第3話「近道の囁き」
王都の夜は、昼よりもよく喋る。
酒場の笑い声。路地裏の咳。石畳を急ぐ靴音。
灯りが増えるほど、その隙間にある影まで濃くなる。
「五人で固まるな」
宿を出るとき、ガレウス団長はそう言った。
「水門が動くまで、昼の荷車が消えた裏通りを読む。二つ先の角まで散れ。仲間の顔をするな」
俺たちは下町の人波へ、別々に紛れた。
団長は少し前。
レナリア先輩とヴィンクは通りの反対側。
俺とライラは、古着屋の軒下を歩く。
近くにいる。
けれど、五人が仲間には見えない距離だ。
「ユイト」
ライラが前だけを見たまま、小声で言う。
「団長に言われたこと、覚えてる?」
「車輪の先と、道の下」
「あと?」
「……人の中身に答えを探さない」
「よし」
「お前、レナリア先輩みたいになってきたな」
「誰のせいだと思ってんの」
言い返せない。
鼻の奥には、白い粉の甘ったるい匂いがまだ残っている。
奪えば早い。
それを知っているからこそ、今夜は自分の足で追う。
*
最初に目に入ったのは、貴族街の外れだった。
白い石の建物。窓から漏れる楽の音。飾り金具まで磨かれた馬車。
通りの角で、絹の外套を羽織った青年が、同じような身なりの男へ詰め寄っている。
「……お前さえいなければ、父上は俺を選んだ」
「選ばれないのは、お前が弱いからだろ」
「黙れ……ッ」
拳が震えていた。
「金持ちでも、ああいう顔するんだな」
俺が呟くと、ライラがちらりと見る。
「嫉妬に金持ちとか関係ないでしょ」
「……俺も、あんな顔してた?」
「あたしの火見てたとき?」
「言うな」
「してたしてた。もっと情けない顔」
「余計だ」
悔しい。羨ましい。追いつきたい。
ライラが顎で先を示した。
「でも、あの人たちは今日の仕事じゃない」
「分かってる」
「じゃ、次」
一本先の通りへ入る。
屋台から焼いた栗の匂いが流れてきた。
幼い子どもが笑い、母親らしい女がその手を引いている。
一瞬だけ、普通の夜だった。
けれど、その先の路地へ踏み込んだ途端。
栗の香りは、甘ったるい薬臭さと酒と汗の臭いに塗りつぶされた。
背の低い建物の陰で、商人風の男が小袋を揺らしている。
灰色の手袋。
片耳には細い銀環。
笑っているのに、目だけが笑っていない。
向かいにいるのは、三十を少し過ぎたくらいの男だった。
袖には安い染料の跡。指先には細かな切り傷。
小さな店を、自分の手で回している人間の手に見えた。
俺たちは壁際へ寄り、立ち話をするふりで耳を澄ませた。
「今月で三袋目だ、ベック」
「高すぎる……」
ベックと呼ばれた男は、唇を噛んだ。
「店を潰すより安いだろ。夜は眠れず、昼は手が震える。粉がなきゃ釣り銭も数えられないんじゃ、商売どころじゃねぇ」
「来月には返す。店の品が売れれば……」
「来月?」
商人風の男が鼻で笑った。
「粉代も借金も、きっちり記録してある。返せねぇなら、別の形で返してもらう」
商人風の男が懐から、一枚の羊皮紙を取り出す。
波打つ線が二本。
――潮待ち。
俺とライラの視線が、一瞬だけ重なった。
「明日の昼過ぎ。水門が開く前に、王城の裏門へ行け」
商人風の男が羊皮紙を読み上げる。
「裏門で荷役札を見せる。荷を引く。中身は問わない。誰にも話さない。届けば、今月分の利子は消す」
「……俺は、ただの店主だ」
「だから使いやすいんだよ」
男は楽しそうに笑った。
「門番は商人を疑わねぇ。王城の納品倉も、荷役札があれば通れる」
ベックの目が揺れる。
「家族の札は……返してくれ。妻と子は関係ないだろ」
「関係あるから、こうして使ってんだろ」
ベックの顔が歪んだ。
「俺の札なら好きにしろ。店だって持っていけばいい。だから、家族だけは――」
「駄目だ」
商人風の男は即答した。
「逃げれば、妻子の札は無札区へ流す。店も明日には差し押さえる」
ライラが一歩踏み出しかけた。
俺も奥歯を噛む。
札と借金だけで、人をここまで追い込める。
商人風の男が、羊皮紙の端を指で叩いた。
「嫌なら押さなくていい」
男は羊皮紙をベックの前へ差し出した。
「粉を欲しがったのも、借金したのもお前だ。俺は返し方まで用意してやってる」
そして、血印の欄を示す。
