第7話「深い傷」
騎士たちの灯りが木々の向こうへ消えるまで、誰も動かなかった。
鎧の擦れる音も、足音も、少しずつ遠ざかっていく。
追手は退いた。
今だけは。
そう身体が理解した途端、張りつめていたものが切れた。胸の奥で響いていた団長の鼓動が遠のき、《獅子の咆哮》の熱が消えると、押し退けられていた疲労が一気に戻ってくる。
耳の奥で鳴っていた剣と鎖の音も消え、代わりに血の匂いだけが濃くなった。レナリア先輩が団長へ駆け寄り、傷口を押さえた。
足裏へ意識を落とすと、《地脈感知》が冷たい土や埋まった石、地面の奥へ伸びる木の根を拾った。その土を動かす《大地覇掌》も、今は俺の中にある。まだ扱いきれないほど強い力だ。
それなのに。
(もっと奪えば)
(もっと強くなれば)
(今度こそ、誰も失わずに済む)
誰かの声じゃない。
《万象奪界》が俺の中に残した渇きだ。
《大地覇掌》を選んだのに、消えていった三つの輪郭を、まだ惜しいと思っている。
「ユイト!」
襟元を掴まれ、ライラに引き寄せられた。赤橙の髪が、滲んだ視界の中で揺れる。
「こっち見て。今すぐ!」
「……見てる」
「見てない」
ライラの声が強くなる。
「あたしの向こうに、まだあの人の力見てる」
言い返そうとした瞬間、胃がひっくり返った。吐き気と耳鳴りが押し寄せ、《穿界視》を使っていないのにライラの輪郭が二つに割れる。膝が崩れた。
「ユイト!」
ライラが肩を抱える。
胸の奥に、ぽっかり穴が開いている。
まただ。
何かがない。
ライラの顔が強張った。
「……何か、なくしたの?」
声が震えていた。
確かめたくない。
けど、確かめるしかない。
前の世界の家を思い浮かべる。母の笑顔も、父の渋い顔も、姉の悪ノリも覚えている。誰もが俺の“だめさ”を笑って受け入れてくれた。
あそこが俺の居場所だったことも、分かる。
じゃあ、今の俺が帰る場所は?
盗賊団の拠点が浮かぶ。食卓や浴場、訓練場で交わした、くだらない言い合い。ガレウス団長にレナリア先輩、セド、ヴィンク、ルフス、ティモン、ネストル。そして、目の前のライラ。
名前も、一緒に過ごしたことも覚えている。
なのに、何も湧かなかった。
あそこへ帰りたいと思っていたはずなのに、どうして帰りたかったのかが分からない。
「……なんだよ、これ」
声が震えた。
「ユイト?」
「みんなのことは覚えてる」
ライラの眉が寄る。
「拠点も。みんなとそこで過ごしたことも、覚えてる」
言葉にするほど、空白の形がはっきりしていく。
「でも……」
口にしたくなかった。
けど、言わなきゃ伝わらない。
「……あそこが、俺の居場所だったって感覚がない」
ライラの指が止まった。
「帰りたいって……思えない」
言葉にした瞬間、指先まで冷えた。
今度は、記憶そのものじゃない。
記憶にあったはずの意味が消えている。
殺意を奪った夜から胸の奥には何かが沈み、《矜持》のあとには小さな空白が残った。《地脈感知》を奪ったときにはライラの言葉が消え、そして今、帰る場所に結びついていた感情まで失っている。
失うものが、少しずつ大きくなっている。
「……そっか」
ライラの声が小さくなった。一緒に暮らした拠点へ帰りたいという気持ちを俺が失ったのだから、怖くないはずがない。それでも、襟元を掴んだ手は離れなかった。
「じゃあ、帰るよ」
「……は?」
「あたしらの拠点に」
当たり前みたいに言う。
「帰りたいって思えなくても、帰る」
「ライラ……」
「なくしたなら、もう一回そう思わせる」
強い声だった。でも、指先は震えている。
「ここにいていいって。帰ってきていいって。何回でも分からせる」
胸の奥に空いた穴は、埋まらない。
ただ、その言葉だけは、落ちずに残った。
「団長!」
レナリア先輩の声が飛んだ。
ガレウス団長の脇腹から流れた血が、林の土を黒く染めている。《鋼心》で無理に立ち続けたせいで、裂けた傷が大きく開いていた。
レナリア先輩はすでに膝をついて傷口を押さえ、ヴィンクが団長の身体を支えている。そのそばでセドが地面へ落ちた大剣を拾い、荷台へ載せた。
「肺までは届いてない」
レナリア先輩の声に余裕はない。
「でも、このままじゃまずい。セド、馬車は出せる?」
「ああ。道は空いた。全員乗れば、すぐ出せる」
「……まだ、生きてる」
ガレウス団長が掠れた声で笑う。
「喋らないでください」
「俺も支える」
左手の剣を鞘へ収め、立ち上がろうとすると、膝が震えた。
「今のお前に支えられたら、二人で倒れる」
ヴィンクは冗談めかして言ったが、額には汗が浮いていた。
「荷台を空けろ! 団長を乗せる!」
ティモンが空箱を端へ寄せ、ルフスが毛布を広げた。
幌の下から、不意に声がした。
「わたしが、傷を押さえます」
幌布が持ち上がり、セレナが荷台から降りてきた。青い髪は乱れ、顔から血の気が引いている。それでも迷わず団長のそばへ膝をつき、レナリア先輩から受け取った清潔な布を傷口へ重ねた。
「ここを強く」
「はい」
