第72話:足元の石
「まだ来るって、何がだ?」
ロルフが林へ剣を向けたまま尋ねてきた。
「わかりません。でも、さっきより音が多くて……こっちへ向かってきてます」
「全員、少し下がれ。道の真ん中を空けておこう」
ロルフの指示で、俺たちは街道の左側へ移動した。
さっきの魔物は、俺たちに見向きもせず走り去っていった。今度も同じように通り過ぎてくれるなら、わざわざ戦う必要はない。
……そうなってくれるとありがたいんだけど。
林の中で、何かが激しく動いている。木々が邪魔で姿は見えないが、草を踏み分けるような音が重なり、枝の折れる音も混じっていた。
「ライアス、どの辺りから来る?」
「右の……あの大きな木の辺りだと思います。でも、もう少し奥にも何かいます」
「わかった。下がってろよ」
ロルフが一歩前へ出た。ネイトも剣を抜き、リーザは短い槍を両手で構えている。
俺は少し後ろへ下がり、盾を左腕の前に持ち直した。
その直後、林の中から魔物が飛び出してきた。
さっきと似た四足の魔物だ。
一匹が街道へ出たかと思うと、そのすぐ後ろからもう一匹が続いた。
二匹とも勢いを落とさず、俺たちの前を横切って左側の草むらへ駆け込んでいく。
「追うなよ!」
ロルフが声を上げた。
俺もそちらを見送りかけたが、右の林ではまだ音が続いていた。
「まだいます!」
言い終わる前に、三匹目が飛び出してきた。
その魔物は街道の真ん中で急に足を止め、こちらへ顔を向けた。さらにもう一匹が林から現れ、少し離れたところで身体を低くする。
……あれ?
こっちは行かないのか?
「ネイト、左を頼む。リーザは俺の横だ」
「おう!」
「わかった!」
ロルフが前へ出ると、正面の魔物が低く唸った。
俺は三人の少し後ろで棒を構え、もう一度、林の奥へ耳を向けてみた。
まだ何かいるかもしれない。
もし別の方向から近づいてくる魔物がいれば、先に知らせられるはずだ。
ところが、さっきまで聞こえていた林の音が、うまくつかめなくなっていた。
目の前の魔物が足を踏み鳴らし、ロルフが位置を変える。剣を握り直す音や、誰かが息を吐く音まで聞こえてきて、そちらへ気を取られるたびに林の奥がわからなくなる。
……どっちだ?
もう少し集中しようとすると、今度はすぐ近くで魔物が唸った。
「来るぞ!」
ロルフの声と同時に、正面の魔物が飛びかかった。
剣が振られ、魔物が身をひねる。ロルフが追って踏み込むと、横からリーザの槍が伸び、魔物は慌てたように後ろへ下がった。
そのすぐ左では、ネイトももう一匹と向かい合っている。
俺は二人の動きを追おうとしたが、右の林で枝が鳴った気がして、思わず顔を向けてしまった。
……今のは?
まだいるのか?
「ライアス、そっち!」
ネイトの声に振り返る。
見ると、ネイトが相手をしていた魔物が道の端へ回り込もうとしていた。ちょうど俺たちのいる側だ。
俺は反射的に一歩下がり、棒を構え直した。
ネイトも魔物を追って身体を向けたが、相手はそのままこちらへ来るのではなく、剣を避けるように方向を変えた。
また足音が重なり、林の奥でも草が揺れる。
今度はロルフの声まで聞き取りにくくなってきた。
……駄目だな、これ。
何かを聞こうとするたびに、違う方を見ている。
俺は林から目を離した。
今は、目の前の魔物を見ていよう。
ネイトは剣を構えたまま、相手と少しずつ位置を変えていた。その後ろではロルフとリーザがもう一匹を押さえている。
俺が立っている場所は、街道の左端に近い。
少し後ろに大きな石があり、このまま下がると足元が狭くなる。
……あっちへ寄った方がいいか。
俺は石から距離を取り、道の中央寄りへ二歩動いた。
その時、ネイトの相手をしていた魔物が、剣を避けて大きく横へ跳んだ。
跳んだ先にいたのは、俺だった。
……え?
こっちに来るのか?
