第1話「王都の光と影」
王都セグラディンの門は、俺が想像していたよりもずっと狭かった。
人が通れる場所は、鉄格子に挟まれた細い口だけだった。
その前で、人が二つに分けられている。
身分札を持つ者。
持たない者。
札を持つ商人は、門番に札を見せ、荷の中身を二つ三つ答えるだけで通される。その横では、札のない老人が膝を震わせたまま、別の列へ押しやられていた。
「……あの人は?」
俺が小さく聞くと、ガレウス団長は前を見たまま答えた。
「身分のねぇ奴だ。王都じゃ、人間扱いされるまでに、まず札が要る」
「札がないだけで?」
「だけで、だ」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
前の世界より、ずっと露骨だった。
俺たちは地方商人の荷運びを装い、列に並んでいる。身分札は本物だ。――ただし、持ち主は俺たちじゃない。悪徳商人の荷から“借りた”ものだった。
「これ、本当に通るんですか」
「本物だからな」
ガレウス団長が低く言う。
「王都は札を見て、人を見ねぇ。本物なら、別の顔でも通る」
「ひどい仕組みだな」
「だから使える」
ライラが俺の袖をちょんと引いた。
「ユイト、眉間すごい。門番に変なことしないでよ?」
「しねぇよ」
「じゃあ、能力で順番だけ先に奪って。あたし待つの嫌い」
「能力を順番抜かしに使うな」
「便利なのに」
「そういう能力じゃねぇ」
小さく言い合った瞬間、門番の視線がこちらへ滑った。
俺は口を閉じる。
ガレウス団長が札を差し出した。門番は名前も顔もろくに見ず、蝋印の凹みだけを撫でる。
「通れ」
門をくぐった瞬間――鼻の奥に、甘ったるい薬臭さが薄く刺さる。
「……ユイト?」
ライラが俺を見る。
「白い粉の匂いがする」
「ここでも?」
「薄い。でも、同じだ」
廃屋の香炉に染みついていた、あの匂い。
なのに、石造りの城壁の内側では笑い声が跳ねている。親が子の手を引き、串焼きを分け合い、くだらないことで言い合っていた。
ああいう光を、俺は二度失っている。
人を見る前に、その人が何を持っているかを探しかけて――俺は奥歯を噛んだ。
王都は眩しい。
けれど、この光は届く場所を選ぶ。
届かない場所で泣き声が止むころ、正義はようやく走り出す。
だから俺たちは盗む。
「うわぁ……でっか……!」
隣でライラが目を丸くする。
ガレウス団長は短く言った。
「浮かれるな。まずは腹と寝床だ。動くのは夜」
「団長も初めて王都に来たとき、絶対見上げたでしょ」
「覚えてねぇ」
「それ、見上げた人の返し」
「黙って歩け」
門から離れようとしたところで、検問台の陰から門番のひそめた声が聞こえた。
「……“潮待ち”か」
「声を落とせ。水門が開いたら、裏から回す」
門番たちの前に立つ荷運びの男が、袖の内側から小さな木札を覗かせていた。そこには、波打つ線が二本刻まれている。
――潮待ち。
辺境の廃屋で見つけた帳面の一文が、頭をよぎった。
『潮が満ちたら運べ』
「今、“潮待ち”って言ったよね」
ライラが前を向いたまま囁く。
「ああ」
「海、ないのに?」
「その“潮”なら、心当たりがあるわ」
レナリア先輩が、ほとんど息だけで言った。
「王都の地下には、大戦前から残る古い水路が張り巡らされているの。貯水槽の水門が開いている間だけ、水かさが変わる」
「それを潮って呼ぶんですか」
「昔の荷役たちは、そう呼んだらしいわ」
ライラが小さく眉を寄せる。
「じゃあ、“潮待ち”って……水門が開くのを待ってる?」
「可能性はある。でも、まだ決めつけない」
レナリア先輩は門番たちを見たまま答えた。
ガレウス団長が、眉をひそめた。
「ただの荷運びの隠語にしちゃ、根が深すぎるな」
「門番まで知ってる」
俺が言うと、団長は頷いた。
「ここが入口だと思うな。もう内側に食い込んでる」
*
大通りは、昼の光でぎらついていた。
市場の屋台。焼けた肉の匂い。香辛料。香水。笑い声。
「ユイト、上!」
「え?」
頭上を、小さな荷籠が音もなく滑っていく。建物の間に張られた銀色の導線を、魔石の光に引かれるように進み、二階の窓へ商品を届けていた。
