第4話「札が通す隙間」
翌日、昼過ぎ。
水門が開く少し前の南側通りは、昨日見た下町とは別の顔をしていた。
荷車。
荷車。
また荷車。
木箱を積んだ手押し車が、王城南側の高い石壁へ向かって列を作っている。
壁の下には、正門よりずっと低い鉄扉があった。
王家が出入りする門じゃない。
荷を入れるための門だ。
「……いた」
古びた荷揚げ場の屋根の上で、ライラが小さく呟いた。
昨日と同じく、五人は離れて配置についている。
ガレウス団長とヴィンクは、水門の近くに並ぶ荷役たちに紛れている。
レナリア先輩は通りの反対側。果物屋の軒下から、人の流れを静かに見ていた。
俺とライラは、少し高い荷揚げ場の屋根に身を伏せている。
見下ろした先で、一人の男が手押し車を押していた。
ベック。
昨日、血印を押した店主だ。
肩は落ち、顔色も悪い。
それでも、荷車を押す手だけは止めていなかった。
「ほら」
ライラが、わずかに身を乗り出す。
「荷縄の裏。昨日の印」
荷台を縛る太い縄の結び目。
その裏側に、豆粒ほどの焦げ跡が残っている。
「ちゃんと残ってたな」
「当たり前でしょ。あたしの火、そんなに雑じゃないし」
「……相変わらず器用だな」
「なに。また嫉妬?」
「少しだけ」
「素直でよろしい」
得意そうに笑ってから、ライラはすぐに表情を引き締めた。
ベックの手首には、昨日見た赤黒い痕が薄く浮いている。
荷を運ばなければ痛む。
誰かに話そうとしても苦しくなる。
その前に、家族の札まで握られている。
「……あの人、逃げないんだね」
ライラの声は小さい。
「逃げないんじゃない」
俺は、ベックの足元を見た。
「逃げられないんだ」
ベックが鉄扉の前へ着く。
門番が手を出した。
「荷役札」
ベックは胸元から小さな木札を取り出す。
波打つ線が二本――潮待ちの印。
門番は札を確かめ、ベックの顔を見ることもなく顎をしゃくった。
「南の納品倉。第二搬入口へ回れ」
「……はい」
「水門が開いたら、すぐに入れ。遅れた荷は、今日の帳簿から落とす」
ベックの肩が、びくりと跳ねた。
門番は気づかない。
気づいても、気にしないのかもしれない。
水門の奥で、合図の鐘が鳴った。
続けて、ごう、と重い水音が響いた。
石壁の向こうから、水が流れ込む音だ。
大戦前から残る古い地下水路へ、水が通されたのだろう。
南側の通りに、湿った風が抜けた。
荷役たちが一斉に動き始める。
「荷車を通せ!」
「南の搬入口、急げ!」
ベックの荷車が、列の中へ飲み込まれていった。
鉄扉の向こうには、下へ続く緩い坂道がある。
荷車は城へ入るというより、王城の腹へ沈んでいくように見えた。
「……あそこが本命?」
ライラが囁く。
「まだ分からない」
「潮待ちの荷は入ったけど?」
「ああ。でも、白い粉まで繋がってるかは中を見ないと分からない」
ライラは一度だけ頷いた。
「じゃ、今はそこまで」
「そういうこと」
潮待ちの荷が、南の納品倉へ入った。
まずは、それだけ覚えておく。
*
荷の列が途切れるまで、俺たちは動かなかった。
ベックの車輪が石の坂を降りる音。
門番の短い怒鳴り声。
荷役たちが札を出すたびに鳴る、木札の乾いた音。
それを、ただ覚える。
どの門番が札を確かめるか。
どこで荷車が止まるか。
巡回が何人で、どの順番で回るか。
通りの向こうで、レナリア先輩の手が動いた。
右に二人。
左に一人。
見張り台に二人。
声を使わない合図なのに、不思議と迷わなかった。
俺は指の動きを目で追いながら、見張りの配置を頭に入れていく。
右の兵は、鉄扉から離れない。
左の兵は、水路側まで来ると引き返す。
見張り台の二人は、何度見ても陰になった壁際へ視線を向けるのが遅い。
そして、納品倉の横。
水路沿いの低い壁に、小さな鉄扉がある。
昼のあいだ、そこから年嵩の荷役が一度だけ出てきた。
手には泥のついた棒と、濡れた布。
水路の清掃や点検に使う保守扉なのだろう。
「あれ」
俺が顎で示すと、ライラも目を細めた。
「正面より、だいぶ狭いね」