「ライアス、気をつけろ!」
ネイトが叫ぶ。
俺は左腕の盾を前へ出し、棒を握り直した。
魔物は一度足を止めたものの、すぐに頭を低くして突っ込んできた。
避けるには近すぎる。
俺は盾を身体の前に構え、右足を少し後ろへ引いた。
次の瞬間、盾に強い衝撃が走った。
「ぐっ!」
左腕が押し込まれ、身体が後ろへ下がる。それでも足を開いていたおかげか、何とか倒れずに済んだ。
魔物が少し離れたところで向きを変える。
俺は右手の棒を振った。
棒の先が肩の辺りに当たり、鈍い手応えが返ってきたが、魔物はほとんど気にした様子もなく、こちらを向いたままだった。
……あんまり効いてないな。
それどころか、また頭を低くしている。
もう一度突っ込まれたら、今度は盾で受けきれるかわからない。
俺は下がりかけた足を止めた。
逃げるにしても、相手がこっちを向いたままでは背中を見せにくい。
かといって、この棒で倒せるような相手でもなさそうだ。
……せめて、少し離れてくれれば。
魔物が地面を蹴った。
俺は盾を構えたまま、棒を横に振り抜いた。
今度は肩ではなく、こちらへ向かってくる頭の辺りを狙った。
棒の先が顔の横に当たり、魔物の向きが少しずれた。
それでも勢いは止まらなかったが、まともにこちらへ突っ込んでくるのは避けられた。
俺は盾を前に残したまま横へ身体をずらし、魔物との間に少し距離を作った。
そこへ、ネイトが飛び込んできた。
「そこだ!」
ネイトの剣が魔物の首元を捉えた。
魔物は大きく身体を震わせ、足をもつれさせるようにして倒れた。
俺は棒を構えたまま、その様子を見ていた。
……倒れた。
ようやく息を吐いたところで、ネイトがこちらを振り返った。
「怪我は?」
「たぶん、大丈夫です」
「なら、もう少し下がってろ!」
「はい!」
俺は返事をして、倒れた魔物から距離を取った。
もう一匹が残っている。
ロルフとリーザは、その魔物を街道の端へ追い込んでいた。
リーザが槍を突き出すと、魔物は身を引いて避けようとしたが、そこへロルフが踏み込む。
魔物が横へ逃げかけたところで、再び槍が進路を塞いだ。
一瞬動きが止まった。
ロルフの剣が振り下ろされ、魔物は前足を折るようにして地面へ倒れた。
「……よし」
ロルフはすぐには剣を下ろさず、相手が動かないことを確かめてから周囲を見回した。
「ほかにいるか?」
その声を聞いて、俺は反射的に林へ耳を向けかけた。
けれど、すぐ近くではネイトが息を整えているし、リーザが槍を持ち直す音もする。
さっきと同じように聞こうとしても、今はうまくわからないかもしれない。
「すみません。音だけだと、今はよくわからないです」
「そうか。ネイト、周りは?」
「見える範囲にはいないな」
「リーザは?」
「こっちも大丈夫そう。でも、林の奥までは見えないよ」
「わかった。ここで長居はしないぞ」
ロルフは剣を構えたまま、倒れた魔物へ視線を向けた。
「まずは動かないか確認する。それから少し離れよう」
◇
倒れた二匹は、どちらも動かなかった。
近づいてみると、思っていたより身体が大きい。さっきは目の前の頭ばかり見ていたので、全体の大きさなんて考える余裕もなかった。
ロルフとネイトがそれぞれの魔物を確認している間、俺は少し離れたところから周囲を見ていた。
左腕がじんじんする。
盾の下から確かめてみたが、服が破れている様子はない。動かすと少し痛むものの、手も指もちゃんと動いた。
それより、棒を握っている右手に妙な力が入っていることに気づいた。
もう戦っていないのに、指がなかなか緩まない。
「ライアス、腕は大丈夫か?」
ネイトが近づいてきた。
「はい。ちょっと痛いですけど、動かせます」
「盾でまともに受けたからな。腫れるかもしれんぞ」
「そうですね……」
ネイトが俺の左腕を軽く確かめた。
「今は大丈夫そうだな。帰ってからも痛むようなら、ちゃんと診てもらえよ」
「はい」
「それにしても、よく倒れなかったな」
「後ろに石があったんで、少し場所を変えておいたんです。それがよかったのかもしれません」
「そうか。まあ、足場は大事だからな」
ネイトはそう言って笑い、倒れた魔物の方へ戻っていった。
