第1話「ルキアノス」
「……名を名乗れ」
さっきまで酒瓶を取り返そうとしていた団長の声が、低くなった。
玄関へ向かったティモンは、扉を開けずに脇へ寄っている。ヴィンクも席を立ち、音を立てずに反対側へ回った。セドが腰の剣へ手を置いたのを見て、俺も自分の剣を確かめる。
ルフスとネストルは食卓を離れ、窓際と食堂の奥へ分かれた。隣では、ライラの右手が食卓の下へ隠れる。さっきまで俺の椀に伸びてきていた手だ。もう、肉の話をする顔ではなかった。
「これは失礼いたしました。わたくし、ルキアノスと申します」
扉越しの声は相変わらず穏やかだった。団長に名乗れと言われても、少しも慌てた様子がない。
カラン、と向かいで音がした。セレナのスプーンが椀に落ちていた。
「ルキアノス……?」
椅子を引いて立ち上がったセレナを、モチくんが見上げる。
「知ってるのか」
「はい。王城で、少し前まで父に仕えていた方です」
セレナは団長に答えながらも、扉から目を離さなかった。
王城の人間。セレナを連れ戻しに来たのか。
「……おや。セレナ殿下も、こちらにいらしたのですか」
今、初めて気づいたような声だった。
それきり、男は何も聞かない。無事だったかとか、どうしてここにいるのかとか。父親に仕えていた人なら、まず気になるんじゃないのか。
隣へ目をやると、ライラも眉を寄せていた。
「道を尋ねに来たんじゃなかったのか」
団長は長椅子の背に身体を預けたまま、扉へ声を投げた。
「尋ねたかったのは、こちらへ続く道でございます。実に巧く隠されておりましたので、少々時間がかかってしまいました」
「最初から、ここを探してたってことか」
「はい」
「王都からここまで、どうやって追った」
「王都へ戻った騎士の方々の報告から交戦地点を割り出し、そこに残された馬車の跡を辿りました。それでも三日かかりましたが」
三日。
俺たちがここで飯を食って、傷を休めていた間、この男はずっと後を追っていたのか。
「ティモン。顔が見えるだけ開けろ。中へ入れるな」
扉が細く開き、冷たい夜風が煮込みの匂いに混じった。俺は席から腰を浮かせ、隙間の向こうを覗く。
長身の男が一人、立っていた。銀灰色の髪が片目にかかり、上等そうな黒い服の上に長い外套を羽織っている。暗い赤の裏地が見えた。俺がそんな格好で山道を歩いたら、枝に引っかけるか、泥で汚すか、たぶん両方だ。
ところが、男の服には泥もついていない。息も乱れていなかった。右手に持った黒い杖には細かな飾りがあり、山を登るためというより、服に合わせて選んだように見える。
顔を見ようとすると、髪の間から覗く赤い目とぶつかりそうになった。
「夜分に押しかけましたこと、お詫び申し上げます」
男――ルキアノスは、空いている手を胸へ添えて頭を下げた。顔を上げると、また穏やかに笑っている。
ティモンとヴィンクが扉の両脇にいる。隙間だって、人が通れるほどは開いていない。それを確かめても、俺は剣から手を離せなかった。
とりあえず、右手だ。あの杖がただの杖かどうかくらいは、調べられる。
《穿界視》を開き、男の右手と杖だけに目を凝らした。黒い表面が透けると、持ち手の下から先端近くまで、細長い刃が見えた。
剣を仕込んでいる。
握っている手へ焦点を移したところで、今度は魔力の流れに目を奪われた。指から腕へ、細い一筋が通っている。細いのに、流れている量が多い。しかも、少しも揺れない。
どうやって、こんなに綺麗にまとめているんだ。俺がどれだけ集中しても、こんなふうにはできない。笑って人と話しながら、それを保っているなんて。
腕だけでこれなら、ほかはどうなっている?