「何だ、あれ」
「荷物運ぶやつでしょ」
「見れば分かる。どう動いてんだよ」
「知らない。でも便利」
「雑だな」
道の端では、頬と手の甲に細かな鱗を持つ亜人の薬草商が、葉へ指先をかざしている。淡い緑の光が走ると、萎れていた薬草がゆっくり起き上がった。
向かいでは、腕に短い毛の生えた亜人の男が、人間なら二人がかりの木箱を肩に担いで歩いている。子どもが太い尻尾に触ろうとして、母親に慌てて止められていた。
さらに奥では、小柄で肩幅の広い職人が、赤く光る石板の上で鉄鍋を熱している。薪も炭もないのに、油がぱちぱち弾けていた。
「……すげぇ」
「ユイト、口開いてる」
「開いてねぇ」
「開いてた。王都、初めてだもんね」
「こんなの、今まで見たことない」
名前くらいしか知らなかった種族も、仕組みの分からない道具も、ここでは当たり前みたいに暮らしの中へ混ざっている。
前の世界にも大きな街はあった。
けれど、これは違う。
俺の知らなかったこの世界が、目の前で一気に広がっていく。
ライラも目を輝かせていたが、すぐに別のものを見つけた。
「ユイト、ほら見て! 絶対うまいやつ!」
「お前は世界の広さより食い物かよ」
「食べ物も世界の一部ですー」
菓子屋の屋台では、魔石板の熱を受けた蜜が泡立っている。店主が細い棒を回すと、黄金色の蜜が幾重にも巻きつき、花の形へ変わった。
「待て、いまは――」
俺が止める前に、ライラは大柄で口数の少ない団員――ヴィンクの背後へ回り込んでいた。
「ヴィンク、ヴィンク。ねぇねぇ」
「……なんだ」
「うっかり財布、拠点に置いてきた“かもしれない”んだけど」
「置いてきたのか」
「うん。置いてきた。たぶん。だから――お願い、一本だけ」
ライラが両手を合わせる。
ヴィンクは無言で俺を一瞥した。
王都の門前で、ライラは俺の財布をひったくるように回収し、ヴィンクへ押し付けていた。
――ユイト、すぐ迷子になるから。
とか言いながら。
「お前、さっき自分でヴィンクに俺の財布預けただろ」
「それはそれ。これはこれ」
「何が違うんだよ」
「管理者がヴィンクになった」
「勝手に管理者変えるな」
ヴィンクが諦めたように俺の財布から銅貨を放ると、ライラは勝利の笑みで蜜菓子を受け取った。
「んん〜……王都、最高……」
「ガレウス団長に聞かれたら怒られるぞ」
「聞こえない聞こえない。はい、ユイトも一口」
「俺の金なんだけど」
「だから一口あげてるんじゃん」
渋々受け取り、一口かじってライラへ返す。
甘い。熱い。
――その普通が、胸にちくりと刺さった。
「これ、銅貨二枚か」
俺が何気なく呟くと、ヴィンクが眉を動かした。
「村なら、粥を三日は食える」
「……え」
「王都じゃ、甘い菓子ひと口だ。場所が変われば、腹の価値も変わる」
ライラが蜜菓子を見下ろし、少しだけ口を尖らせた。
「……じゃあ、ちゃんと味わう」
「急に素直だな」
「銅貨二枚分だから」
「俺のな」
ライラはもう一口かじってから、ヴィンクへ串を向けた。
「ヴィンクも食べる?」
「いらん」
「遠慮しなくていいのに」
「そもそもユイトの金だろ」
「細かいなあ」
「細かくねぇ」
俺も口を挟んだ。
「お前、人の金で買っといて何でそんな偉そうなんだよ」
「ちゃんとユイトにも一口あげたじゃん」
「一口で恩を売るな!」
ライラがけらけら笑う。
そのまま、今度はレナリア先輩の前へ串を差し出した。
「レナリア先輩も食べる?」
「いらないわ」
「さっきから見てたじゃん」
「見てない」
「じゃあ、これは?」
蜜菓子を目の前で揺らす。
レナリア先輩は少しだけ黙ってから、小さな一欠片を取った。
「……甘い」
「好きなんだ」
「嫌いじゃないだけ」
「じゃ、次はレナリア先輩のお金で買お」
「調子に乗らない」
ライラが声を上げて笑った。
レナリア先輩が甘いものを食べるところなんて、初めて見た。
*
大通りを外れると、王都の表情はあっさり変わった。
石畳は欠け、排水溝の臭いが濃くなる。声が減り、視線だけが増えた。
薬臭さも、少し濃い。
宿を探す途中、白い看板を掲げた宿へ入ろうとしたところで、若い受付係に止められた。
