第1話「次の行き先」
馬車は、夜の森を止まることなく走り続けた。
車輪が石を踏むたび、荷台が大きく跳ねる。
俺との話を終えたレナリア先輩は、荷台の中央に横たわるガレウス団長の左へ移り、傷口を確かめていた。右ではセレナが血に染まった布を押さえている。
俺は団長の足元で、揺れる灯りをどうにか支えていた。
「後ろは!」
御者台からセドの声が飛ぶ。
荷台の後ろで幌をわずかに開けていたヴィンクが、暗い道へ目を凝らした。
「……来てない」
御者台では、ライラが往路で覚えた目印を探していた。
「次の分かれ道は左!」
身を乗り出し、前方を指さす。
「分かった! あんまり乗り出すな! 落ちても拾えねぇぞ!」
「落ちないって!」
言い返しながらも、ライラは御者台へ身体を戻した。
馬車が左へ曲がると、団長の身体が揺れ、セレナの肩が大きく傾いた。反対側からレナリア先輩が団長を支える。
「手はそのまま。力を抜かないで」
「はい」
セレナは唇を噛み、傷口へ体重をかけ直した。重ねた布には、もう新しい血が滲んでいた。
「……血は、まだ止まらないんですか」
俺が尋ねると、レナリア先輩は首を横に振った。
「走りながらじゃ、これ以上はできない。けど今止まれば、追いつかれるかもしれない」
レナリア先輩の声は落ち着いていた。ただ、血に濡れた指だけが急いでいる。
「もう少しだけ耐えて。団長も、あと少しだけ我慢してください」
「俺は……寝てるだけだ」
「では、黙って寝ていてください」
セレナに言われ、団長が薄く口元を歪めた。
それきり目を閉じる。
胸は動いている。
分かっているのに、確かめるのをやめられなかった。
「セド。馬がもたない」
ヴィンクが言った。
御者台から返事はなく、代わりに馬車の速度が少しずつ落ちていく。
「この先、道を外れるよ!」
ライラの声の直後、馬車は木々の間へ入った。枝が幌を引っ掻く。
やがて馬車が止まると、ヴィンクが真っ先に飛び降りた。周囲を見回し、短く告げる。
「……今は平気だ」
ルフス、ティモン、ネストルも続く。ティモンが来た道を見張り、ルフスとネストルは馬のもとへ駆けた。
俺も降りようと腰を上げたが、途端に視界が揺れ、荷台の縁へ手をついた。
「どこ行く気?」
御者台を降りたライラが、荷台の外から俺を見上げていた。
「見張りを――」
「ティモンが見てる。ユイトは灯り持ってて。倒れたらレナリア先輩の仕事が増えるだけでしょ」
「……分かった」
「よろしい」
「灯り、こっち」
俺は団長の足元から、レナリア先輩の手元へ灯りを寄せた。
セレナが手を離した途端、傷口からまた血が滲み出した。先輩は新しい布を押し当て、セレナの手をその上へ重ねさせる。
「ここ、押さえてて。……もう待てない。縫い始める」
セレナが頷くのを確かめ、革袋から針と糸を取り出す。
団長の喉から、低い呻きが漏れる。
「全部は無理でも、出血を抑えられるところまでは縫います」
「好きにしろ」
「最初からそのつもりです」
先輩が針を通すと、団長の指が毛布を強く掴んだ。
セドは馬の首筋へ触れ、荒い息を確かめていた。
「長くは止まれねぇ。水を飲ませたら出すぞ」
「追手は?」
ライラが尋ねる。
「来てねぇからって、諦めたとは限らねぇ。距離を稼げるうちに稼ぐ」
誰も反対しなかった。
休みたいのは全員同じだ。それでも今は、森の奥へ進むしかない。
その間にも、レナリア先輩の手は止まらなかった。
団長が目を開けた。
「おい、セレナ」
「はい」
「王都は出た。で、お前はこれからどうする」
セレナは答える前に俺たちを見回し、血に汚れた自分の両手へ視線を落とした。
