幕間 帳場の脇
朝、帳場で帳面を開いていると、二階から客が下りてきた。
「おはよう、ボノさん」
「おう。今日は早いな」
「ちょっと出かける用事があってね。それより、部屋の窓なんだけど」
「窓?」
「閉める時に引っかかるんだよ。昨日の夜は、なかなか閉まらなくてね」
「ああ、あそこか」
前にも少し具合が悪くなっていた場所だ。直したつもりだったが、また引っかかるようになったらしい。
「今日のうちに見ておくよ」
「悪いね。急がなくてもいいから」
「夜になってから言われる方が面倒なんだよ」
客は笑いながら出かけていった。
俺は帳面の端に窓のことを書き留めた。
この宿も古くなってきた。先月は戸の立て付けを直したし、その前は階段の板が一枚浮いていた。
あの時は釘を打ち直しただけで済んだが、今度また浮いてくるようなら、板ごと替えた方がいいかもしれない。
……そういや、釘の残りはどれくらいあったかな。
そんなことを考えていると、階段からまた足音が聞こえてきた。
「おはようございます」
ライアスだった。
「おう、おはよう。昨日は遅かったな」
「そうですね。思ったより長く話してました」
昨日は一度戻ってきたあと、一緒に仕事をした連中と飯を食いに出かけていた。
帰ってきた時に聞いたら、なかなかうまいものを食えたらしい。普段は一人で出かけることが多いから、ああして誰かと飯を食いに行くのは少し珍しかった。
「今日はどうするんだ?」
「ちょっと出かけようと思ってます。それで、ボノさん。これも預かってもらっていいですか?」
ライアスが差し出してきたのは、布に包まれた網だった。
昨日持ち帰ってきた時には泥や草が随分ついていたが、今はそれなりにきれいになっている。ただ、ところどころ縄が飛び出していて、あまり上手くまとまっていない。
「直したのか?」
「いえ、まだです。昨日ちょっと見てみたんですけど、思ったより傷んでて」
「そりゃ大変だな」
「部屋も狭いですし、直すまでちょっと預かってもらえればと思って」
「じゃあ、そこに置いとけ」
「ありがとうございます」
ライアスは帳場の脇に網を置こうとして、少し迷ったようだった。
前から預かっている袋が置いてあるので、どこへ入れたらいいのかわからないらしい。
「そっちの袋を少し寄せれば入るだろ」
「あ、そうですね」
ライアスは袋を動かし、空いたところへ網を置いた。
「……結構いろいろ預けちゃってますね」
「今さら何言ってんだ」
「そうですよね」
あいつは少し笑った。
「邪魔だったら言ってください」
「邪魔ならとっくに言ってるよ」
「それもそうですね」
ライアスは背負った棒の位置を直し、小さな盾が戸口に引っかからないようにしながら外へ出ていった。
「行ってきます」
「おう。気をつけてな」
戸が閉まる。
俺は帳面へ目を戻し、今朝出ていった客の部屋を確かめた。
……さて。
窓の修理は昼からでもいいか。
まずは空いた部屋を片づけないとな。
◇
今朝早くに宿を引き払った客の部屋を掃除していると、寝台の下に小さな布袋が落ちていた。
中を開けるわけにもいかないので、ひとまず帳場へ持って下りる。
あの客、随分慌てて出ていったからな。
そのうち取りに戻ってくるかもしれない。
寝具を整え、床を掃除し、使った布を片づける。
一部屋終わったところで、もう一つの空き部屋へ向かった。
……こっちは随分きれいに使ってるな。
泊まっていたのは、たしか三日ほどだったか。部屋によっては一晩でひどい有様になることもあるのに、今回はあまり手間がかからなさそうだった。
掃除を済ませて階段を下りると、ちょうど戸口から声がした。
「すみません、部屋は空いてますか?」
「ああ、空いてるぞ」
入ってきたのは、大きな荷物を背負った男だった。
見覚えのない顔だ。
「一晩泊まりたいんだけど、いくらだい?」
宿代を伝えると、男は少し考えた。
「もうちょっと安くならないかね」
「ならん」
「いや、ほら、寝るだけだからさ」
「寝るための宿だからな」
男は一瞬黙り、それから笑った。
「そりゃそうだ」
「部屋を見るか?」
「いいのか?」
「ああ。気に入らなきゃ、ほかを探してくれて構わん」
二階へ案内すると、男は寝台に腰を下ろし、窓を開けて外を眺めた。
「悪くないな」
「そりゃどうも」
「飯は出るのか?」
「出してない。食堂なら、この辺に何軒かあるぞ」
「なるほど。じゃあ、ここにするよ」
男は荷物を部屋へ置き、俺と一緒に帳場へ戻った。
宿代を受け取り、帳面に名前を書いてもらう。
「じゃあ、ちょっと飯でも食ってくるかな」
「おう」
男が出かけるのを見送ってから、俺は帳面を閉じた。
……飯か。
そういえば、俺もそろそろ腹が減ったな。
昼を少し回っている。
今のうちに食っておくか。
◇
裏へ回り、いつもの鉄板を取り出した。
今日の昼飯は、薄く切った肉と根菜だ。
鉄板を火にかけ、温まったところへ肉を並べる。じゅうじゅうと音がし始め、脂が少しずつ広がってきた。
そこへ薄く切った根菜を置く。
肉から出た脂で焼くと、これが結構うまい。
焼き色がついたところで肉を裏返し、塩を振った。
……もう少しかな。
鉄板を少し動かして、火の当たり方を調整する。
そういや、ライアスにもこれを貸したんだったな。
あいつ、ずいぶんきれいに洗って返してきたよな。
洗って戻してくれとは言ったが、あそこまできっちり洗ってくるとは思わなかった。
返してきた時、何だか面白くなって笑っちまったんだった。
確か、肉を焼いたとか言ってたな。
うまく焼けたのか聞いたら、まあまあだと言っていた。
……まあまあ、ねえ。
肉をひっくり返し、端の方へ寄せる。
野菜もそろそろいいだろう。
皿を用意しようとしたところで、表から声が聞こえた。
「すみません、ちょっといいですか!」
……今かよ。
「おう、いるぞ!」
火を弱め、鉄板を火の当たりにくいところへずらしてから帳場へ戻った。
さっき部屋を取った男が立っていた。
「食堂を探してたんだけど、この辺の道がよくわからなくてな。どっちへ行けばいい?」
「ああ、飯か。だったら表へ出て右だ。二つ目の通りを入ると、何軒か並んでるぞ」
「二つ目だな。ありがとう」
「おう」
男が出ていくのを見送り、裏へ戻る。
鉄板の上では、肉の端が少し縮れていた。
「……焼きすぎたか」
一切れ口へ入れてみる。
やっぱり少し硬い。
まあ、食えないほどじゃないな。
残りの肉と野菜を皿へ移し、火を落とした。
野菜を一口食べてみると、こっちはちょうどよく焼けていた。肉の脂が染みていて、塩だけでもなかなかうまい。
パンをちぎり、鉄板に残った脂を少しつけて食べる。
……うん。こっちもうまい。
誰も来ないうちに、さっさと食ってしまおう。
皿に残っていた肉を口へ運び、水を一口飲んだ。
その時、表で戸が開く音がした。
……またか?