「書いたことしか縛れねぇ。余計なことも書いてない」
ベックは、しばらく動かなかった。
「……これをやれば、家族には手を出さないんだな」
「荷をちゃんと運べばな」
ベックは俯いた。
それでも最後には、指先を噛んだ。
血が滲む。
親指が、紙へ落ちる。
赤黒い光が走った。
細い鎖みたいな魔力が、血印からベックの手首に絡みつき、袖の下へ潜っていく。
血印の光が消えると、俺たちは何事もなかったように歩き出した。レナリア先輩が通りすがりを装い、俺たちの横で歩調を緩める。
視線は前のまま。唇だけが動く。
「……誓いを魔力で縛る系ね」
「分かるんですか」
「似たものを、一度だけ見た」
「破ったら?」
「痛み。魔力も削られる」
ライラが歩調を変えずに囁く。
「じゃあ、何でも命令できるの?」
「いいえ。書かれたことだけ」
「でも、あれ……同意って言えるの?」
「言えることにされるのよ」
先輩の声がわずかに硬くなる。
「能力だけなら万能じゃない。でも家族の札と借金まで握られたら、破れない。話せない。逃げられない」
「だから証言も出ない……」
「ええ」
レナリア先輩は、それ以上言わずに俺たちを追い越した。
ベックは手首を押さえていた。
その手の震えが止まらない。
粉のせいか。契約のせいか。
もう、どちらかなんて分けられないのかもしれない。
商人風の男が、路地脇の手押し車を引き出した。
荷台には木箱がいくつも積まれ、荷縄には波の印がついている。
「明日、これを引け。裏門を抜けたら、南の納品倉まで止まるな」
男が、木製の荷役札をベックへ放った。
「潮待ちの荷を遅らせるな」
ベックは木札を握り、手押し車の柄を掴んだ。
俯いたまま、こちらへ歩いてくる。
すれ違う。
肩が触れるほど近い。
手を伸ばせば届く。
触れれば、《万象奪界》が開く。
そのとき初めて、ベックから何を奪えるのかが分かる。
何日もかかる手順を、飛ばせるかもしれない。
動きかけた指を、俺は握り込んだ。
先を歩いていたレナリア先輩が歩調を緩め、俺たちが追いついたところで声を落とした。
「今ここで、彼に触れる必要はないわ。もう十分、手がかりはある」
「……はい」
ベックは、もう俺たちの横を通り過ぎている。
「……危なかった」
俺が呟く。
「うん」
ライラは否定しなかった。
「でも止まれた」
ライラが遠ざかる手押し車へ目を向けた。
ライラの指先に、小さな火花が灯った。
赤い粒がひとつ、遠ざかる手押し車の荷縄をかすめる。
結び目の裏に、豆粒ほどの焦げ跡が残った。
誰も振り返らない。
俺は思わず、ライラの指先を見た。
「……便利だな、その火」
「なに。嫉妬?」
「……ちょっとな」
ライラが小さく笑う。
「触らなくても、できることあるでしょ」
「分かってるよ」
「じゃ、ユイトは見る係」
「はいはい」
今日は答えを抜き取る日じゃない。
答えへ続く道を、見失わない日だ。
*
宿へ戻ると、ガレウス団長が地図を広げた。
「報告」
俺たちは、見たものを順に置いていく。
「南の納品倉」
「明日の昼過ぎ」
「水門が開く前」
「潮待ちの荷役札」
ライラが最後に指を立てた。
「あと、荷縄にあたしの印。結び目の裏」
「見つかるか?」
ヴィンクが聞く。
「近くまで行けば。あたしなら分かる」
「十分だ」
ガレウス団長が頷いた。
「明日はベックと荷を追う。倉へ入る道を確認する」
「ベックは?」
俺が聞く。
「助けられる余地があるなら助ける」
団長の声は低かった。
「だが、今は契約の解き方も、あの鎖を誰が握ってるかも分からねぇ。焦って鎖を引っ張れば、首が締まるのはあいつだ」
「助けるためにも、順番がいるんですね」
「ああ。善意で首を締めたら笑えねぇ」
俺は頷いた。
「よし」
セドが大きく伸びをした。
「難しい話は終わり。腹減った」
「お前、さっきからそれしか考えてないだろ」
ヴィンクが言う。
「腹が減ってると良い作戦も出ねぇんだよ」
隣で鍋を覗き込んでいたライラが、すぐに口を挟んだ。
「さっきの作戦、セドほとんど喋ってなかったじゃん」
「心の中では三つくらい出してた」
「それ、誰にも伝わってないよ」
思わず笑いそうになった。
宿の女将から買った煮込みを囲む。
肉と根菜だけの飯だった。
