第7話「持ち帰るもの」
搬出回廊の石床を、荷車がゆっくり進む。
急いでも、遅すぎても怪しまれる。追手が気になりながらも、歩幅を変えずに進んだ。
荷台では、空樽と麻袋の陰にセレナが身を潜めている。
帳簿と偽荷札、納品控えも、そのすぐそばだ。
背後からは、追手の声がまだ聞こえない。
けれど、一人は応援を呼びに走っている。
時間があるわけじゃない。
「次の角です」
荷の陰から、セレナの小さな声がした。
「その先で、一度だけ札を確認されます」
「分かった。声は必要な時だけにしろ」
「はい」
ガレウス団長が返却車を押したまま角を曲がる。
魔石灯の下に、夜番の男が一人立っていた。
「返却札」
ガレウス団長が取っ手に結ばれた木札を見せる。
男は札を裏返し、荷台の空樽と木皿へ目を走らせた。
俺は息を殺す。
男の視線が麻袋の上を通った。
その陰に、セレナがいる。
「……通れ」
男が顎をしゃくった。
荷車が男の横を抜ける。
誰も振り返らない。
曲がり角をひとつ越えてから、ライラが小さく息を吐いた。
「ほんとに顔見なかった」
荷台の奥から、控えめな声が返る。
「絶対ではないと言いました」
「今それ言う?」
「通れたので、結果としては問題ありません」
「意外と強いね、セレナ」
「怖いです」
「そこ即答なんだ」
ほんの少しだけ抜けた肩の力は、すぐに戻った。
「止まれ」
前方から、低い声が飛んだ。
魔石灯の下に、城の作業着を着た男が立っている。
腰には大きな鍵束。
見覚えがあった。
王都へ入った日の昼。
潮待ちの荷を運びながら、石畳の下の水路を避けるように進路を変えていた男だ。
あの足運びだけは、覚えている。
男が返却札を見る。
「返却車?」
目が細くなった。
「まだ返却の時刻じゃねぇだろ」
胸の奥が冷えた。
こいつは、返却車の時間を知っている。
「厨房が詰まってる。先に出せってよ」
ガレウス団長が答える。
男は返事をせず、荷台へ近づいた。
「だったら、確認する」
手が麻袋へ伸びる。
ガレウス団長の声が落ちた。
「触るな」
男の目つきが変わった。
「――侵入者だ!」
ライラの指先で小さな火が弾け、頭上の魔石灯を吊る細い金具へ走る。
ぱちん。
灯りが傾き、回廊に影が広がった。
同時に、ヴィンクが鎖槍を放つ。
「――《鎖槍操術》!」
鎖が荷役用の木枠へ絡みつく。
引かれた木枠が倒れ、積まれていた空箱が回廊へ崩れた。
「走れ!」
ガレウス団長の声で、俺たちは返却車を押して駆け出した。
背後で怒鳴り声が増える。
さっき応援を呼びに行った男が、人を連れて戻ったらしい。
箱が蹴り飛ばされる音。
複数の足音。
それでも、鍵束を下げた男だけが妙に速かった。
暗い回廊で姿を見失った直後、前方の角に影が動く。
「右!」
レナリア先輩が声を飛ばす。
右の通路から、あの男が出た。
「なんで先にいるんだよ……!」
男は暗い回廊を迷いなく走る。
角へ差しかかる前に、もう身体を次の道へ向けていた。
俺は《穿界視》を開く。
男の足元に焦点を絞る。
靴底から、薄い魔力が石床の下へ沈んでいた。
踏み出すたびに広がり、すぐに消えていく。
何を感じ取っているのかまでは分からない。
ただ、あの男は地面を通して何かを探っている。
「ライラ、あいつの足を止めてくれ!」
「分かってる!」
ライラの火が男の足元へ走った。
焼くためじゃない。
進路をずらすための火だ。
男が横へ跳ぶ。
進路を塞ぐ男の手前で、ガレウス団長が返却車を止めた。
俺は取っ手から手を離し、男へ向き直った。
「ユイト! ちゃんと戻ってきてよ!」
ライラの声を背中で聞きながら、踏み込む。
男が腕を振る。
俺は避ける。
その手首を掴んだ。
黒紫の光が、掌から溢れた。
《万象奪界》。
ここで初めて、男の中にあるものが輪郭を持つ。
浮かんだいくつかの輪郭。その中に、一つ。
石の下へ沈む感覚。
水の流れ。
埋まった空洞。
地面の奥にあるものを拾う力。
――《地脈感知》。
奪えば、この男はこの力を失う。
分かっている。それでも止めなければ、仲間も、荷の陰のセレナも捕まる。
選ぶのは俺だ。
「……奪う」
黒紫の光が、男の腕から俺の中へ流れ込んだ。
次の瞬間。
足裏から、世界が広がった。
石床の下を、水が流れている。
右の壁の向こうには、大きな空洞。
さらに下には、細い水路。
