第2話「救えないもの」
空が白み始める前、馬車は炭焼き道からさらに外れた窪地で止まった。
三方を斜面に囲まれ、道からは木々に隠れて見えない。昔、炭焼きが使っていたらしい小屋が一つあるだけだった。
「ここなら、しばらくは見つからねぇ」
セドが御者台から飛び降り、二頭の馬の様子を確かめる。
ヴィンクは返事もせず、鎖槍を手に林の中へ消えた。
ルフスたち三人もすぐに動く。ティモンは来た道へ戻り、ルフスとネストルは小屋の中から乾いた枝と古い敷布を運び出した。
「火は大きくするなよ」
馬の脚を撫でながら、セドが言う。
「分かってる。鍋の底から火がはみ出さないくらいでしょ」
ライラは地面に掘った浅い穴へ小枝を組み、火をつけた。小さな火が灯り、その上で水の入った鍋が温まり始めた。
荷台では、レナリア先輩がもう団長の脇腹に巻いた布を解いていた。途中まで縫われた傷の隙間から、まだ血が滲んでいる。
「セレナ、布を。ユイトは灯りを動かさないで」
「はい」
「分かりました」
一度煮立たせた水が冷めるのを待ち、レナリア先輩が傷口を拭う。
針が皮膚を通るたび、団長の指が毛布へ食い込んだ。
「暴れないでください」
「暴れてねぇ」
「毛布を破る勢いで握るのは、暴れているうちです」
「細けぇな……」
悪態をつく声にも、もう力がない。レナリア先輩は返事をせず、残った傷を一針ずつ閉じていく。俺は灯りを支えることしかできなかった。
やがて最後の糸が結ばれ、薬草を挟んだ新しい布が脇腹へ巻かれると、レナリア先輩はようやく息を吐いた。
「これで傷は閉じました。でも、治ったわけではありません。熱が出るかもしれません」
「拠点まではもつか」
「もたせます。そのために、歩かない。剣を持たない。《鋼心》も使わない」
「注文が多いな」
「一つでも破ったら、次は団長ごと縛ります」
団長は何か言い返そうとして、諦めたように目を閉じた。
灯りを荷台の隅へ置き、治療の邪魔にならないよう端へ寄せていた荷を一つずつ確かめる。
背負い袋から、潮待ちの帳簿を二冊取り出した。その下には、偽荷札と納品控えがある。どれも、王都から持ち出すと決めたものだ。
団長が持ち出した一冊には、白い粉の納品先と、門番へ渡した金が記されている。
もう一冊を開くと、血印を押した運び手たちの名前が並んでいた。指が、一つの名で止まった。
ベック。
小間物屋。
家族札、継続預かり。
次回搬送予定――三日後。
知っていた。
それでも、戦いを越えたあとで見る三日という期限は、初めてこの記録を読んだときよりずっと短く感じた。
「……ベック」
「戻らねぇ」
毛布の上から、団長の声が飛んだ。
「まだ何も言ってません」
「声で分かる」
俺は帳簿を閉じられなかった。
「あと三日あります」
「分かってる」
「次に使われる道も、運ばれる日も分かってる。偽荷札だってある」
「その道はもう死んだ」
団長が薄く目を開く。
「城中で警鐘が鳴った。荷札も搬入口も、同じまま使えると思うな。騎士どもは王都の外まで来た。戻れば、ベックに辿り着く前に囲まれる」
「でも……ベックも助けたいんです」
「ああ」
迷いのない返事だった。
「俺だって助けてぇ。あいつの咳も、手首の印も、帳簿の期限も忘れてねぇ」
団長の手が、巻かれたばかりの布の上へ落ちる。
「だが、今の俺たちじゃ無理だ。俺はこのざま。馬は潰れかけ。お前は立つだけでふらつく。全員連れて戻れば、ベック一人を助ける前に、ここにいる全員が捕まる」
「俺だけなら――」
「あたしが行かせると思う?」
小屋の入口で、ライラが腕を組んでいた。
「ユイトが戻るなら、あたしも戻る」
「ライラ」
「止めるためにね。勘違いしないで」
団長が鼻で息を吐く。
「お前が戻れば、こいつが追う。俺たちも見捨てねぇ。もう一人分の賭けじゃ済まねぇんだ」
血の気を失った団長の横では、レナリア先輩とセレナが血に汚れた手を拭っている。ヴィンクは林を見張り、セドは馬の脚を冷やしていた。団員たちは眠ることもできずに動き続けている。
「助けられねぇってのは、どうでもいいって意味じゃねぇ」
団長の声が低くなる。
「全部拾おうとして、抱えてるもんまで落とすな」
俺は帳簿を閉じた。
「……分かりました」
「その帳簿、見せていただけますか」
セレナが俺の向かいへ腰を下ろした。
俺は二冊の帳簿を渡し、偽荷札と納品控えもその横へ並べた。
セレナはしばらく帳簿をめくり、ある記号の上で指を止めた。
「これは、王城の中で荷を振り分けるときの印です」
「分かるのか?」
「はい。厨房、施療院、兵站倉。この数字は、それぞれの受取場所を示しています」
セレナは、帳簿と同じ数字が記された箇所を、偽荷札、納品控えの順に指さした。
「外から荷を入れただけではありません。王城内部の納品経路そのものが使われています。中に協力している人間がいなければ、ここまで一致しません」
ライラが眉を寄せた。
「城の中まで、白い粉を運ぶ道になってたってこと?」
「そうだと思います」
セレナは帳簿を見つめたまま、わずかに息を吸った。
「これを……グレディオルへ持っていけませんか」
「帳簿を?」
「はい」
顔を上げる。
「わたしが城で見たことを話しても、逃げ出した王女の言葉だと思われるかもしれません。王家の内輪争いだと受け取られる可能性もあります」
指先が、ベックの名のそばへ触れた。
「でも、この帳簿があれば、わたしが見てきたことが、ただの言葉ではなくなります」
「それで、ベックは助かるのか」
セレナは、すぐには答えなかった。
「三日後の搬送までに、助けられるとは言えません」
誤魔化さない声だった。
「ですが、彼を苦しめたものを、なかったことにはさせません。同じように縛られる人を増やさないためにも使えます」
団長が目を閉じたまま言う。
「あの粉の流れを止めるために盗ったもんが、別の場所で人を動かすかもしれねぇってことか」
「はい」
「なら、持っていく」
俺はそう答え、セレナから帳簿を受け取った。偽荷札と納品控えも一緒に布で包み直し、背負い袋の一番奥へ入れる。
――粉を欲しがったのも、借金したのもお前だ。
あの男は、ベックが自分で選んだと本気で思っているのだろうか。
逃げ道を一つずつ潰したあとで。
布の下に隠れた三日後の文字が、頭から離れなかった。




