第6話「必要な一つ」
土の波が、傷を負ったガレウス団長へ押し寄せる。
胸の奥では、団長から渡された重い鼓動がまだ響いていた。
「ヴィンク――一拍、借りる!」
「ああ」
鎖を鳴らして、ヴィンクの鎖槍が土の波の端へ食い込んだ。押し寄せる土に引かれても、その足は動かない。踵を地面へ沈めて鎖を横へ引くと、土の波がわずかに歪んだ。
「ライラ!」
「うん!」
さっきより太く燃えるライラの紅刃が、鎖の通った場所へ突き刺さり、湿った土を一息に焼き固めた。黒く固まった部分が流れに引っかかり、波の勢いが鈍る。
「今だ!」
俺は地面を蹴った。
疲れ切っていたはずの脚が、身体を前へ押し出した。
けれど、土の波は止まらない。崩れた土の奥から、次の土が押し上がってくる。少し離れたところでは、レナリア先輩がセドたちと残る三人の騎士を食い止めていた。こっちへ手を貸す余裕はない。俺たちでやるしかない。
カタリナの青い瞳が、ほんの一瞬だけ馬車へ流れる。連動するように、足裏へ押し寄せていた土の動きがわずかに鈍った。
ガレウス団長の言葉が、まだ刺さっている。
――守りたい奴がいるから、そこに立ってんだろ!
その隙を逃さず、さらに踏み込んで《穿界視》を開く。見るのは、カタリナの足の向きと、大斧が通る場所だけだ。
ヴィンクがさらに鎖を引いて土の波を斜めに崩し、そこをライラの紅刃が焼き固めていく。俺は足を止めず、二人が作った足場を蹴って一気に駆け上がった。
「来るな」
カタリナの低い声とともに大斧がその手を離れ、宙で軌道を変えて俺の肩口へ落ちてくる。ヴィンクの鎖が土から抜けて跳ね上がり、大斧の柄へ巻きついた。張り詰めた鎖が見えない力に引かれ、ヴィンクの巨体が地面を滑る。
「……重い」
それでもヴィンクは鎖を離さず、大斧の軌道をほんの少しだけ外へ逸らした。そこへライラの紅刃が走り、大斧の腹で火が弾ける。斧は止まらなかったが、俺の前に半歩分の道が空いた。
「ユイト!」
ライラの声に背中を押され、俺は剣を左手に持ち替えて、崩れた土の隙間へ身体を滑り込ませた。カタリナが右腕を引く。拳が来る。俺は《穿界視》で肩の沈みだけを拾い、身体を捻った。
拳が頬すれすれを抜け、風圧だけで皮膚が切れる。それでも踏み込み、空いた右手を伸ばした。指先がカタリナの左腕へ触れ、熱が伝わってくる。
今だ。
奪う。
《万象奪界》。
黒紫の光が触れた一点から弾け、カタリナの左腕を駆け上がった。細い光は肩を越えて胸を走り、脚へ絡みつく。
「――っ!?」
カタリナが息を呑む間に、光が全身を包み込んだ。同時に、相手から奪えるものが一気に輪郭を持つ。能力、記憶、感情――いくつもの選択肢が俺の中へ流れ込んできた。
その中に、ひときわ強く脈打つ感情がある。恐怖と焦り、失いたくないという怯えが、何かを守ろうとする衝動へ結びついていた。誰を、何から守ろうとしているのかまでは分からない。ただ、その必死さだけは俺と同じだった。
続いて、四つの能力が名前を持って浮かび上がった。
大斧を含む物体を、見えない力で操る《念力支配》。
土を操り、壁にも槍にも波にも変える《大地覇掌》。
肉体の筋力と耐久を大きく引き上げる《修羅躯体》。
そして、その奥。
肉体の限界を壊し、別の戦闘形態へ変える《修羅変生》。
四つとも、欲しい。
けれど、今選ぶのは欲しいものじゃない。
土を操る力が残れば、団長へ迫る波は止まらない。
目の前の一撃を止める。そのための一つだ。
選ぶ。
「……《大地覇掌》」
選ばなかった三つの輪郭が、消える間際まで目に焼きついた。
