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第5話 TOEIC900点は、日本でも取れます

第5話 TOEIC900点は、日本でも取れます


 十二月の朝だった。


 実家の窓ガラスは白く曇り、外には細かい雨が降っていた。奈緒はまだ眠そうな陽菜を抱えながら、片手で食パンを焼いていた。


 トースターの熱い匂い。コーヒーの湯気。母が刻む白菜の包丁の音。


 静かな朝だった。


「奈緒、卵焼き食べる?」


「食べる」


 母は紺色の割烹着姿のままフライパンを返した。


 奈緒は陽菜を膝に乗せ、小さく息をつく。


 ここへ戻って一ヶ月近く経っていた。


 最初は毎日泣いていた。


 けれど最近は、少しずつ生活が回り始めている。


 朝起きて、洗濯して、陽菜にご飯を食べさせて、昼寝の間に勉強する。


 夜は母が風呂を手伝ってくれる。


 決して楽ではない。


 それでも、“誰かの夢”に振り回される毎日よりずっと静かだった。


 スマホが震えた。


 結衣からだった。


『お兄ちゃん今日英語面接なんだ〜!』


 奈緒は画面を閉じた。


 もう反射的に胸が痛むことも減っていた。


「また妹?」


 母が味噌汁をよそいながら聞く。


「うん」


「よく送ってくるね」


「幸せアピールしたいんじゃない」


 奈緒はそう言ってトーストをかじった。


 バターがじゅわっと染みる。


 その頃アメリカでは、智也が安いシェアハウスの狭い部屋で硬直していた。


 白い壁。薄いマットレス。窓の外ではサイレンの音が響いている。


 智也は借り物のジャケット姿で、ノートパソコン画面を見つめていた。


 オンライン面接。


 相手の外国人男性が何か話している。


『Can you explain your experience?』


 智也は固まった。


「……イエス」


 沈黙。


『……Could you tell me about your previous work?』


 智也の額に汗が滲む。


「マイ……ワーク……」


 言葉が出ない。


 横で見ていた結衣が小声で囁く。


「前職のこと言って!」


「えっと……セールス……」


『Sorry?』


 智也は完全に黙った。


 数秒後、画面が切れる。


 部屋に重い沈黙が落ちた。


「……やば」


 智也が呟く。


 結衣は無理やり笑った。


「大丈夫だって。次あるよ」


「全然聞き取れなかった」


「慣れだよ慣れ!」


 だがその声には焦りが混じっていた。


 テーブルの上には食べかけの安いピザ。床には英語教材が散らばっている。


 シアトルへ来た当初の高揚感は、もうほとんど消えていた。


「ていうかさ」


 智也が苛立った声を出す。


「お前、海外ならなんとかなるって言ったじゃん」


「なんとかなるよ」


「全然なんとかならねえじゃん」


「だから勉強しろって言ってるでしょ!」


 結衣も声を荒げた。


 その瞬間、部屋の空気がぴりつく。


 だが次の瞬間、結衣は慌てて笑顔を作った。


「でもお兄ちゃん、本当は頭いいんだから」


 智也は何も言わなかった。


 一方その頃、奈緒は陽菜を寝かしつけたあと、机に向かっていた。


 夜十一時。


 実家の居間は静かだ。


 ストーブの上でやかんが小さく鳴っている。


 奈緒はグレーのカーディガンを羽織り、シャープペンを握った。


 TOEIC模試。


 リスニング問題。


 イヤホンから英語が流れる。


 最初は全然聞き取れなかった。


 けれど最近、少しずつ単語が耳に残るようになってきた。


『departure』

『schedule』

『conference』


「あ」


 意味がわかる。


 奈緒は小さく目を見開いた。


 嬉しかった。


 本当に小さな変化なのに。


 誰にも褒められない。


 SNS映えもしない。


 でも、自分の中で何かが積み上がっていく感覚があった。


 その時、母がそっと居間へ入ってきた。


「まだやってたの」


「うん、あとちょっと」


 母は奈緒の横にマグカップを置いた。


 インスタントコーヒーの匂いが広がる。


「ありがと」


「無理しすぎないのよ」


 奈緒は問題集を見つめたまま言った。


「でも今やめたら、ほんとに何もなくなりそうで」


 母はしばらく黙っていた。


 それからぽつりと言う。


「あんた、ちゃんと前向いてるよ」


 奈緒は少し笑った。


「そうかな」


「海外行ったから偉いわけじゃないでしょ」


 奈緒はコーヒーを飲んだ。


 苦い。


 でも身体が温まる。


 翌週、奈緒は初めて公式問題集の模試で七百点を超えた。


「えっ」


 思わず声が出た。


 陽菜がびっくりしてこちらを見る。


「ごめんごめん」


 奈緒は娘を抱きしめた。


 嬉しかった。


 本当に。


 努力した分だけ数字が伸びる。


 その単純さが今の奈緒には救いだった。


 夜、結衣からまたSNS投稿通知が来た。


『アメリカ生活ほんと大変〜笑

でも夢のために頑張る✨』


 添付された写真には、無理やり笑っている智也が映っていた。


 奈緒はしばらくその顔を見つめた。


 以前なら胸が痛んだ。


 でも今は違う。


 なんだか遠い人みたいだった。


 奈緒はスマホを伏せ、単語帳を開く。


『responsibility』


 責任。


 『continue』


 続ける。


 奈緒は静かにページをめくった。


 窓の外では冷たい雨が降り続いている。


 その音を聞きながら、奈緒はふと思った。


 TOEIC900点って、日本でも取れるんだ。


 わざわざ家族を捨てて、海外へ逃げなくても。




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