全部がはっきり分かるわけじゃない。
重なりすぎて、むしろ頭がくらむ。
それでも、大きな流れだけは拾えた。
男が膝をついた。
「な……下が……」
石床に両手をつき、何かを探すようにその表面を撫で回す。
俺の掌には、まだ黒紫の光の熱が残っていた。
胸の底で、もっと、と渇きがせり上がる。
「ユイト! ――」
ライラが叫んだ。
俺の名前は聞こえた。
焦った声だった。
なのに。
その次に何を言われたのかだけが、頭から抜け落ちた。
つい今、聞いたはずなのに。
「……何だ、これ」
胸の奥が冷える。
「後だ!」
ガレウス団長の声で、無理やり顔を上げた。
追手の足音が近づいている。
足裏へ意識を戻す。
右の壁の向こう。
水の流れと、その上に細長い空洞がある。
行き先までは読めない。
でも、水は城の内側へ向かって流れてはいない。
「右の壁の向こうに水路がある!」
俺は《穿界視》の焦点を壁へ絞った。
石の継ぎ目。
途中だけ、不自然に縦へ揃っている。
「ここ、塞がれた扉だ!」
ガレウス団長が即座にヴィンクへ合図を送る。
「ヴィンク!」
「ああ!」
鎖槍の穂先が石の継ぎ目へ食い込む。
ヴィンクが腕を引いた。
ごりっ、と鈍い音。
石板がわずかに浮く。
もう一度。
入口を塞いでいた石板が崩れた。
向こうには、下へ続く狭い石階段。
湿った空気が吹き上がってくる。
「入れ!」
ガレウス団長が返却車を押し込もうとして、止まった。
階段が狭い。
荷車は通らない。
背後では追手の声が近づいている。
ガレウス団長が荷台を見た。
「金はまた盗れる」
「帳簿を持て。人を先に通す。荷車は捨てる」
俺は麻袋を開き、帳簿や偽荷札、納品控えの入った背負い袋を引き出した。
ライラが白い粉の小瓶と青銀の飾り紐を、その中へ滑り込ませる。
裏金の革袋も、一つだけ詰めた。
もう一つは置いていく。
帳簿に記されていたベックの名が、頭をよぎった。
三日後。
次回搬送。
まだ間に合う。
俺は袋の口を縛り、背負った。
「セレナ。ここから走るぞ」
空樽の陰で布が動いた。
セレナは自分で荷を押しのけ、荷台から降りる。
足は少し震えている。
それでも、立った。
「走れます」
セレナは息を整える。
「今度は、自分の足で」
ライラがセレナの手首を掴んだ。
「じゃあ、あたしから離れないで。転んだら引っ張るから」
「はい」
最後にヴィンクが返却車を横へ倒した。
空樽と木皿が回廊へ散らばる。
「行くぞ!」
俺たちは石階段を駆け下りた。
冷たい水が足首へ触れる。
《地脈感知》は、まだ俺の中で暴れていた。
近い水。
遠い空洞。
石の厚み。
一度に拾いすぎて、頭の中で混ざる。
今は細かく読めない。大きな水の流れだけに意識を絞った。
「こっちだ」
水が下る方へ進む。
「外に出るか分かるの?」
ライラが走りながら聞く。
「分からない。でも排水なら、流れの先は城の外へ向かうはずだ」
「たぶん?」
「たぶん」
「そこは言い切ってよ!」
「無茶言うな!」
後ろで何かが崩れる音がした。
置いてきた荷車を、追手がどかしている。
時間は稼げた。
でも、それだけだ。
低い水路を何度も曲がる。
足裏に残る流れを拾う。
右より左。
細い方より、水量の多い方。
それだけを頼りに走った。
やがて、前方から冷たい風が吹いてきた。
「風だ」
ヴィンクが顔を上げる。
先に鉄格子が見えた。
その向こうは夜。
王都の城壁の外へ流れ出る、古い排水口だ。
「ヴィンク!」
「任せろ!」
鎖槍が格子へ絡む。
ヴィンクが鎖を引く。
鉄が軋み、錆びた留め具が外れた。
夜の風が、顔へぶつかる。
「出ろ!」
ガレウス団長を先頭に、全員が水路から飛び出した。
セレナも、自分の足で走っている。
その直後。
王城の奥で鐘が鳴り始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
侵入者を知らせる鐘が、夜へ響く。
背中には、潮待ちの帳簿。
偽荷札。
納品控え。
隣には、自分で王都を出ると決めたセレナ。
足裏には、新しく奪った《地脈感知》。
そして胸の奥には、あの瞬間のライラの言葉だけが抜けた、小さな穴がある。
持ち帰るものを選んだはずだった。
それでも俺は、また一つ失くしていた。
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