選び取った途端、胸の奥で何かが切れた。
黒紫の光が強まり、カタリナの身体から《大地覇掌》だけが引き剥がされた。
「――っ、あ……!」
カタリナは声を詰まらせ、咳き込んで片膝をついた。地面のうねりが止まり、ガレウス団長へ押し寄せていた土の波が、支えを失ったように崩れ落ちる。
「……間に合った」
声が震えた。
ガレウス団長は膝を震わせながらも、大剣を地面へつかずに踏みとどまっている。
俺の中には、奪った力の感覚がある。どう動かすのか、輪郭だけなら分かる。けれど、流れ込んだのは能力だけだ。カタリナの魔力量も、鍛え上げた制御も、俺のものになったわけじゃない。
俺自身の魔力は足りている。あとは、うまく動かせるか。
カタリナから手を離し、二、三歩退いてから、崩れた土へ掌を向けた。退け、と命じると、足元の土が拳一つ分だけずれる。たったそれだけで必要以上の魔力を持っていかれ、膝が沈んだ。
「ユイト!」
駆け寄ったライラが、身体を支えてくれる。
「平気!?」
「……力は来た」
息を整える。
「でも、今の俺じゃ全然使いこなせない」
大斧が鎖を振りほどいて手元へ戻り、カタリナはその柄を地面へついて立ち上がる。
右足を踏み込んだ。
何も起きない。
もう一度。
地面は動かない。
青い瞳に、初めて小さな恐怖が走った。
「……奪われた」
カタリナが俺を見る。
怒りより先に、喪失があった。
「私の、大地を」
胸が痛んだ。
この力は、カタリナが誰かを守るために鍛えてきたものかもしれない。
俺は、それを奪った。
必要だった。
団長を救うためだった。
そう言えても、奪った事実は消えない。
ガレウス団長が、血の滲む脇腹を押さえながら前へ出た。
「ここから先は踏ませねぇ」
カタリナの目が団長へ向き、さらにその向こうの馬車へ流れた。少し離れた場所では騎士が一人地面に倒れ、残る二人とレナリア先輩たちが睨み合っている。
「私は取り戻す」
掠れた声だった。
「奪われた力も……あそこにいる人も」
大斧を握り直す。
「全部、取り戻す」
「もう地面は動かねぇ」
ヴィンクが鎖槍を構える。
「諦めろ」
「嫌だ」
「大地を奪われても……行く」
一歩。
「腕が動くなら、斧を振る」
もう一歩。
「脚が動くなら、走る」
青い瞳が、馬車から離れない。
「まだ、間に合う」
赤黒い魔力が、カタリナの身体から噴き上がった。
触れた時に見た、四つ目の力。
「……《修羅変生》」
カタリナの身体が跳ね、肩と背の筋肉が盛り上がった。皮膚の下を赤黒い魔力が走るにつれ、指先から爪が伸び、唇の隙間から牙が覗く。白銀の髪の上では、同じ魔力が角のように揺らめいていた。
残る二人の騎士まで息を呑んだ。
「騎士団長……?」
その一瞬だけ、騎士たちの動きも止まる。
レナリア先輩は馬車との間に立ったまま、剣を構え直した。
こっちは、俺たちで止める。
「まだ、こんな力まで残ってんのかよ……」
ヴィンクが低く呻いた。
カタリナが踏み込んだ。地面は動かず、代わりに踏み込んだ場所が砕け、土と小石が爆ぜる。
――消えた。
そう見えた直後には、カタリナはガレウス団長の懐へ潜り込んでいた。繰り出された拳を、団長が横に構えた大剣で受ける。剣腹へ叩き込まれた衝撃で両足が土を削ったが、それでも切っ先は下がらなかった。
カタリナの手に、大斧がない。
嫌な予感がした。
「団長、後ろ!」
宙を飛ぶ大斧が、団長の背後から迫っていた。《念力支配》だ。カタリナは正面から拳を叩き込みながら、大斧まで操っている。
