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第2話 人生を変える国

第2話 人生を変える国


 十一月に入ると、朝の空気は白く冷えていた。


 奈緒はまだ薄暗い六時前、陽菜の泣き声で目を覚ました。枕元のスマホを見ると、二時間しか眠れていない。


「はいはい、お腹空いたねえ」


 掠れた声で言いながら身体を起こす。スウェットの袖口には昨日こぼしたミルクの跡が薄く残っていた。


 リビングへ行くと、暖房をつけていない部屋は冷蔵庫みたいに冷えている。奈緒は陽菜を抱きながら電気ケトルを押し、粉ミルクを作った。


 窓の外では、通勤電車の音が遠くで鳴っている。


 その頃になって、寝室のドアが開いた。


 智也だった。


 黒いパーカーにグレーのスウェットパンツ。寝癖のついた頭を掻きながら欠伸をしている。


「おはよ」


「……おはよう」


「コーヒーある?」


 奈緒は思わず笑いそうになった。


「あるけど、自分で入れて」


「機嫌悪い?」


「悪くもなるよ。夜中三回起きてるし」


 智也は少し気まずそうに冷蔵庫を開けたが、それも一瞬だった。


「あ、そうだ。今日結衣来るって」


 奈緒はミルクを飲む陽菜を見下ろしたまま答えた。


「最近毎日来てない?」


「別にいいじゃん。陽菜のこと可愛がってくれてるし」


 奈緒は返事をしなかった。


 陽菜の小さな喉が、ごく、ごく、と鳴る。その音だけが静かな部屋に響いていた。


 昼過ぎ、結衣はまた大きな紙袋を抱えてやってきた。


「見てこれー!」


 ベージュのニットワンピースにロングブーツ。艶のある赤いネイルが目立つ。


 彼女はテーブルに海外雑誌を広げた。


「シアトル特集。めっちゃよくない?」


 誌面にはガラス張りのオフィスで笑う外国人たちと、ノートパソコン片手にコーヒーを飲むアジア人女性の写真が並んでいた。


 智也の目が輝く。


「うわ、こういうとこで働きてえ」


「でしょ? 日本の満員電車とかもう時代遅れだって」


「わかる」


 奈緒はキッチンで離乳食用の野菜を刻みながら、その会話を聞いていた。


 玉ねぎを切るたび目が滲む。


「でも現実問題、英語いるよね」


 智也が言うと、結衣は待ってましたという顔をした。


「だからTOEICだって。お兄ちゃん、本気でやれば絶対伸びるもん」


「最近ちょっと勉強してる」


「えらい!」


 結衣は子どもみたいに手を叩いた。


「お兄ちゃんって地頭いいし、海外の方が評価されるタイプなんだよ」


 奈緒は包丁を止めた。


 その言葉、何度聞いただろう。


“海外なら評価される”

“日本が合ってないだけ”

“本当はすごい人”


 まるで呪文みたいだった。


「奈緒さんもそう思わない?」


 突然話を振られ、奈緒は曖昧に笑った。


「……どうだろ。まず生活考えないと」


「また現実」


 結衣は少し笑った。


「でも人生一回じゃん?」


「人生一回だから生活いるんだけど」


 空気が少し止まった。


 智也が面倒くさそうに口を開く。


「奈緒ってさ、最近そういう言い方多いよね」


「どういう?」


「夢ないっていうか」


 奈緒は一瞬言葉を失った。


 夢がない。


 夜泣きしている子どもを抱きながら洗濯して、保育園調べて、復職後の時短勤務を上司に相談している人間に向かって。


 その時、陽菜がぐずり始めた。


「ごめん、抱っこしてくる」


 奈緒は話を切るように陽菜を抱き上げた。


 温かくて、小さくて、重い。


 その重さだけが現実だった。


 夕方になると、部屋にはカレーの匂いが広がった。奈緒は圧力鍋の蓋を開けながら、小さく息をつく。


「今日カレーなんだ」


 智也がソファから言う。


「うん。簡単だから」


「いいじゃんいいじゃん」


 結衣はなぜか上機嫌だった。


 三人で食卓を囲む。


 陽菜はベビーチェアでスプーンを振り回し、時々変な声を出して笑っている。


「そういえばさ」


 結衣が福神漬けを乗せながら言った。


「私の知り合い、フィリピンで起業したんだよね」


「へえ」


「日本いた頃は普通の営業だったのに、今めっちゃ成功してる」


 智也が身を乗り出す。


「すげえ」


「海外って、日本みたいに学歴とか年功序列とか関係ないからさ。実力あればいけるんだよ」


 奈緒はカレーを口へ運びながら黙っていた。


 スパイスの香りが妙に重い。


「お兄ちゃんもさ、ほんとはもっと自由に生きた方がいいよ」


 結衣の声は柔らかかった。


「育休取って子育てしてるのも偉いけど、それで人生終わるの勿体なくない?」


 智也はしばらく黙っていた。


 それからぽつりと言った。


「……俺、最近怖いんだよね」


「何が?」


「このまま普通のおっさんになっていくの」


 奈緒の手が止まる。


「普通じゃだめなの?」


「そういう意味じゃなくて」


「じゃあどういう意味?」


 智也は視線を逸らした。


「もっと自分には何かある気がするっていうか」


 結衣がすぐに頷く。


「あるよ。絶対ある」


 奈緒は陽菜の口元についたカレーを拭きながら、静かに言った。


「でも、何かある人って、まずやることやってると思う」


 結衣が笑う。


「奈緒さんってほんと真面目だよね」


「悪い?」


「悪くないよ。でもそれって“守り”なんだよね」


 奈緒は返事をしなかった。


 窓の外はもう真っ暗だった。


 食後、奈緒がキッチンで洗い物をしていると、背後から英語の発音練習が聞こえてきた。


「ハウアーユー」


「違う違うお兄ちゃん、もっと舌使って」


 二人は笑っていた。


 まるで新しい世界の入り口に立っているみたいに。


 奈緒はスポンジを握りしめた。


 シンクの水は冷たく、指先がじんじんする。


 その時、陽菜が泣き出した。


 奈緒は慌てて蛇口を閉める。


「ごめんね、今行く」


 だが智也も結衣も振り向かなかった。


「お兄ちゃん、絶対海外行った方がいいって」


「……人生変わるかな」


「変わるよ」


 陽菜の泣き声が大きくなる。


 奈緒は娘を抱き上げながら、二人を見た。


 そこには夫婦ではなく、“同じ夢を見ている兄妹”だけがいた。




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