「荷運びの方は裏へ。正面口はお客様用です」
「……あたしたち、客じゃないの?」
ライラの眉が跳ねる。
俺は門で使った身分札を取り出した。
「荷物を届けに来たんじゃない。泊まりたいんだ」
受付は札に目を落とし、それから俺たちの服を見た。
笑顔は変わらなかった。
「荷運びの方は、裏口からお願いします」
「同じこと二回言った」
俺がさらに言い返そうとすると、ガレウス団長が手で止めた。
「やめとけ」
「でも――」
「慣れろ。王家、貴族、騎士、市民、札のない者。王都は人を上から順に並べる」
団長は宿の白い壁を見上げた。
「俺たちは、その並びのどこにもいねぇ」
「盗賊だから?」
ライラが聞く。
「それもある。だが、札があっても服と仕事で分けられる。ここはそういう都だ」
通りの角から、掠れた声がした。
「……もう……ない……」
虚ろな青年が壁にもたれていた。
指先の近くに砕けた小瓶。白い粉の痕。
「これ……」
ライラの声から軽さが消える。
レナリア先輩が膝をつき、青年の顔を覗いた。
「依存症ね。魔力の流れも乱れてる……心を削られてる」
「さっきの匂い、この人から?」
「ええ。かなり濃い」
青年の胸が上下するたび、俺の掌がむずむずした。
《万象奪界》は、触れて初めて、相手から何を奪えるかが分かる。
それでも、考えてしまう。
もし、記憶が奪えるものとして現れたなら。
奪った記憶の中に、売人へつながるものが残っているかもしれない。
誰から買ったのか。
どこで受け取ったのか。
“潮待ち”が何を待つ印なのか。
答えに近づけるかもしれない。
俺は青年の胸へ手を伸ばしかけて――止めた。
奪うまで、中身は分からない。
答えが得られなくても、こいつの記憶だけは消える。
手を引っ込める。
けれど、もしこの青年が誰かを傷つけていたら。
そのときも、“奪わない”を選べるのか。
レナリア先輩が青年の首元へ指を添え、魔力の波を確かめた。
「ヴィンク。この先に施療院がある。そこまで運んで。費用は団の取り分から出すわ」
「……分かった」
ヴィンクが青年を背負う。
ガレウス団長はその背中を見て、低く言った。
「治るかは分からねぇ。それでも、ここで捨てる理由にはならん」
*
「……ユイト」
ライラが俺の袖を引き、そのまま手を取った。
「手、冷たくなってる」
「……何考えてたか、分かるのか」
「だいたいね」
「便利だな、お前」
「長い付き合いですから」
裏通りの向こうから、車輪の音が近づいてきた。
荷車が一台、人気のない路地へ滑り込んでいく。
布で包んだ木箱。縄の結びは妙に丁寧で、布から覗く箱の端には雑な炭書きの印があった。
波みたいな線と、短い文字。
――潮待ち。
「まただ」
俺が呟く。
「箱、見える?」
ライラが声を落とした。
「やってみる」
俺は《穿界視》の焦点を、木箱の内側だけへ絞った。
板越しに何かの輪郭が浮かび――すぐに滲む。
「……見づらい」
「何かある?」
「内張りから魔力が出てる。木の裏に札みたいなのが貼ってある。でも、その周りだけ輪郭が散る」
「中身を隠してる?」
「たぶん。中までは読めない。……でも、変なのは箱だけじゃない」
「どこ?」
「あの男の足」
引き手の男は、割れた石畳や段差を避けているだけじゃなかった。
見た目には何の傷もない場所で、荷車の進路を半歩だけずらしている。
俺は焦点を車輪の先へ落とした。
石畳の下に、古い排水路が走っていた。
「下に水路がある」
「見えるの?」
「そこだけなら」
「で、あの人は?」
「一度も下を見てない。それなのに、水路の上に差しかかる半歩前だけ進路を変えてる」
荷車がその上を通れば、車輪の音が変わる。荷が重ければ、古い石が沈むこともあるかもしれない。
「道を覚えてるだけじゃない?」
「かもしれない」
俺は男の足運びから目を離さない。
「能力か、才能かも分からない。でも、地面の下まで読んでるように見える」
俺が踏み出しかけたとき、ガレウス団長の声が飛んだ。
「追うな」
「でも、団長――」
「今ここで慌てて追えば、向こうに気づかれる。まず宿を取れ」
