第2話「帳簿という武器」
荷運び用にあてがわれた狭い部屋で、床板がかすかに軋んだ。
窓の外では王都の灯りが揺れ、遠くの笑い声が薄く届く。
けれど鼻の奥には、あの甘い薬臭さがまだ残っている気がした。
「出る前に、確認するぞ」
ガレウス団長が短く声をかけ、俺たちは机を囲んだ。
その上には、王都の古い地図が広げられている。
城壁。
下町。
市民街。
貴族街。
そして、中央の王城。
ガレウス団長の指が、まず城壁の外を叩いた。
「昼、門の横に別の列があっただろ」
「あの札を持ってない人たち?」
ライラの視線が、団長の指先を追う。
「そうだ。あいつらが寝床にしてるのが無札区だ」
壁に背を預けていた細身の団員が、低い声で続けた。
セド。普段は馬車や荷の段取りを任されることが多い男だ。
「日中だけ中へ入れて、荷を運ばせる。日が落ちたら外へ戻す」
「入れてるのに、住ませないの?」
「札がねぇからな」
セドは淡々と答える。
「仕事はさせる。市民にはしない。都にとって都合がいい」
ライラの眉が寄った。
昼の老人が頭に浮かぶ。
門の内側へ入るだけで、あんなふうに別の列へ押しやられていた。
ガレウス団長の指が地図の内側へ滑る。
「俺たちは表の外だ。だから、表から見えねぇもんが見えることもある」
ガレウス団長が地図を叩いた。
「今夜の目的は二つ。白い粉の流れを追う。それから、食い扶持になる金の出どころを探る」
「宝物庫?」
ライラが言う。
「違う。本命は、納品倉と、そこに残る記録だ」
セドが眉をひそめる。
「王城まで絡んでるなら、俺らだけで潰せる規模じゃねぇぞ」
「だから潰しに行くんじゃねぇ。まず、流れを掴む」
団長の指が、昼に見た南側の通りから王城へ向かって動く。
「どこから入り、どこを通り、誰が受け取る。そこまで分かれば、次が見える」
レナリア先輩が、布包みから小瓶を取り出した。
底には、白い粉がまだ少しだけ残っている。
「レナリア先輩。王都へ来る途中で言ってましたよね。昔、止められなかった人がいるって」
「……ええ」
レナリア先輩が小瓶を握る指に力を込めた。
「同じ粉で息子を壊された母親がいたの。何度も役所へ訴えた。誰に頼めば、この子を止められるのかって」
ライラの表情から、いつもの軽さが消えた。
「助からなかったの?」
「止められなかった」
「役所は流通を調べるために、王城へ入った荷の記録を照会した。でも、その翌日には該当する記録が消えていた」
「王城の中で?」
「断定はできないわ。ただ、記録を消せる位置に誰かがいた。それだけは確か」
ヴィンクが腕を組んだまま、低く吐き捨てる。
「役人は金で目をつぶる。騎士は証拠がなきゃ動けねぇ。正義が遅ぇのは、気分の話じゃねぇ。仕組みの話だ」
胸の奥が熱くなる。
刃で斬らなくても、人は壊せる。
紙を消して。
見なかったことにして。
助けが届かないようにする。
「だから帳簿だ」
ガレウス団長が言った。
「潮待ちの荷が王城へ入ってるなら、どこかに記録が残る。荷の量、行き先、受け取り、金の流れ。全部じゃなくていい。一つでも繋がれば証拠になる。向こうに消される前に、こっちで押さえる」
「帳簿を盗むの?」
ライラが聞く。
「金より面倒なもんをな」
レナリア先輩が静かに続ける。
「帳簿は、剣より厄介な武器になる。剣で倒せるのは、目の前の相手だけ。でも記録があれば、その背後にいる人間までまとめて引きずり出せる」
「盗賊が帳簿を武器にするのか」
俺が呟くと、ガレウス団長が口の端を上げた。
「盗むもんに決まりはねぇだろ」
「……金は?」
セドが聞く。
「白い粉で溜め込んだ裏金があるなら抜く」
「税金は?」
「そこには手ぇ出さねぇ。市民から集めた金を盗んだら、こっちも同じ穴だ。奪う相手は選ぶ」