セレナが両手に体重をかけると、ガレウス団長がわずかに呻いた。
「申し訳ありません。ですが、離しません」
「……好きにしろ」
ヴィンクとセドが団長の上半身を持ち上げ、ティモンが脚側へ回った。セレナも傷口を押さえたまま一緒に荷台へ上がり、三人が団長を毛布の上へ横たえる。
ルフスは、帳簿と偽荷札、納品控えを収めた背負い袋を荷台の反対側へ固定した。
「炭焼き道を抜ける。追手が立て直す前に、森の奥まで行くぞ」
セドが荷台から御者台へ移った。
「安全な場所まで行ったら、団長の傷を縫う」
レナリア先輩が言った。
荷台の前で警戒を続けていたネストルが、騎士たちの退いた方を見て声を上げた。
「今のところ、追ってくる気配はない!」
「よし、全員乗れ!」
「道はあたしが見る」
ライラは御者台へ上がり、セドの隣に腰を下ろした。レナリア先輩に続いてルフスとティモンも荷台へ上がり、俺は荷台の縁に手をかけ、ヴィンクに引き上げてもらう。
最後にネストルが飛び乗った。これで全員だ。
「出すぞ!」
御者台からセドの声が飛び、手綱が軽く振られた。二頭の馬が力強く土を蹴り、馬車が動き出す。林を抜けて炭焼き道へ出ると、一気に速度が上がった。
セレナは傷を押さえたまま、荷台に座った俺の右手を見た。カタリナへ触れ、《大地覇掌》を奪った手だ。
「幌の隙間から、見ていました」
静かな声だった。
「あなたの指が、カタリナの腕へ触れたところも。土が動かなくなったところも」
カタリナ。
「……あいつは、お前を探してた」
「はい」
血に濡れた布を押さえる指が、わずかに強張る。
「最後まで、わたしの名前を呼びませんでした」
騎士たちが追っていたのは、帳簿と荷だ。
カタリナだけは、幌の奥にセレナがいると確信していた。
「あそこにいるのがわたしだと、部下たちに悟らせないためです」
セレナは、遠ざかる林へ目を向けた。
「カタリナは、わたしを守りながら、連れ戻そうとしていました」
「だったら、どうして出なかった」
口にしてから、最低な問いだと思った。出ればセレナは城へ戻され、俺たちも捕まる。分かっているのに、カタリナを傷つけた重さをセレナにも背負わせようとした。
「出れば、逃げてきた意味がなくなっていたからです」
セレナは目を逸らさない。
「それに、城を出ると決めたのは、わたしです」
「……お前のせいじゃない。あいつから力を奪ったのは、俺だ」
「はい」
否定してくれない。
優しい言葉で薄めてもくれない。
「団長を守るためだった」
「それも事実です」
セレナの声は震えていた。
「ですが、助けたことを理由に、奪ったことまで消さないでください」
カタリナの声が、耳の奥で蘇る。
――私の、大地を。
今の俺には、返す言葉がない。
セレナは続けた。
「でも、わたしまで奪ったことにしないでください」
「え?」
「わたしは荷ではありません」
青緑の瞳が、まっすぐ俺を見る。
「城を出たのは、わたしが選んだことです。ただ運ばれたのでも、盗まれたのでもありません」
「わたしの選択まで、あなたの罪にしないでください」
「だから、わたしはあなたを見捨てません」
セレナは血に濡れた両手で、団長の傷を押さえ続ける。
「あなたが奪ったものから目を逸らさない限り。わたしの選択からも、目を逸らさない限り」
「……おい」
ガレウス団長が目を閉じたまま言った。
「説教は……傷を縫ってからにしろ」
「喋らないでください」
セレナの声が少しだけ強くなる。
「お前、団長相手でも容赦ねぇな」
ヴィンクが息を吐いた。
「当然です。死なれたら困ります」
「俺も困る」
ヴィンクが返す。
「なら、急げ」
ガレウス団長の声は弱い。
団長は薄く目を開いた。
「ベックの次の搬送まで……三日だ。帳簿を死なせるな」
「まず自分が死なないでください」
セレナが即座に返した。
奪った証拠。
助けた命。
同じ馬車に載っている。
「ユイト」
レナリア先輩は、荷台で俺の隣へ座った。
「さっき、感情が一気に落ちた」
俺を見る。
「何か消えた?」
「……記憶は残ってます。帰りたいって気持ちだけ、抜けたみたいです」
「私に分かるのは、感情の揺れまで」
静かに言う。
「記憶と感情がどう結びついて傷ついているのかまでは、私じゃ診られない」
「じゃあ、どうすれば」
「能力そのものを見られる人に診てもらう」
「そんな人がいるんですか」
先輩は一瞬だけ黙った。
「……心当たりはある」
それ以上は言わなかった。
「今は、生きて戻ることだけ考えて」
戻る。
その言葉に、胸は動かなかった。
それが一番怖い。
車輪が激しく跳ねた。
俺は荷台の縁を掴みながら、御者台の二人の背中と、荷台にいるみんなをもう一度見た。
全員、知っている。
一緒に過ごしたことも覚えている。
大切だったはずだ。
それなのに、胸の奥の空白は何も返さない。
馬車は、俺たちの拠点がある方角へ走っている。
帰る場所も分かっている。
なのに。
帰りたい理由だけが、分からなかった。