セドが二杯目の酒に口をつけたころには、今度は口まで軽くなっていた。
「そういや俺が北街道で、七人の追手を一人で撒いた話したっけ?」
「昨日は五人だった」
ヴィンクが即答する。
「この前は四人だったよ」
ライラは食べる手を止めない。
レナリア先輩が淡々と続けた。
「最初は三人だったわね」
セドが頭を抱えた。
「お前ら、どうでもいいことだけ記憶力よすぎだろ!」
ガレウス団長が酒を飲みながら言った。
「来月には十人だな」
「増えねぇよ! 前のは言い間違いだ、七人で合ってる!」
俺も思わず口を挟む。
「言い直すたびに増えてんじゃねぇか」
セドが俺を指差した。
「ユイト、お前まで!」
その隙に、ライラの手がセドの器へ伸びる。
肉が一切れ消えた。
「おい!」
「自慢話の代金」
「それ一番柔らかいとこだぞ!」
「七人分なら安いでしょ」
「七人は本当なんだって!」
「三人よ」
レナリア先輩の一言で、俺はとうとう耐えられなくなった。
「っ、はは……!」
「笑いすぎだろ!」
「だって……三人が七人に……っ」
「増えてねぇ! 最初から七人!」
「三人よ」
「またそれ言うんですか!」
腹が痛い。
こんなふうに、声を上げて笑ったのは久しぶりだった。
「ほら」
ライラが、柔らかく煮えた根菜を俺の器へ落とした。
「これ好きでしょ」
「お前も好きだろ」
「あたしは肉もらったから」
「盗ったんだよ」
「細かいなあ」
向かいでレナリア先輩の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その頬は、いつの間にか赤い。
「レナリア先輩、酒弱いんですね」
「弱くないわ」
「弱い」
ヴィンクの即答。
「ヴィンク」
「事実だ」
ライラが吹き出す。
「レナリア先輩、人の感情は分かるのに、自分が酔ってるのは分かんないんだ」
「……関係ないわ」
「じゃあ恋愛も分かる? 相手が自分のこと好きとか」
レナリア先輩の杯が、一瞬だけ止まった。
「分かるのは、感情の波だけよ。安心してる。信頼してる。好意がある。大切に思ってる」
「十分じゃん」
「十分じゃないわ」
先輩は小さく酒を口にした。
「その好意が、どういう意味なのかまでは分からないもの」
「ふーん」
ライラが妙な顔で笑った。
「何よ」
「別にー」
ガレウス団長が空になった杯を置く。
レナリア先輩はそちらを見ていなかったのに、自然に酒袋を取っていた。
「悪い」
「いつものことです」
セドはまた話を盛り始め、ライラは次の肉を狙い、ヴィンクが呆れた顔をする。
笑い声が、宿の狭い部屋に残った。
*
団員たちは、毛布にくるまって転がっている。
少し離れたところでは、誰かのいびきがうるさい。
「……うるせぇな」
隣からヴィンクの低い声がした。
「俺じゃねぇ」
暗闇の向こうでセドが答える。
「お前だ」
「寝てる間のことなんか知らねぇよ……」
それきり、また寝息だけが残った。
俺は目を閉じる。
けれど、血印を押したベックの手首が浮かんだ。
「……まだ起きてる?」
すぐ近くから、小さな声がした。
顔を向けると、隣の寝床からライラがこっちを見ていた。
毛布を肩までかぶったまま、声だけを落としている。
「なんで分かった」
「寝返り多すぎ」
「数えてたのかよ」
「途中からね」
ライラが毛布の隙間から手を伸ばした。
俺の手を取って、両手で包む。
少しだけ眉をひそめる。
「やっぱり冷たい」
「大丈夫だ」
「こんなに冷たいのに?」
「……温めなくていい」
「やだ」
「即答かよ」
「冷たいまま寝かせる方が気になる」
手を引こうと思えば、引ける。
ベックの手首に絡んでいた鎖とは違う。
それでも俺は、手を引かなかった。
胸の奥の張りつめたものが、少しだけ緩む。
「明日さ」
ライラは毛布に半分顔を埋めた。
「また近道を見つけても、一人で行かないで」
「……行かないよ」
「ほんと?」
「今日は疑い深いな」
「いつもだってば」
少しだけ笑った。
ライラも笑う。
「明日は、あの荷を追う。ベックを見失わない」
「ああ」
「じゃ、もう寝よ。手はこのままね」
俺は小さく頷いた。
暗い部屋の外で、どこかの水路が低く鳴った気がした。
明日、潮が満ちる。