「奪った先で、還せるものは還す」
俺が言うと、団長が頷いた。
「そういうことだ」
だから俺は、この場所にいられる。
「証拠があれば、騎士団は動くんですか」
「全員腐ってるなら、とっくにこの都は終わってる」
団長の目から笑いが消える。
「証拠もなく王城を疑えば、先に俺たちが賊として斬られる。だが帳簿があれば、無視できねぇ奴が出てくる。騎士にも役人にも、まだ筋を通したい奴はいる」
蝋燭の芯が、ぱちりと爆ぜた。
地図の途切れた水路を見ながら、昼の運び屋を思い出していた。
あの男の記憶が奪えれば、道を探す手間を省けるかもしれない。
無意識に、指先が動いた。
「ユイト」
ガレウス団長の声が、思考を断ち切った。
「……はい」
「また近道探してたな」
「顔に出てました?」
「出てた」
「出てたね」
ライラまで即答する。
「お前は黙ってろ」
「なんで。あたし一番分かるし」
けれど、ガレウス団長の目は真剣なままだった。
「《穿界視》は使え。まず見るのは、車輪の先と道の下だ」
「人は?」
「見るなとは言わねぇ。動きは見ろ。だが、人の中身に答えを探すな」
昼間の青年へ伸ばしかけた手を思い出す。
「今夜は、近道を探す夜じゃねぇ。流れを読む夜だ」
「……はい」
ライラが腰に差した短剣の紐を締め直す。
きゅ、と革が鳴った。
「ユイト。勝手に消えたら怒るから」
「消えねぇよ」
「昼も荷車追いかけそうになってた」
「止まっただろ」
「団長に止められたからでしょ」
「結果は同じだ」
「ぜんぜん違う」
ヴィンクが低く言う。
「言い合いは外でやれ」
「分かってる!」
ライラが言い返す。
「お前は少し黙れ」
俺が言うと、ライラはこちらを向いた。
「じゃあ、ユイトからね」
ガレウス団長が、地図へ手を置いた。
「動くのは五人。人数が多すぎりゃ、それだけで目立つ」
俺たちを順に見る。
「レナリアは気配を見る。ヴィンクは後ろを押さえろ。ライラは荷車の印と退路だ。危なくなったら火で目印を残せ」
「任せて」
「俺とユイトが前を見る」
団長の指が、最後にセドへ向く。
「セド。ルフス、ティモン、ネストルをまとめろ。宿の裏手の馬車を、先に城外へ出せ」
指が地図の城壁を越え、炭焼き道の脇にある林で止まった。
「俺たちが王都で動く間は、ここで待て。合流したらすぐ出せるようにしておけ」
「騒ぎになったら?」
「迎えには来るな。俺たちもこの林を目指す。敵に見つかったら、馬車を守って炭焼き道の先へ引け」
「了解」
逃げ道を残すことも、仲間を帰すことも、この団では同じくらい大事だ。
俺は地図に目を落とした。
「団長。昼の荷車は、もう消えました。今夜、何を追うんですか」
「昼の一台じゃねぇ」
ガレウス団長は、門の位置を指で叩いた。
「門番は言ってただろ。“水門が開いたら、裏から回す”ってな」
「でも、同じ荷車が出るとは限らない」
「その通りだ」
団長は頷く。
「だから水門が動くまで張る。同じ印の荷が出るかもしれねぇ。別の荷かもしれねぇ。受け手だけが動くかもしれねぇ」
「何が出るかは分からない」
「だから見るんだ」
レナリア先輩が古い水路の線を指でなぞった。
「潮待ちが本当に水門と繋がっているなら、水門が動けば、何か変化が出る。人の流れか、荷の流れか、水の流れか」
「それを拾う」
俺が言う。
「ええ。それで十分」
十分。
その言葉に、胸の奥の焦りが少しだけ遠のいた。
ガレウス団長が立ち上がる。
「行くぞ。今夜は偵察だ」
「はい」
「答えまで欲張るな。まず、帳簿まで続く道を見つける」
俺たちは頷き、武具の紐を締め直した。
王都のどこかで、水門が動けば、誰かが荷を運ぶ。
誰かが金を受け取り、その先で誰かが壊れていく。
今夜、俺たちが奪うのは誰かの中身じゃない。
帳簿へ続く道だ。