少し耳を澄ませていると、続いて階段を上がる足音が聞こえてきた。
なんだ、泊まってる客か。
なら、まだいいな。
俺は残りのパンを手に取った。
◇
食事を終え、使った鉄板を洗って片づけた。
それから道具を持ち、朝に頼まれた窓を見に行く。
二階の奥の部屋だ。
試しに窓を開け閉めしてみると、途中で確かに引っかかる。少し力を入れれば動くが、毎回これでは面倒だろう。
下の方が枠に当たっているらしい。
「……ここか」
木の表面を指で確かめ、当たっている部分を少し削ってみる。
もう一度閉めると、さっきよりは滑らかに動いた。
ただ、まだ少し引っかかる。
もう一度削り、窓を動かしてみる。
今度は問題なさそうだった。
「よし」
道具を片づけようとして、ふと隣の空き部屋の戸が目に入った。
あそこも、閉める時に少し音がするんだよな。
ついでに見ておくか。
試しに開け閉めすると、やっぱり最後のところで少し引っかかった。
……こっちもか。
結局、もう一部屋の戸まで調整することになった。
昼飯を食ったら少し休もうと思っていたんだが、なかなかそうもいかないらしい。
まあ、今直しておけば、夜になってから呼ばれずに済むだろう。
道具を持って階段を下りると、帳場の前に客が立っていた。
「ああ、ボノさん。ちょうどよかった」
今朝、宿を引き払った客だった。
「おう。戻ったのか」
「忘れ物をしたみたいでね。小さな袋なんだけど」
「ああ、それなら預かってるぞ」
俺は帳場の奥から布袋を取り出した。
「これか?」
「ああ、それそれ! よかった、あったんだね」
「寝台の下に落ちてたぞ」
「参ったなあ。どこで落としたかと思って、来た道を探しながら戻ってきたんだよ」
「なら、早く取りに戻ってくりゃよかったのに」
「いやあ、まさか宿に忘れてるとは思わなくてさ」
客は何度も礼を言いながら、布袋を受け取った。
「またアルネに来た時は泊まるよ」
「おう。気をつけてな」
客が出ていくと、俺は帳場の椅子へ腰を下ろした。
朝から動き回っていたので、少し足が疲れた。
……そういや、釘の残りを確かめるんだったな。
いや、先に階段の板を見ておくか。
あそこのきしむ音も、このところ少し大きくなっている気がする。
俺は道具箱を足元へ引き寄せた。
◇
夕方が近づく頃には、宿の出入りもまた増え始めた。
仕事から戻ってきた客が部屋へ上がり、これから出かける客が鍵を預けていく。
昼に部屋を取った男も帰ってきた。
「食堂、見つかったか?」
俺が尋ねると、男は笑った。
「ああ。今度はちゃんと見つかったよ」
「そりゃよかった」
「教えてもらった通りに行ったら、すぐだった」
「そうか」
「ほかにもいい店があったら、明日教えてくれよ」
「おう、いくつかあるぞ」
「じゃあ、また聞くよ」
男はそう言って階段を上がっていった。
俺は預かった鍵を元の場所へ戻し、帳面を閉じた。
そろそろ外の灯りをつけておくか。
帳場の脇を通ろうとしたところで、足元に縄の端が見えた。
……ん?
ライアスの網だった。
朝はきちんと収まっていたはずだが、どこかでずれたらしい。
縄が一本、通り道へ飛び出している。
「……ったく」
これじゃ、誰かが足を引っかけるかもしれない。
俺は網を持ち上げ、隣の袋を少し奥へ動かした。
空いたところへ置こうとしたが、今度は端の方が上手く収まらない。
仕方なく、包んである布ごと持ち直して向きを変える。
……これでいいか。
網は何とか収まった。
通り道にも、もう縄は出ていない。
「すみませーん!」
ちょうどその時、戸口から声がした。
「おう、今行く!」
俺は手についた埃を払い、帳場へ戻った。
入ってきた男が、今夜泊まれるかと尋ねてくる。
「ああ、まだ空いてるぞ」
俺は帳面を開いた。




