第65話:帰り道の水音
宿を出る前に荷物を確かめていると、鞄の底から小さな包みが出てきた。
昨夜買ったハジャオだ。
食堂で食べた肉の味を思い出す。あの舌がじんとする感じは、なかなか面白かった。自分で料理に使ったらどうなるのか、試してみたい気持ちはあるが、それはアルネに帰ってからだ。
包みを鞄の奥へしまい、棒と盾を持って部屋を出た。
宿の食堂で朝飯を済ませ、外へ出ると小雨が降っていた。
昨日はあんなに天気がよかったのに。
雨はそれほど強くなく、通りを歩く人たちも普段と変わらない様子だった。俺は少し足を速め、倉庫へ向かった。
倉庫に着くと、二台の馬車の周りではすでに出発の準備が進んでいた。
「おう、ライアス。おはよう」
「おはようございます、ペックさん」
「昨日はうまい飯にありつけたか?」
「はい。すごくうまかったです」
「そりゃよかったな。ドーマはお前が朝起きられるか心配してたぞ」
「そんなに遅くまで出歩いてませんよ」
「わかってる、わかってる。あいつは誰にでも言うんだ」
ペックさんは笑いながら、一台目の荷台へ向かった。
俺も二台目の荷物を確かめる。昨日積んだ箱や袋は、どれもそのままの位置に収まっていた。縄も緩んでいないようだ。
「こっちは大丈夫です」
「よし。じゃあ、そろそろ出るぞ!」
ドーマさんが御者たちへ声をかけた。
荷物を見終えて馬車の横へ戻ろうとした時、近くの倉庫から大きな声が聞こえた。
「おい! チョロン行きの箱はそっちじゃないぞ!」
振り返ると、別の馬車へ荷物を積んでいた男たちが、木箱を持ったまま何やら言い合っていた。
チョロン。
昨日の香辛料が来た町だ。
その馬車には、俺たちのものとは違う印のついた箱がいくつも積まれている。
「ペックさん、あの馬車はチョロンへ行くんですか?」
「ん? ああ、そうみたいだな」
「ベルドから、また別の町へ荷物を運ぶんですね」
「そりゃそうだ。こっちから向こうへ送る荷もあれば、向こうから来る荷もある。俺たちだって、ここで積み替えてアルネへ持って帰るだろ?」
「そうですね」
「ベルドはそういう荷が多いんだよ。だから倉庫も忙しい」
俺はもう一度、向こうの馬車を見た。
「ペックさんはチョロンへ行ったことがあるんですか?」
「いや、俺はないな。ベルドまでは何度も来てるけど、そっちの仕事は受けたことがない」
「そうなんですか」
「お前、興味あるのか?」
「昨日食べた料理に、あの町から来た香辛料が使われてたんですよ。どんなところなんだろうなと思って」
「なるほどな。飯がきっかけか」
ペックさんが笑った。
「お前、本当に食うのが好きだな」
「……そんなに変ですかね?」
「いや、いいと思うぞ。俺だってうまいものは好きだ」
そこへドーマさんの声が飛んできた。
「ペック! 話は後にして、出るぞ!」
「今行くよ!」
ペックさんは肩をすくめ、馬車へ戻っていった。
俺も後に続く。
チョロン行きの馬車は、まだ荷物を積んでいるところだった。
◇
ベルドを出る頃には、小雨はほとんどやんでいた。
街道の人通りは次第に少なくなり、町の近くでは何台もの馬車とすれ違ったが、しばらく歩くと、聞こえるのは俺たちの馬車の音ばかりになった。
今日も二台目について歩きながら、時々荷物を見上げる。
昨日積んだばかりなので、行きとは箱の大きさも袋の置き方も違っている。中には少し気をつけておいた方がよさそうなものもあったが、今のところ問題なく運べているようだ。
「このくらいの雨で済んでよかったな」
二台目の御者が言った。
「もっと降るかと思いました」
「ああ。荷物が濡れるのも困るが、道がぬかるむと馬車が進まなくなるからな」
俺は車輪の通る轍へ目を向けた。
朝の雨で少し濡れているものの、馬車が通るところはしっかり踏み固められている。荷台が傾くたびに木箱が小さく軋むが、縄が締められているおかげか、荷物が大きく動くことはなかった。
しばらくして、前を行くドーマさんが振り返った。
「ライアス、そっちはどうだ?」
「はい! 変わりないです!」
「よし、そのまま頼むぞ!」
ドーマさんは頷き、一台目の方へ戻っていった。
今日も忙しそうだ。
ただ、ベルドへ向かった時ほど、何度も確認するようには言われなくなった気がする。
俺は荷台をもう一度確かめ、馬車の歩みに合わせて街道を進んだ。
◇
昼の休憩では、道幅の広い場所に馬車を寄せ、馬を休ませることになった。
荷物に問題がないことを確認してから、俺も道の脇へ腰を下ろす。
持ってきたパンを取り出していると、ペックさんが隣へやってきた。
「そういや、昨日は何を食ったんだ?」
「ハジャオ焼きっていう肉料理です」
「ハジャオ?」
「はい。昨日運んだ香辛料、覚えてますか? チョロンから来たやつです」
「ああ、あれか。わざわざ探して食ったのか?」