「荷を通す扉じゃない」
「人だけなら?」
「入れる」
それから夕暮れまで、保守扉は一度も開かなかった。
正面じゃない。
けれど、道はある。
*
日が落ちた。
納品倉の外に残ったのは、夜番の兵と荷役だけだった。
俺とライラが屋根を下りて水路脇の影へ合流すると、ガレウス団長が低く言った。
「正面は使わねぇ」
団長の視線が、昼にベックが通った鉄扉へ向く。
「荷役札を見せても、今度は顔まで見られるかもしれねぇ。昼から同じ門番も残ってる。札だけ盗んでも割に合わねぇ」
「じゃあ、あっち?」
ライラが保守扉へ目を向ける。
「そうだ」
ガレウス団長が口の端を上げた。
「盗むのは札じゃない。札が通す“隙間”だ」
ヴィンクが、狭い保守扉を見て眉を寄せた。
「俺は無理だな」
「お前が入ったら、扉が壊れる」
ライラが小声で笑う。
ヴィンクは無言でライラを見下ろした。
「……否定しないんだ」
ライラが言うと、ヴィンクは短く答えた。
「事実だからな」
ガレウス団長が俺たちを見る。
「先に入るのは三人。ユイト、ライラ、レナリア」
レナリア先輩が頷く。
「私は巡回を見ます。誰かがこちらへ向く前に知らせます」
「ライラは退路だ」
団長の視線が、ライラの指先へ落ちる。
「通った道を覚えろ。分かれ道があれば火で印を残せ。戻る時に迷うな」
「任せて」
ライラは胸を張った。
でも、声はちゃんと低い。
「団長とヴィンクは?」
俺が聞く。
「外だ。保守扉の近くで待つ。俺たちも通れる入口を探しておけ」
ガレウス団長は、水路の闇を指した。
「呼ぶ時は、見つけた入口から水路へ赤い火花を一つ飛ばせ。二つなら帰還。三つなら異常だ。三つ上がったら、扉を壊してでも引っ張り出す」
「結局、壊すんじゃん」
ライラが言う。
「三つ上がったらな」
ヴィンクが腕を組んだ。
「帰れねぇ潜入は仕事じゃねぇ」
その言葉に、俺は頷いた。
盗むのは帳簿へ続く手がかり。
*
水路側の兵が引き返すと、レナリア先輩が小さく頷いた。その合図で、俺たちは保守扉へ近づいた。
扉の前で、ライラが俺の横顔を覗き込んだ。
「ね、ユイト」
「なんだ」
「眉間、固い」
「緊張してるだけだ」
「じゃ、一回息吐いて」
「子ども扱いすんな」
「石像になるよりマシでしょ」
言われた通り、息を吐く。
少しだけ肩の力が抜けた。
「ほら。マシになった」
「……お前、こういう時だけ先輩ぶるよな」
「あたしの方が先に盗賊やってるもん」
「はいはい」
ガレウス団長が、細い針金と薄い金属板を俺へ渡した。
「使い方は覚えてるな」
「はい」
俺はしゃがみ込み、鍵穴へ道具を差し入れた。
《穿界視》を開き、錠前の奥へ焦点を合わせる。
金属の爪も、そこへ伸びる針金の先も見える。
爪の動きを確かめながら、指先を動かす。
カチリ。
ほどなく、錠が外れた。
「……開いた」
ライラが唇だけで「すご」と言い、親指を立てる。
俺が道具を抜くと、ガレウス団長が一度だけ頷いた。
「入れ」
俺は扉を押した。
石と鉄が擦れる音を、全員が息を殺して聞く。
幸い、音は水路を流れる水音に紛れた。
扉の隙間から、冷たい空気が漏れてくる。
中は暗い。
湿った石の匂い。
古い木の匂い。
そして――白い粉の、甘ったるい臭い。
「……やっぱり、この先か」
俺が囁くと、レナリア先輩が目を細めた。
「人もいるわ」
「何人です?」
「何人か。焦ってる。怯えてる人もいる」
それ以上は分からない。
俺たちは、狭い保守通路へ身体を滑り込ませた。
扉の外に残るガレウス団長とヴィンクが、闇へ溶ける。
背後で、扉がゆっくり閉じた。
視界が闇に閉ざされた、その直後。
奥の闇から、ぎぃ、と一度だけ手押し車の車輪が鳴った。
続けて、誰かが咳き込む。
短く。
苦しそうに。
「ベック、止まるな」
男の低い声が飛んだ。
俺は呼吸を抑える。
ベックは、まだ中にいる。
潮待ちの荷が運ばれる、その先に。
潜入は、ここからだった。
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