ガレウス団長が身体を沈めると、大斧は頭上を抜け、カタリナの横を掠めてその背後の木へ突き刺さった。太い幹が大きく裂ける。
「まだ……!」
カタリナが腕を振ると、木へ食い込んだ大斧が抜け、宙で回転しながらもう一度団長へ飛んだ。
「間に合わない……!」
カタリナの声は、今までで一番苦しそうだった。
「邪魔をするな!」
正面から繰り出す拳と、背後へ回り込んだ大斧が、二方向から同時に団長へ迫った。
団長が大剣の腹で拳を外へ流すのと同時に、ヴィンクの鎖が飛来する大斧の柄へ巻きついた。ヴィンクが全身で引くと、張り詰めた鎖に引かれて大斧が横へ逸れ、地面へ落ちる。
その隙を縫ってライラの紅刃が低く走り、カタリナの右足の脇へ突き刺さった。逃れようとずらした左足の後ろで、もう一刃が弾ける。動きを止められたカタリナの胸元へ団長の大剣が返ったが、拳で剣腹を受け止められ、そのまま押し返された。団長の身体が後ろへ流れても、構えは崩れない。
俺は《穿界視》を開いた。全部を追うな。カタリナの足だけに焦点を絞ると、団長を押し切ろうとするカタリナの右足へ体重が乗った。
――そこだ。
「右足に乗った!」
俺の声に応じて、ヴィンクの鎖が大斧から外れ、カタリナの右腕と胴へ巻きついた。
「……止まれ」
ヴィンクが引くのと同時に、ライラの紅刃が右足の周囲へ集中する。火が弾けてカタリナの右足がわずかに滑り、張り詰めた鎖に引かれて身体が傾いた。
ほんの一瞬。
十分だ。
ガレウス団長が踏み込み、大剣の腹をカタリナの胸当てへ叩き込んだ。どくん、と《鋼心》の鼓動が響く。カタリナの身体は後ろへ流れたが、変生した脚で地面を掴んで踏みとどまった。鎖を引きずりながら、もう一度前へ出ようとする。
「まだ……!」
まだ止まらない。俺は地面へ掌を向け、カタリナが踏み出そうとする右足の下へ意識を向けた。大きく動かす必要はない。拳一つ分でいい。
退け。
土が少しだけ沈んだ。
「っ!」
カタリナの足首が傾き、身体の軸がずれた。同時に俺の魔力も一気に抜け、膝が崩れそうになる。
「団長!」
「ああ!」
ガレウス団長が大剣を返し、体勢の崩れたカタリナの肩口へ、再び剣腹を横から叩き込んだ。鈍い衝撃音とともにカタリナが弾かれ、赤黒い輪郭が揺らいで魔力が漏れ出す。伸びていた爪が戻り、牙が消え、角のような影が砕けた。
「……まだ」
カタリナは馬車へ手を伸ばす。
「取り戻す……」
声から、さっきまでの獣じみた響きが消えていく。カタリナは一歩踏み出そうとして膝を折り、片手を地面についた。それでも、もう一度進もうとする。
「まだ……間に合う……」
腕から力が抜け、倒れかけた身体をガレウス団長が受け止めた。
「……ここまでだ」
団長が低く告げると、カタリナの瞼が落ちた。《修羅変生》が完全に解け、そこには気を失った一人の女騎士が残った。
「騎士団長!」
残った二人の騎士が声を上げる。
ガレウス団長はカタリナを地面へ横たえ、大剣を下げた。ヴィンクが腕と胴に巻いた鎖を解く。
「連れてけ」
二人が動きを止める。
団長が顎をしゃくった。
「今は追わねぇ。さっさと連れて帰れ」
騎士たちは一瞬だけ顔を見合わせた。
それから一人がカタリナへ駆け寄り、首筋へ指を当てる。
「……生きてる」
もう一人も駆け寄り、カタリナの身体を支えた。
「行け」
ガレウス団長がもう一度言う。
カタリナを支える二人の後ろでは、起き上がった騎士の一人が大斧を引きずる。ほかの負傷した騎士たちも互いに肩を貸しながら、林の外へ下がっていった。
戦いは終わった。
なのに、俺の中ではまだ何かが終わっていなかった。