「見失います」
「だから覚えろ」
団長は、荷車の消えた路地を一度だけ見た。
「夜に戻る。同じ道を、今度はこっちの手順で見る」
ライラが俺を横目で見る。
「ほら。追いかけない」
「分かってる」
「足、前に出てたけど」
「……戻した」
「えらい」
「子ども扱いすんな」
半歩ずれる。
下を見ずに、地面の下を避ける。
あの足運びだけは、もう見間違えない。
*
宿へ戻り、裏口から入った。
荷運び用にあてがわれた狭い部屋で、俺たちは外の音を聞きながら夜を待つ。
ガレウス団長は窓から路地の人の流れを確認し、施療院から戻ったヴィンクは黙って荷を整えていた。
レナリア先輩は、王都の古い地図を机に広げている。
「さっきの荷車、この辺りを通った」
俺は地図の一点を指した。
「下に排水路があった」
レナリア先輩の指が、その先をなぞる。
「なら、この古い水路と繋がってる可能性があるわね」
「どこまで続いてる?」
ライラが地図を覗き込む。
「途中から記録がないの。大戦前の区画だから、埋まってる場所もある」
「じゃあ、地図だけじゃ追えない」
「ああ」
ガレウス団長が腕を組んだ。
団長の目が俺へ向く。
「早く答えが欲しい顔してるな」
「……そんな顔してます?」
「してる」
ライラが即答した。
「すっごく」
「お前に聞いてない」
「早いほうがいいんでしょ?」
部屋に小さな笑いがこぼれる。
ガレウス団長が地図を指で叩く。
「覚えとけ。早く辿り着くことと、正しく辿り着くことは別だ」
「……はい」
夕暮れが街の白い壁を赤く染め、やがて光が沈んだ。
*
夜。
宿の屋根に闇が降りると、王都の街灯が、通りの端から順に灯り始めた。
石畳の継ぎ目を、青い光が通りの端から端へ走っていく。
「うわ……」
ライラが窓へ寄る。
「見て、あっちまで光ってる」
俺も窓の外へ目を向ける。
「街灯まで魔力で繋がってるのか」
「すごいでしょ」
なぜかライラが胸を張った。
「お前が威張るなよ」
一つ灯る。
その光を受けて、次が灯る。
王都の大通りが、地上を流れる星の川みたいに浮かび上がった。
そして空には、本物の星が昇っている。
青白く大きな星と、その斜め下に寄り添う小さな赤金色の星。
昇り始めは離れて見える二つの光が、夜が深くなるにつれて少しずつ近づいていく。
「……綺麗」
窓辺で、ライラが呟いた。
いつもの軽さがない声だった。
「ずっと一緒に昇るのかな」
「さあな」
「夢がない」
「星に聞けよ」
「聞こえないから、ユイトに聞いてんの」
「俺にも聞こえねぇよ」
ライラはしばらく二つの星を眺めていた。
「じゃあ、明日も見よ」
「明日ならわかるのかよ」
「わかんなかったら、明後日も」
顔を向けると、思ったより近い場所にライラがいた。
肩が触れるほどではない。
けれど、少し動けば触れてしまう距離だった。
俺は空へ視線を戻す。
二つの星は、同じ色でも、同じ大きさでもない。
それでも、同じ夜を進んでいた。
綺麗だと思った。
こんな世界を、もっと見てみたいとも。
けれど、その美しさの下には、別の匂いが流れている。
甘ったるい薬臭さが、夜風に薄く溶けていた。
潮待ちの印。
門番の密談。
水門で水位が変わる古い水路。
輪郭を散らす木箱。
地面の下を読むように歩く運び屋。
断片は、まだ繋がり切っていない。
でも、今夜なら続きを見られる。
「ユイト」
ライラが振り返った。
「夜に出るなら、勝手に先に行かないで」
「……勝手には行かないよ」
「うん。行くならあたしも行くからね」
「分かってる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
ライラは少しだけ笑う。
「王都で迷子になったら、回収するの大変でしょ」
「俺を何だと思ってる」
「放っておくと、変な顔で裏路地に消える人」
「またそれかよ」
「だって治ってないし」
言い返しかけて、やめた。
王都の夜風が、どこかから甘い香を運ぶ。
俺たちは窓の外を見た。
今夜、王都の影へ踏み込む。
ただし、焦って飛び込むんじゃない。
見失わないために。
奪うべきものを、間違えないために。




