第4話 置き去りにされた妻
第4話 置き去りにされた妻
実家の朝は早かった。
まだ外が薄暗いうちから、台所では味噌汁の匂いが立ちのぼる。昆布だしの優しい香りと、焼き鮭の焦げる音。奈緒はその匂いで目を覚ますようになっていた。
陽菜は布団の中で小さな寝息を立てている。
奈緒はそっと起き上がった。
実家の六畳間は狭い。壁際に自分と陽菜の布団を並べるだけで、ほとんど足の踏み場がない。それでも、あのマンションにいた時より不思議と息がしやすかった。
居間へ行くと、母がエプロン姿で味噌汁をよそっていた。
「おはよう」
「……おはよう」
「陽菜ちゃんまだ寝てる?」
「うん」
母は湯気の立つご飯茶碗を奈緒の前に置いた。
「ちゃんと食べなさい」
白いご飯。鮭。ほうれん草のおひたし。豆腐とわかめの味噌汁。
それだけなのに、奈緒は少し泣きそうになった。
ここ数ヶ月、まともに朝ご飯を味わった記憶がない。
マンションでは、智也は昼近くまで寝ていることが多かった。奈緒は陽菜を抱えながらパンを齧り、冷めたコーヒーを飲み、洗濯を回していた。
「奈緒」
母が湯飲みを置きながら言った。
「少し顔色戻ったね」
「そうかな」
「前は幽霊みたいだった」
奈緒は苦笑した。
食後、母が陽菜を抱いてくれる間に、奈緒は洗濯物を畳んだ。子ども服は小さく、柔らかい。
窓の外では近所の小学生たちが登校していた。
「いってきまーす!」
元気な声が響く。
その普通の光景を見ながら、奈緒はふと思った。
自分だけ取り残されたみたいだ。
夫はアメリカにいる。
妹と一緒に。
人生を変えるために。
一方自分は、実家で子どものオムツを替えている。
その現実が時々ひどく惨めに感じた。
昼過ぎ、陽菜が昼寝すると奈緒はスマホを開いた。
見なければいいのに、指が勝手にSNSを開く。
結衣の投稿。
青い空。
大きなハンバーガー。
英語のメニュー。
『シアトルのカフェ最高☕️
#海外生活
#自由』
智也も写っていた。
笑っていた。
奈緒は画面を閉じた。
胃の奥が重い。
「また見てたの?」
母が洗濯物を持って入ってくる。
「……うん」
「見なきゃいいのに」
「でも気になる」
母はため息をついた。
「あんた、あの男のこと好きだったんだね」
奈緒はすぐ答えられなかった。
好きだった。
たぶん。
でも今はもう、悲しいより腹立たしい。
夜になり、陽菜の寝かしつけが終わる頃には奈緒の肩はガチガチに凝っていた。
風呂上がりの髪も半乾きのまま、グレーのスウェット姿で居間へ戻る。
母はもう寝ていた。
テレビも消えている。
時計は十一時半。
静かな夜だった。
奈緒は冷蔵庫から麦茶を取り出した。
コップを持つ手がだるい。
ソファへ座り込む。
その時、ふと棚の隅に古い英語教材があるのを見つけた。
去年、会社の昇進試験用に買ったTOEIC対策本だった。
結局途中で放置していた。
奈緒はぼんやりそれを手に取った。
ページを開くと、紙の乾いた匂いがする。
『Part5 文法問題』
懐かしい。
そういえば昔、英語は嫌いじゃなかった。
学生時代は留学したいと思っていたこともある。
でも就職して、結婚して、妊娠して。
気づけば“生活”だけで毎日が終わるようになっていた。
奈緒は問題文を眺めた。
頭が鈍っている。
でも少し考えると解けた。
「……あ」
答えが合っていた。
なんとなくもう一問解く。
それも合う。
静かな部屋に、紙をめくる音だけが響いた。
その時、奈緒は不意に思った。
「アメリカ行かなくても、勉強はできるよね」
自分で口にして、少し驚いた。
そうだ。
別に飛行機に乗らなくてもいい。
海外へ逃げなくてもいい。
ここでも勉強はできる。
子どもが寝たあと十分でも二十分でも。
奈緒は問題集を閉じ、スマホを開いた。
TOEIC試験日程。
検索画面が光る。
次回試験、二ヶ月後。
「受けてみようかな……」
小さく呟く。
すると後ろから声がした。
「受ければいいじゃない」
母だった。
いつの間に起きていたのか、寝巻き姿で立っている。
「お母さん起きてたの?」
「トイレ。聞こえた」
母は奈緒の隣へ座った。
「昔好きだったでしょ、英語」
「まあ……」
「だったらやりなさい」
「でも陽菜いるし」
「私いるじゃない」
奈緒は黙った。
母は麦茶を一口飲んで言う。
「海外行かなきゃ何もできないなんて、変な話よ」
奈緒は少し笑った。
「ほんとだね」
翌日から、奈緒は少しずつ勉強を始めた。
陽菜が昼寝している間。
夜寝たあと。
朝早く目が覚めた時。
最初は一日十分だった。
単語を覚える。
リスニングを聞く。
問題を解く。
それだけ。
けれど不思議と、その時間だけは頭の中が静かになった。
“置いていかれた妻”ではなくなる。
“かわいそうな人”でもなくなる。
ただ、自分のために何かをしている時間。
数日後、結衣からメッセージが届いた。
『シアトル超楽しいよー!
奈緒さんももっと自由に生きた方がいいって!』
奈緒は画面を見つめたあと、そっと閉じた。
代わりに単語帳を開く。
outside
opportunity
responsibility
窓の外では冬の風が吹いていた。
遠くで救急車の音が聞こえる。
陽菜は布団の中で小さく寝返りを打った。
奈緒は静かにイヤホンを耳へ入れる。
機械音声の英語が流れ始めた。
その夜、奈緒は久しぶりに少しだけ前を向けた気がした。