つい全身へ視野を広げかけた途端、黒い濁りが押し寄せた。まずい、深く見すぎた。慌てて《穿界視》を閉じると、元の黒い服が目に戻ってきた。
怖いのに、もう一度見たいと思ってしまった。
何のために杖を調べたんだ、俺は。
「何か、気になるものでもございましたか?」
顔を上げる。ルキアノスの赤い目が、まっすぐ俺を見ていた。
「……その杖。中に剣がある」
ティモンとヴィンクの視線が、男の右手へ落ちる。ルキアノスは隠すどころか、見せるように杖を少し持ち上げた。
「ええ。旅の道中は何かと物騒ですから。護身用でございます」
「護身用にしちゃ、随分使い込んでるな」
ヴィンクに言われて見れば、杖の下の方には細かい傷がいくつも重なっていた。ただ地面を突いてできた傷には見えない。
「物持ちがよいもので」
笑みを崩さずに答える男へ、セレナが食卓を回って近づこうとした。モチくんが慌てて後を追い、彼女の前に回り込んで両腕を広げる。セレナはその後ろで足を止めた。
「ルキアノス。王都はどうなっていますか。父は――」
「申し訳ございません、殿下」
柔らかい声が、セレナの言葉に重なった。
「今宵の目的は、殿下ではないのです」
「では、なぜここに?」
ルキアノスの目が、セレナを通り過ぎた。俺もその先を追い、長椅子に座っている団長を見る。
「そちらの方に、お会いするためでございます」
長椅子が床を擦った。団長が食卓に手をついて立ち上がろうとして、レナリア先輩がすぐに腕へ手を伸ばす。
「団長、立たないでください」
「客が俺に用だって言ってんだ。座ったままじゃ話しにくい」
「傷が開きます」
「話が終わったら寝る」
先輩の手を断り、団長は俺たちと扉の間へ出た。左脇を庇っているせいで、普段より歩くのが遅い。それでも、団長が前へ出ると、俺は少し息を吐いていた。
扉の向こうでは、ルキアノスの口元がゆっくり緩んだ。さっきまでの挨拶の笑みとは、少し違って見えた。
「なるほど」
「何がだ」
「左脇に深い傷を負っておられる。それでも、ご自分より先に仲間を逃がせる位置へ立たれました」
赤い目が、団長の足元から肩まで動く。
「負傷してなお、その場にいる誰よりも強い。噂以上でございますね」
「見ただけで知ったような口を利くな」
「おっしゃる通りです。ですから、確かめに参りました」
団長が目を細めた。
「俺の名を知ってるのか」
「もちろんでございます」
ルキアノスは黒い杖を身体の前へ立てた。
「〈奪還の獅子〉ガレウス殿。以前より、ぜひお会いしたいと思っておりました」
「俺はてめぇなんざ知らねぇぞ」
「それは仕方がございません。わたくしは、王都からほとんど出ない人間でしたから」
「その王都から、俺たちを追ってきたのか」
「正確には、ガレウス殿を」
男の目は、もう団長から動かない。
今夜くらい、飯を食って、そのまま寝かせてやってくれよ。さっきまで、あんなに普通に話していたのに。
「団長」
レナリア先輩が声を落とした。
「この人、怖がってません」
俺は扉の両脇にいるティモンとヴィンクを見た。男は二人のすぐ外に立っている。こちらにはセレナを入れて十人。剣に手をかけている奴もいるのに、ルキアノスは下がろうともしない。
「それどころか――喜んでます」
ルキアノスが先輩へ顔を向けた。
「ご明察です。ようやくお会いできたのですから、喜ばずにはいられません」
「気色の悪い奴だな」
団長が吐き捨てた。
「用件を言え」
「では、遠慮なく」
ルキアノスは黒い杖から手を離さず、深々と頭を下げた。
「わたくしと、戦っていただけませんか。〈奪還の獅子〉ガレウス殿」




