右へ分かれた。団長は大剣を構え、食卓の手前でルキアノスを迎える。
「最後に聞く。帰る気はねぇんだな」
「申し訳ございません」
「なら、叩き出す」
どくん。
重い鼓動に、俺は団長の左脇を見た。さっきまで、立つことさえ止められていたのに。
腕と脚の筋肉が張り、踏みしめた床板が軋む。
「――《鋼心》」
「素晴らしい」
ルキアノスの口元が緩んだ。赤い目が、団長の動きにぴたりとついていく。
次の瞬間、団長が踏み込んだ。振り下ろされる大剣に、ルキアノスは細身の剣を斜めに当てる。甲高い音とともに刃がわずかに逸れた。
肩には届く。
そう思ったのに、男はもう団長の懐へ入っていた。
「団長!」
細身の剣が左脇を狙う。団長は身を捻って大剣で弾き、そのまま横へ振り抜いた。ルキアノスが頭を下げ、銀灰色の髪のすぐ上を刃が過ぎる。
団長は休まず足元を払い、男を退かせた。さらに踏み込み、逃れた先の胸元へ切っ先を突き込む。あのカタリナさえ追い詰めた攻めだ。受け続けられるはずがない。
けれど、ルキアノスは細身の剣で、その一つ一つを外していた。団長が押しているように見えるのに、一度もまともに当たらない。
「なるほど」
「喋ってねぇで、さっさと出ていけ!」
大剣が下から跳ね上がり、ルキアノスが一歩退いた。背後は開いた玄関だ。あと少し押せれば、外へ出せる。
「今だ!」
ヴィンクが鎖を引いた。床を這っていた鎖が男の両足へ迫り、ライラも食卓の横から飛び出す。
「――《紅蓮舞踏・連舞》!」
三本の紅刃が左右と頭上を塞いだ。正面には団長の大剣。これなら、後ろへ逃げるしか――。
ルキアノスは前へ出た。
鎖を跳び越え、紅刃が届く前に団長の懐へ飛び込む。近い。あれじゃ、大剣を振れない。
「させるか!」
セドが横から斬りかかった。ルキアノスはそちらを向きもせず、左手の鞘で手首を打ち上げる。剣が手を離れ、床で跳ねた。返した鞘がセドの胸へ突き込まれる。
「ぐっ!」
セドが食卓へ倒れ込み、椀が床へ落ちた。だが、細身の剣はもう団長へ向いていた。
次はどこだ。あの剣が団長の傷へ向かう前に、知らせないと。
《穿界視》を開き、男の足と肩だけに目を凝らした。さっきみたいに、全身へ広げるな。右足へ体重が乗り、肩が動く。団長の左へ回る気だ。
「団長、左!」
大剣が返り、細身の剣を受け止めた。間に合った。
だが、止まったのは剣だけだった。逆側から鞘が走り、団長の脇腹へめり込む。
「っ……!」
身体が揺れた。左脇の服に、赤い染みが広がっていく。
鞘も見えていたのに。剣の方ばかり追っていた。
「よく見ておられますね」
赤い目が一瞬だけ俺へ向いた。褒められたことに腹が立った。
俺の声で剣を受けた団長は、脇腹を押さえている。その間に、またルキアノスが剣を上げる。
今度は俺が止める。
剣を抜き、食卓の端を回った。男の背後は空いている。首じゃない。剣を持つ腕を狙えば、団長から離せる。
踏み込んで斬りつけると、ルキアノスの左腕が背中へ回った。黒い鞘が俺の剣を上から叩く。手首が痺れ、剣先が床へ落ちた。
「なっ……」
顔すら、こっちへ向けていない。
剣を戻そうとした脇腹へ鞘が入り、息が止まった。身体ごと横へ弾かれて床へ落ちる。声を出そうとしても、喉から空気が漏れるだけだった。
「ユイト!」
顔を上げると、ライラの紅刃がルキアノスへ飛んでいた。男が半歩ずれる。刃は黒い外套をかすりもせず、背後の床へ突き刺さった。
「危険ですので、狙いは慎重になさってください」
ルキアノスはもう団長を見ていた。
床に手をつき、身体を起こそうとする。脇腹が痛んで、腕まで力が抜けた。目の前では、団長が大剣を杖代わりに身体を支えている。服の裾から落ちた血が、床板に点々と残っていた。
やめてくれ。もう、それ以上動いたら。
「団長、もう《鋼心》を止めてください!」
レナリア先輩の声が飛んだ。
「止めたら、こいつを誰が止める」
団長が大剣を持ち上げた。
どくん。
さっきより強く鼓動が響き、左脇から落ちる血が増えた。団長が床を蹴る。
今までで一番速かった。横から叩きつけられた大剣に、俺は息を詰める。
ルキアノスが斜めに剣を添えた。大剣が外へ流れ、団長の身体も前へ傾く。すれ違いざまに銀色の刃が返り、左脇の服が裂けた。
「団長!」
血が飛んだ。大剣の切っ先が床を叩き、団長が片膝をつく。
ヴィンクが鎖を握り直した。ライラのそばには新しい紅刃が浮かび、セドも食卓に手をついて起き上がろうとしている。俺は脇腹を押さえ、床についた手へもう一度力を込めた。
団長を一人にしておけない。なのに、腰を浮かせるだけで息が詰まる。
ルキアノスは追い打ちもせず、俺たちを見ていた。息一つ乱れていない。あれだけ斬りかかって、黒い服に傷一つつけられていなかった。
ルキアノスは細身の剣を下げ、嬉しそうに微笑んだ。




