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第3話 夫が消えた朝

第3話 夫が消えた朝


 その朝、奈緒は妙な静けさで目を覚ました。


 いつもなら先に陽菜の泣き声が聞こえる。あるいは智也がリビングで動画を流す音。コーヒーメーカーの蒸気音。


 けれどその日は、何も聞こえなかった。


 白いカーテンの隙間から冬の薄い朝日が差し込んでいる。エアコンは切れていて、空気はひやりと冷たかった。


 奈緒はぼんやりした頭で身体を起こした。


「……陽菜?」


 隣を見ると、陽菜はまだ小さく寝息を立てていた。ほっと息をつく。


 時計は七時半。


「やば……」


 奈緒は慌ててベッドを降りた。今日は保育園の見学予約を入れていた。


 寝室を出た瞬間、奈緒は違和感に気づいた。


 静かすぎる。


「智也?」


 返事はない。


 リビングへ行くと、ソファの上にいつも投げっぱなしのパーカーがなかった。ローテーブルの上も妙に片付いている。


 奈緒は立ち止まった。


 胸の奥がざわざわする。


「智也?」


 洗面所を覗く。


 いない。


 トイレ。


 いない。


 その時、玄関脇に置いてあったはずの黒いスーツケースが消えていることに気づいた。


 奈緒の背筋が冷えた。


 寝室へ戻り、クローゼットを開ける。


 智也の服が何着かなくなっていた。


 パスポートを入れていた引き出しも空いている。


「……え?」


 頭が理解を拒否した。


 その時、テーブルの上に白い紙があるのが見えた。


 奈緒はゆっくり近づいた。


 手が震える。


 見覚えのある字だった。


『勉強してくる。

人生を変えたい』


 たった二行。


 奈緒はしばらくその紙を見つめていた。


 陽菜の泣き声が聞こえる。


 けれど身体が動かなかった。


 人生を変えたい。


 その言葉だけが、頭の中で何度も反響する。


「……何それ」


 掠れた声が出た。


「何それ……」


 涙は出なかった。


 怒りも、まだ来ない。


 ただ現実感がなかった。


 その時、テーブルの上の智也のタブレットが通知音を鳴らした。


 画面にはSNSが開いたままだった。


 奈緒は無意識に覗き込む。


 そこには空港で撮ったらしい写真が映っていた。


 結衣がピースをしている。白いダウンジャケットにニット帽。智也はグレーのコート姿で、その隣で笑っていた。


 背景には「Departure」の文字。


 投稿文。


『人生変えてきます✈️

#海外挑戦

#兄妹旅

#人生一度きり』


 奈緒は息を止めた。


 兄妹旅。


 その軽い言葉に、胃の奥がぐしゃりと潰れる。


 陽菜がまた泣いた。


 奈緒は我に返ったように寝室へ戻り、娘を抱き上げた。


 温かい。


 小さな身体。


「……ごめんね」


 何に対して謝っているのか、自分でもわからなかった。


 午前十時過ぎ、奈緒は実家へ電話をかけた。


 母が出る。


「もしもし?」


「……お母さん」


「奈緒? どうしたの」


 その声を聞いた瞬間、初めて涙が出た。


「智也が……いなくなった」


 沈黙。


「……は?」


「妹とアメリカ行った」


 受話器の向こうで母が息を呑むのがわかった。


「ちょっと待って。どういうこと?」


「わかんない……置き手紙だけあって……」


 言葉の途中で喉が詰まった。


 陽菜が奈緒の肩に顔を押しつけている。


 母は低い声で言った。


「今から来なさい」


「でも……」


「いいから」


 奈緒は電話を切ったあと、しばらく動けなかった。


 リビングには昨夜のままのマグカップが置いてある。


 智也が飲みかけだったコーヒー。


 もう冷え切っていた。


 昼過ぎ、奈緒は最低限の荷物をスーツケースへ詰めた。


 陽菜の着替え。


 オムツ。


 母子手帳。


 自分のニット。


 仕事用のノートパソコン。


 途中で、智也のパーカーが目に入った。


 洗濯して畳んだままだった。


 奈緒は数秒見つめ、それをクローゼットへ押し込んだ。


 外は曇っていた。


 冷たい風が吹き、街路樹の葉が歩道へ散っている。


 陽菜を抱え、スーツケースを引きながら駅へ向かう。


 その途中でも、何度もスマホが鳴った。


 結衣のSNS更新通知。


『シアトル着いたー!』


『自由って感じ!』


『やっぱ日本狭すぎたかも笑』


 奈緒は通知を消した。


 電車の窓に映る自分の顔は、ひどく疲れて見えた。


 くすんだカーキ色のコート。寝不足の目。まとめきれず落ちてきた髪。


 まるで急に老け込んだみたいだった。


 実家へ着くと、母が玄関を開けた。


 エプロン姿のまま、奈緒を見る。


 何も聞かず、まず陽菜を抱き取った。


「寒かったでしょう」


 その声でまた泣きそうになる。


 リビングには煮物の匂いが広がっていた。


 大根と醤油の甘い香り。


 ストーブの上ではやかんが小さく鳴っている。


「ご飯食べる?」


 奈緒は頷いた。


 母は黙ってお茶を入れてくれた。


 湯気が白く立ち上る。


「……離婚するの」


 奈緒がぽつりと言うと、母はすぐには答えなかった。


「今は考えなくていい」


「でも」


「あんた、まず寝なさい」


 奈緒は湯飲みを握りしめた。


 温かかった。


 涙がぽたぽた落ちる。


「なんでなのかな」


 母は静かに言った。


「逃げたかったんでしょ」


 奈緒は俯いた。


 逃げたかった。


 育児から。


 生活から。


 父親になることから。


 そしてたぶん、“普通の人生”から。


 その夜、奈緒は久しぶりに少しだけ眠れた。


 隣では陽菜が小さな寝息を立てている。


 遠くで電車の音が聞こえた。


 暗い天井を見つめながら、奈緒は思う。


 人生を変えたい。


 そう言って出て行った夫。


 でも残された側の人生は、どうなるのだろう。




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