「いえ、食堂の前を通ったら同じような匂いがしてて、それで入ってみたんです」
「へえ。どんな味だった?」
「うまかったですよ。ちょっと変わった香りがして、食べると舌がじんとするんです」
「舌が?」
「はい。最初は辛いのかと思ったんですけど、少し違う感じで」
ペックさんはパンをかじる手を止めた。
「……それ、うまいのか?」
「うまいんですよ」
「舌が変になるんだろ?」
「変になるっていうか……まあ、食べてみないとわからないかもしれません」
うまく説明できない。
俺も昨日初めて食べたばかりだから、何と言えばいいのかわからなかった。
「それに、少し買ってきたんです」
「香辛料をか?」
「はい。自分でも何か作ってみようと思って」
「なるほどな」
ペックさんは頷いたものの、まだ少し不思議そうな顔をしている。
「まあ、俺は舌がじんとする飯より、普通の肉焼きの方がいいかな」
「食べたら気に入るかもしれませんよ」
「そうかねえ」
二人でそんな話をしていると、ドーマさんから出発の声がかかった。
俺は残っていたパンを口へ押し込み、水を飲んで立ち上がった。
◇
午後になると、街道の脇に木が増えてきた。
ベルドへ向かう時にも通った林だ。
あの時は木々の間から足音が聞こえて、護衛の人に報告したんだった。結局、何がいたのかはわからなかったが、今回は特に変わった音も聞こえてこない。
枝の上では鳥が鳴き、風が吹くたびに葉が揺れている。
護衛の人たちは周囲を確かめながら歩いていたが、馬車を止めることもなく林を抜けた。
そこから先は、また見通しのいい道が続いていた。
ただ、ベルドを出た頃に比べると、地面が随分濡れている。
轍のくぼみに水が溜まっているところもあって、御者はできるだけ乾いた場所を選んで馬車を進めていた。
朝の小雨だけで、こんなになるものだろうか。
そんなことを考えていると、少し先から水の流れる音が聞こえてきた。
最初は気にしていなかったが、進むにつれて、思ったより大きな音になってきた。
……あれ?
「すみません。この辺って、大きな川ありましたっけ?」
俺は二台目の御者に尋ねた。
「大きな川? いや、この辺にはなかったと思うが」
「そうですよね」
「どうした?」
「水の流れる音がするんですけど、結構大きい気がして」
御者は少し前方へ目を向けた。
「この先に小さな流れはあったはずだが……」
「それですかね?」
「さあな。もう少し進めばわかるだろ」
俺も前を見た。
まだ水は見えない。
ただ、馬車の音の向こうから、絶えず水の流れる音が聞こえていた。
しばらく進むと、御者も気づいたらしい。
「……ああ、聞こえるな」
少し先で、一台目の馬車が速度を落とした。
俺たちもそれに合わせてゆっくり進む。
やがて道が緩やかに曲がったところで、街道の脇を流れる水が見えてきた。
「あれか」
御者が声を上げた。
たぶんいつもは浅い流れなんだと思うが、今は濁った水が勢いよく流れている。普段は水が届かないのだろうか、川沿いの草が倒れ、低くなった道の端にも水が広がっていた。
ドーマさんが馬車を止め、こちらへやってきた。
「こりゃ、随分水が増えてるな」
「さっきから水の音が聞こえてたんです」
「そうか。この辺は昨日、結構降ったのかもしれんな」
ドーマさんは流れを見てから、道の反対側へ目を向けた。
「向こう側はどうだ?」
御者と護衛の一人が、馬車を通せそうな場所を確かめに行った。
水が広がっているのは道の低い側だけで、反対側にはまだ余裕がある。ただ、濡れた地面が柔らかくなっていないかは確認する必要があるらしい。
俺も馬車のそばで待ちながら、水の流れる方を眺めていた。
近くまで来ると、なかなか大きな音だ。
これなら、俺でなくても気づくと思う。
「よし。こっちへ寄せれば通れそうだ」
戻ってきた御者の言葉に、ドーマさんが頷いた。
「じゃあ、一台ずつ行こう。慌てなくていいぞ」
「わかった」
先に一台目が動き出した。
水の広がっていない側へ大きく寄せ、普段よりゆっくり進んでいく。車輪が地面に沈むこともなく、無事に通り抜けた。
続いて二台目も進む。
俺は荷台の横を歩きながら、車輪の位置を確かめた。少し揺れたが、御者が速度を落としてくれたおかげで、荷物が大きく動くことはなかった。
水のある場所を通り過ぎたところで、ドーマさんが声をかけてきた。
「何ともなくてよかったな」
「はい」
「しかし、こんなに水が増えてるとは思わなかった」
「俺も、大きな川でもあるのかと思いました」
「ははっ。そんなもんがあったら、俺たちも知ってるさ」
そう言ってドーマさんは笑った。
「まあ、気になることがあったら、また言ってくれ。こっちも気づいてないことがあるかもしれんからな」
「はい」
馬車は再び、いつもの速さで進み始めた。