俺は左腕をもう一度動かしてみた。
盾で受けた時の衝撃は、まだ少し残っている。
あの棒も、二発目で何とか相手の向きを変えられただけだ。倒せたわけじゃないし、ネイトが来てくれなかったら、どうなっていたかわからない。
それでも、さっきは石に足を引っかけずに済んだ。
……まあ、そこはよかったかな。
「おい、ちょっと来てくれ」
ロルフがネイトを呼んだ。
何かあったのかと思って見ると、二人は倒れた魔物の脇にしゃがみ込んでいた。
「こいつ、ここにも傷があるな」
ロルフが指したのは、魔物の背中から脇腹にかけての部分だった。
毛が一部抜け、皮膚が裂けている。傷の周りには泥が絡み、乾いた血のようなものもついていた。
「俺が斬ったのは首だぞ」
ネイトが言う。
「そうだよな。ライアス、お前はどこを打った?」
「肩と、顔の辺りです」
「なら、こっちは違うか」
ロルフが傷の周りを確かめていると、リーザも近づいてきた。
「何か見つかった?」
「ああ。戦う前から傷があったみたいなんだ」
「へえ……」
リーザは魔物の背中を覗き込み、それからもう一匹の方へ目を向けた。
「こっちはどうかな」
三人で確かめていたが、そちらは戦っている間についた傷も多く、何が新しくて何が古いのか、すぐにはわからないらしい。
俺も少し離れたところから眺めていた。
魔物だって、いつも無傷でいるとは限らないだろう。
林の中を走っていれば、木や石で怪我をすることだってあるかもしれない。
「詳しく調べるか?」
ネイトが尋ねた。
「いや、今はやめておこう」
ロルフは立ち上がり、林の方を見た。
「ここで四匹見かけて、そのうち二匹とは戦った。それだけでも十分な報告になる。これ以上は危ないな」
「そうだね。まだほかにいるかもしれないし」
リーザも槍を持ち直した。
俺も、その判断には賛成だった。
林の中へ入って、また何匹も出てきたら困る。
「倒した二匹のことと、先に通り過ぎたやつらのことも報告しておこう。傷の件も一応な」
「了解」
「ライアス、歩けるか?」
「はい。問題ないです」
「よし。じゃあ、一度街道を戻ろう」
俺たちは装備を確かめ、帰るために向きを変えた。
◇
少し歩き出したところで、林の奥から低い音が聞こえた。
俺は思わず足を止めた。
……ん?
今の、何だろう。
木が倒れた時の音に少し似ていたが、何かが折れたような鋭い音ではなかった。
どちらかというと、重いものが地面にぶつかったような、鈍い音だ。
さっきの魔物たちが走っていた時とも違う。
「ライアス?」
リーザが振り返った。
「あ、すみません。今、林の奥で音がしたんです」
「また魔物か?」
ロルフが足を止めた。
「わかりません。何か重いものがぶつかったような音だったんですけど」
「どの辺りだ?」
俺は音がしたと思う方向を指した。
「あっちだと思います。ただ、結構奥の方みたいで……」
ロルフたちも耳を澄ませた。
しばらく待ったが、同じ音は聞こえてこなかった。
「俺には聞こえんな」
ネイトが言うと、リーザも頷いた。
「私も。何か見えたりもしないね」
「……そうですか」
俺はもう一度、林の方を見た。
木々の間には暗い部分が多く、ここからでは奥の様子まではわからない。
さっきの音が、何か動いている音だったのかどうかも確かめようがなかった。
「音がした場所は、もう少し詳しく覚えておいてくれ」
ロルフが言った。
「はい」
「ギルドで報告する時に、その話もしておこう。ただ、今から確かめには行かんぞ」
「わかりました」
「よし、戻ろう」
ロルフが先に歩き出し、ネイトとリーザもそれに続いた。
俺も後を追いながら、一度だけ林の方を振り返った。
さっきまで魔物が飛び出してきていた場所は、もう静かになっている。
いつの間にか鳥の声も戻っていた。
……今の音、何だったんだろうな。
少し気にはなったが、ここから聞いているだけでは、やっぱりわからない。
俺は前を向き、三人の後を歩いた。
しばらく進むと、さっき俺がつまずきそうになったような大きな石が、街道の端に転がっていた。
今度はちゃんと足元を見て、それを避ける。
帰り道は、まだ結構長い。




