第4話「見ている人」
二頭の呼吸が落ち着くと、馬車は再び森の道を走り出した。空はすっかり朝の色になり、木々の間から差し込む光が、濡れた葉を白く照らしている。
夜中ほど速度は出していない。二頭の馬が重たそうに脚を動かすのに合わせ、車輪がゆっくり土を踏んでいく。
御者台にはセドとライラがいる。荷台の後ろではヴィンクが幌の隙間から道を見張り、ルフスたち三人も左右へ分かれていた。
荷台の中央には団長が毛布に横たわり、その隣にレナリア先輩が座っている。俺は団長の足元に座り、向かいでは、セレナがモチくんを膝へ乗せていた。馬車が揺れるたび、頭の稲穂も同じ方向へふらふら動いている。
団長が肘をついて上体を起こしかけると、すぐにレナリア先輩の手が肩へ伸びた。
「寝ていてください」
「起きてねぇ。少し上げただけだ」
「それを起きると言います」
「道の様子くらい見せろ」
「前はセドとライラ。後ろはヴィンク。左右はルフスたちが見ています」
先輩の手に力が加わり、団長の身体が毛布へ戻される。
「団長が見る場所は残っていません」
「邪魔者みてぇに言うな」
「今は怪我人です」
レナリア先輩が革袋から、小さな木の器を取り出して蓋を開けた。
中には、濃い茶色の液体が揺れていた。
団長が露骨に顔をしかめる。
「……苦いやつか」
「ええ」
「いらん」
「では、熱が出たらもっと苦いものを飲ませます」
「脅しか?」
「治療です」
先輩に背を支えられ、団長が上体を少し起こす。しばらく器を睨んだあと、一息で中身を飲んだ。
「まずい」
「知っています」
先輩は器を受け取り、団長をそっと横たえた。何事もなかったように蓋を閉め、器を革袋へ戻す。
その向かいで、セレナが水袋へ手を伸ばした。けれど、指に力が入らず、持ち上げかけたところで取り落としてしまう。床へ落ちる前に、レナリア先輩が受け止めた。
「両手を見せて」
「大丈夫です」
「それは見てから決めるわ」
先輩は水袋を脇へ置き、セレナの手を取って一本ずつ指を曲げていく。
「痺れは?」
「少しだけ」
「長く力を入れ続けたせいね。今日は、できるだけ握らないで」
「ですが――」
「代わりに動ける子がいるでしょ」
先輩が視線を落とすと、モチくんが丸い胸を張って短い両腕を上げた。先輩から水袋を受け取り、セレナの口元へ持ち上げる。
「お願いしますね」
セレナが撫でると、黄金色の稲穂が嬉しそうに揺れた。
「次、右だよ!」
御者台からライラの声が飛ぶ。
少し掠れていた。
レナリア先輩が水袋をもう一つ取り出し、御者台側の隙間から差し出す。
「ライラ。水」
「あとで飲む」
「今」
「道見てるんだけど」
「飲む間くらい、セドが見てくれる」
「俺に任せろ」
セドの声に、ライラが渋々水袋を受け取った。
「俺の分は?」
「足元に置いたでしょ」
「……いつの間に」
「出発する前よ」
しばらくして、ヴィンクが幌の隙間から顔を引っ込めた。
幌を握る右手の甲に、乾いた血がついている。
レナリア先輩は何も聞かず、細く裂いた布を差し出した。
「枝だ」
「巻いて」
「浅い」
「深さは聞いていない」
ヴィンクは黙って布を受け取った。
先輩の視線が、今度は俺へ向く。
「次はユイト」
「やっぱり来ますよね」
「逃げる元気はある?」
「ないです」
「では、手を」
差し出した手首へ、冷たい指が添えられる。
脈を数えながら、先輩が尋ねた。
「吐き気は?」
「ありません」
「眩暈」
「座っていれば」
「それは、あるということね」
「……少し」
指が離れない。
「さっき、笑っていたわね」
「聞こえてたんですか」
「珍しいから」
「そこまで珍しくないですよ」
「そうだったかしら」
真顔で返されると、自信がなくなってくる。
「楽しかった?」
「……少し」
先輩は、それ以上聞かなかった。
幌の隙間から、折れた木や苔のついた岩が流れていく。どれも見覚えがある。何度も拠点へ戻るときに通った道だ。
「帰りたいって気持ちは、まだ戻ってません」
俺が言うと、先輩は静かに頷いた。
「そう」
「拠点に着いても、何も感じなかったら」
「そのとき考えればいいわ」
「それじゃ、遅くないですか」
「何に?」
何も言えなかった。
レナリア先輩は俺の手首を離した。
「戻りたいって思えなくても、戻ったあとどうするかは、あなたが決めればいいことよ」
「レナリア先輩なら、どうしますか」
「私は、あなたじゃないわ」
それだけ言って、先輩は団長へ向き直った。
団長の額へ、もう一度手を当てる。
「熱は、まだ――」
「レナリア」
「何ですか」
「お前、最後に飯食ったのいつだ」
先輩の手が止まった。
「あとで食べます」
「食ってねぇ奴の答えだな」
「団長は自分の心配をしてください」
「してるだろ。寝て、薬まで飲んだ」
「食事は?」
「……あとで食う」
「食べていない人の答えですね」
団長が顔をしかめる。
「面倒くせぇな、お前」
「誰のせいですか」
セレナが小さく笑い、モチくんに食料袋を指し示した。
モチくんが袋を開け、固焼きのパンを二つ抱えて団長とレナリア先輩の間へ置く。
団長が片方を顎で示した。
「食え」
「団長も」
「分かってる」
二人は同時にパンを取った。
「昔から、お前は人に食わせて、自分の分を忘れるよな」
「団長が昔から、自分の傷を増やすからでしょう」
「俺のせいか」
「少なくとも半分は」
団長は鼻で息を吐き、パンを一口齧った。
食べ終えると、レナリア先輩は荷台の中をもう一度見回した。
それからようやく、幌の支柱へ背を預ける。
「少しだけ休みます」
「馬車が止まるまで寝てろ」
「それでは長すぎます」
「ならちょうどいい」
先輩が目を閉じる。
少しして、御者台から小さな咳が聞こえた。
「ライラ。まだ水を飲んでいないでしょ」
「寝てないじゃない!」
「寝てるわ」
「喋ってるでしょ!」
セドが声を上げて笑った。
目を閉じたままの団長が、薄く口元を歪める。
「諦めろ。そいつはそういう奴だ」
朝の森を、馬車が進んでいく。
車輪の音に、いつもの声が重なっていた。