水音はしばらく後ろから聞こえていたが、道が離れるにつれて小さくなっていった。
◇
そこから先も、ところどころに水溜まりが残っていた。
どうやら、アルネ側では昨日かなり雨が降ったらしい。道の脇に水が残っている場所もあり、御者たちは時々車輪の通る位置を変えながら進んでいた。
歩きながら、ふと朝の馬車を思い出す。
チョロンへ向かうと言っていた、あの荷馬車だ。
俺たちがアルネへ帰るように、あの馬車も今頃どこかの街道を進んでいるのだろうか。
ベルドまででも結構な距離を歩いたのに、あの先にもまだ町があるらしい。
そう考えると、随分広いものだな。
もっとも、俺はまだアルネとベルドの間を行き来しているだけだ。
ほかにどんな町があるのか、あまり知らない。
「兄ちゃん、疲れてないか?」
御者に声をかけられ、顔を上げた。
「はい。大丈夫です」
「あと少しだ。もうひと頑張りだな」
「はい!」
返事をしてから、足元の道へ目を戻す。
そういえば、朝から随分歩いたはずなのに、昨日ほど体は重くなかった。
それでも、アルネへ着く頃には疲れて腹が減っているだろうな。
今夜は何を食べよう。
そんなことを考えながら、馬車の横を歩き続けた。
◇
アルネの町が見えてきたのは、日が傾き始めた頃だった。
見慣れた町並みが近づくにつれ、人や荷車が増えてくる。
ベルドから出発した時はまだ元気だった馬も、少し疲れているように見えた。御者が声をかけると、二台の馬車はゆっくりと町の中へ入っていく。
「お疲れさん。もう少しで終わりだぞ」
ドーマさんが俺たちへ声をかけた。
「はい!」
馬車が止まったのは、出発前に荷物を積んだ倉庫だった。
受け取りに来た人たちへドーマさんが声をかけると、荷下ろしが始まった。俺も二台目の箱や袋を運び、ペックさんは札と紙を照らし合わせながら数を確かめていく。
最後の荷物を降ろしてから、空になった荷台をもう一度確認した。
「よし。こっちは全部合ってるな」
ペックさんが頷いた。
「ライアスもご苦労さん。三日間、大変だったろ」
「荷物を運ぶのは慣れてるつもりだったんですけど、結構疲れました」
「ははっ。あれだけ運べばな」
「でも、面白かったです」
「そうか。それならよかった。また人手が必要になったら頼むかもしれんぞ」
「はい。機会があれば」
ペックさんと話していると、ドーマさんも戻ってきた。
「ライアス、三日間お疲れさん。助かったよ」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「荷物の扱いも最初より慣れたしな。ちゃんと確認してくれるのはありがたい」
ドーマさんはそう言って、二台目の荷台を軽く叩いた。
「じゃあ、今日はここまでだ。気をつけて帰れよ」
「はい。お疲れさまでした!」
二人に挨拶し、俺は倉庫を後にした。
三日間の仕事がようやく終わった。
ベルドではほとんど荷物を運んでいたし、今日も朝から歩きっぱなしだった。明日は少し遅くまで寝ていたいところだが、ギルドへの報告も済ませなければならない。
……まあ、それは明日考えよう。
◇
いつもの宿へ戻ると、ボノさんが帳場にいた。
「戻ったか」
「はい。ただいま帰りました」
「ベルドはどうだった?」
「忙しかったです。特に二日目が」
「そうか。飯はちゃんと食えたか?」
「はい。うまい店も見つけましたよ」
「そりゃよかったな」
部屋へ上がろうとしたところで、ふと思い出した。
「あ、ボノさん」
「何だ?」
「戻ってから、また自分で料理すると思うんですけど、前に教えてもらった火の使える場所、今も大丈夫ですよね?」
「ああ。変わってないぞ」
「ありがとうございます」
ボノさんは俺の鞄へ目を向けた。
「何か買ってきたのか?」
「香辛料です。ちょっと変わったやつで」
「へえ。今度は何を作るつもりだ?」
「まだ決めてないんですけど、豆を煮るか、肉を焼くか……」
「そうか。まあ、火には気をつけろよ」
「はい」
俺は階段を上がり、部屋へ入った。
荷物を下ろしてから鞄を開けると、奥にしまったハジャオの包みが出てきた。
壊れたり、こぼれたりはしていないようだ。
机の上に置いてみる。
最初は荷物を運んでいる途中で、ちょっと匂いが気になっただけだった。それが、あの匂いを追いかけて店に入り、とうとう自分で使うために買って帰ってきた。
……ずいぶん、あの匂いに振り回されたな。
まあ、うまかったんだからいいか。
俺は包みを机の端へ寄せ、仕事で持っていった道具を並べた。汚れたものは後で手入れをするとして、まずは荷物を片づけてしまおう。
明日はギルドに行って、それから買い物もしたい。
肉にするか、豆にするか。
とりあえず、どっちかは作ってみよう。
俺はハジャオを机の端へもう少し寄せ、残りの荷物を鞄から取り出した。




