第51話
「あ、あの……ガブリエル様……」
ガブリエルは「幼子の間」へ行く途中、ある声に呼び止められた。振り向くと、そこには若い天使が立っていた。あどけない黒目がちの瞳と、茶色の巻き毛がいっそう幼く見せていた。その少年の後ろには友人らしき天使が二人いたのだが、二人とも何やら心配そうに見守っている。
(どなたの生徒さん達かしら?)
「私に何かご用ですか?」
「えっと……」
少年はもじもじして、なかなか言い出せないでいる。それでもガブリエルは、辛抱強く待った。
「僕の……あの、今度の舞踏会なんですけど……」
少年天使の声が小さくなっていく。それを、優しく見守るガブリエル。
後ろの友人二人は小声で「頑張れ」と、言ってるようだ。
少年は意を決して「今度の舞踏会で、僕のパートナーになってください!」と、ペコリと頭を下げた。
数秒間、彼はそのまま動かなかった。よほど緊張しているのだろう。指の先までピンと真っ直ぐ伸ばし、見ていて気の毒なくらいだ。
「……ごめんなさい。もう決まってるのです」
ガブリエルからこう告げられた途端、彼の緊張した肩が一気にガクッと落ちた。
「あ……やっぱし、そうですよね。すみませんでした……」
可哀想なくらいトボトボと帰って行く姿に、ガブリエルはもう一度”ごめんなさい”と呟いた。
後ろで待っていた仲間が「ほらな、無理だったろ? 元気だせよ」と、友人を慰めていた。
ガブリエルは、ある人物を待っていたのだ。
もし申し込まれなかったら、今年の舞踏会は辞退しよう。
彼女は、そう決意していた。
「幼子の間」手前まで来た彼女は、ふと後ろに気配を感じ振り向いた。そこには、ベリアルが静かに立っていた。灰色がかった青い瞳は、穏やかにガブリエルを見つめている。
「話しが、あるのだが……」
そう言うと彼は、ゆっくりとガブリエルに近づいた。
「はい……」
彼女の美しい緑色の瞳も、いっそう潤いを帯びていた。艶やかなブルネットの長い髪が、天界のそよ風になびいている。
ベリアルはその場でひざまずくと「わたしのパートナーになってほしい」と、右手をそっと差し出し頭を下げた。ダークブラウンの長めの前髪が、さらりと目にかかる。
「……はい、喜んでお受けいたします」
ガブリエルは、差し出された彼の手に自分の手を添え、折りたたんでいた純白の翼を広げた。
純白の翼は光り輝き、それは天界の輝きそのものであった。
「うちのアスタロトが、あなたに迷惑をかけたようで、本当にすまなかった」
「いえ、迷惑だなんて。気になさらないで」
ベリアルは、アスタロトがリリスの事で無理な相談をしたのを詫びた。
「彼、優しいのね。あなたは彼の事を誇りに思うべきです」
そう言い彼女は微笑んだ。
「いやあ……あいつは、ウリエルに振り回されているだけだ。困ったヤツだ」
「彼女は彼女なりにリリスの事を心配しているのです。あなたは十分、彼女の事をわかっていると思っていたのですが」
ガブリエルは、まるで少女のように小首をかしげた。ベリアルは彼女のその仕草に、少し顔を赤らめ目をそらした。
「はねっ返りな娘を持った人間の父親って、こんな心境なのかと時々思うのだがな」
ベリエルはため息を吐き、こうぼやいた。
「娘……?」
そういえば、とガブリエルは「あなた達を見ていると、親子みたいと思う時があるわ」とクスクス笑った。
「実際、あんな娘いらんけどな」
「まあ、ひどい!」
二人の間に笑いが流れる。
そんな時もガブリエルは思う。
ベリアルの左の手のひらには、火傷の痕があったが、ウリエルと関係があるのだろうか、と。毎年彼と踊る度にその痕が気になっていたのだが、あえて理由を聞こうとはしなかった。
「それでは、わたしはこれで――」
「ええ……」
ガブリエルは、もっと彼と話しをしたかった。だが、元々口数の少ないベリアルは少し頭を下げると、そのまま背を向けた。
ベリアルは振り返る事なく、静かに去って行った。
その姿を、ガブリエルはいつまでも見送っていたのだった。