「まず、お伝えしなければならないことがあります」
静かな声だった。
「わたしは、この国の第二王女です」
馬へ水を飲ませていたセドの手が止まる。
「……王女」
ヴィンクが呟いた。
ライラは目を丸くしたあと、納得したように息を吐く。
「そっか。だから、騎士団長があそこまでして連れ戻そうとしたんだ」
俺も驚きはした。
けれど、城にいたこと。カタリナが部下に名前を隠したこと。これまでに知った事実が、一つにつながっただけだった。
「黙っていて、申し訳ありません」
セレナが頭を下げる。
「謝るのは後でいい」
団長は浅く息を吐いた。
「聞いてんのは、その先だ」
セレナが顔を上げる。
「グレディオル王国へ行きたいです」
聞いたことのない国の名だった。
「隣国です。そこに、信頼できる知人がいます。王都セグラディンの中だけでは、もうどうにもできません。城で起きていることを伝えて、力を借りたいんです」
「そこへ行けば、それを止められるのか」
俺の問いに、セレナはすぐには頷かなかった。
「分かりません。でも、この国の外へ知らせなければ、何も変わらないと思います」
団長が尋ねた。
「国境まで、どうやって行くつもりだった」
「それは……」
セレナの言葉が止まる。
ライラが片眉を上げた。
「もしかして、決めてない?」
「城を出ることが先でしたから」
「よくそれで外まで来たね」
「自分でも、そう思います」
真面目な顔で答えるものだから、ライラがわずかに口元を緩めた。
団長は痛みを堪えるように息を止めてから、低く言う。
「その身体一つで国境越えは無理だ。道も、荷も、追手をかわす当てもねぇ」
「それでも、行かなければなりません」
セレナの声は揺れなかった。
「行くなとは言ってねぇ」
団長が目を閉じる。
「まず拠点へ戻る。俺の傷もそうだが、お前らもそのままじゃ使いもんにならねぇ。追手を撒いて、全員休ませる」
「グレディオルの話は、それからですね」
レナリア先輩が言う。
「ああ。考えるのは、生きて戻ってからだ」
戻る。
また、その言葉だった。
「わたしも、皆さんの拠点へ行ってよいのでしょうか」
セレナが尋ねる。
団長は目を閉じたまま答えた。
「ここで降りたきゃ止めねぇぞ」
「それはなし」
ライラが先に言い切る。
「今置いてったら、何のためにここまで来たのか分かんないでしょ。来るの。あたしたちと」
セレナは一度だけ瞬きをして、柔らかく笑った。
「では、もうしばらくお世話になります」
「もうしばらくで済むかは、知らないけどね」
ライラも笑い返す。
レナリア先輩が糸を結び、傷口へ布を巻き直した。
「今はここまで。残りは、次に止まったときに」
セドが馬の前から水桶を退けた。
「休憩終わりだ。乗れ!」
ルフス、ティモン、ネストルが荷台へ戻る。セドとライラは御者台へ上がった。
ヴィンクが最後に周囲を確かめてから荷台へ飛び乗り、幌を下ろした。
馬車が再び動き出す。
少し進むと、見覚えのある二股の木が幌の隙間を流れていった。その先には、苔で半分埋もれた岩がある。拠点へ戻るとき、何度も見た道だ。
「ここまで来りゃ、あとはいつもの道だな」
セドの声から、ほんの少し力が抜けた。
荷台の空気もわずかに緩む。
みんなにとっては、帰り道なのだ。
俺も、この道を知っている。
この先をどちらへ曲がるのかも、曲がった先に何があるのかも覚えている。
けれど、懐かしさも、安堵もなかった。
馬車は俺たちの拠点へ向かっている。
みんなは、帰っている。
俺だけは、拠点へ向かっているだけだった。




