第64話:もう一口
通りには、食堂らしい店が何軒か並んでいた。
入口を大きく開けている店もあれば、窓から明かりが漏れている店もある。中を覗くと、どこも夕飯を食べる客で賑わっていた。
さて、どこに入ろうか。
昨日から外で飯を食べると決めていたものの、肝心の店はまだ決めていない。何でもいいから腹いっぱい食べたい気持ちもあるが、せっかくベルドまで来たのだから、アルネでは食べられないものがいい。
一軒目の店先には、大きな鍋が置かれていた。中で何かを煮込んでいるらしく、湯気と一緒に肉の匂いが漂ってくる。
うまそうだ。
けれど、もう少し先まで見てみたい。
その隣の店では、客がパンを片手に何かを食べていた。こちらも悪くなさそうだが、何の料理なのかはよくわからない。
店の前を行ったり来たりしているうちに、腹が鳴った。
……あまり迷っていると、余計に腹が減るな。
そう思って歩き始めたところで、ふと足が止まった。
どこかから、少し変わった匂いがしている。
焼いた肉の匂いに混じって、甘いような、それでいて鼻の奥に残るような香りが漂ってきた。
……あれ?
今日の昼間にも、似た匂いを嗅いだ気がする。
そうだ。帰りの荷物を積んでいた時だ。
チョロンから届いた香辛料の袋。
あの袋から漂っていた匂いに、どこか似ている。
俺は匂いのする方へ歩いてみた。
少し先にあったのは、入口の狭い食堂だった。外から中を覗くと、壁際には何人かの客が座っていて、奥では男が肉を焼いている。
どうやら、ここらしい。
店の前に立つと、さっきよりも香りがはっきりした。
これを使った料理が食べられるかもしれない。
そう思ったら、もうほかの店を見る気にはならなかった。
「……ここにしよう」
俺は店の中へ入った。
◇
「いらっしゃい!」
奥から声がかかった。
店内にはいくつかの卓が並び、仕事帰りらしい男たちが飯を食べている。客の話し声と食器の触れる音に混じって、肉の焼ける音が聞こえていた。
「一人かい?」
「はい」
「なら、そこの席へどうぞ」
空いている席を指されたので、俺は荷物を足元に置いて腰を下ろした。
しばらくすると、店の男が水の入った器を持ってきた。
「何にする?」
「えっと……」
そう聞かれて、困ってしまった。
そもそも料理の名前を知らない。周りの客が食べているものもおいしそうだが、俺が食べたいのは、あの匂いのする料理だ。
「この匂いのする料理が食べたいんですけど」
「この匂い?」
男は少し首を傾げ、それから奥で焼いている肉の方を見た。
「ああ、ハジャオ焼きか。わかった」
「ハジャオ焼き?」
「そうそう。ちょっと刺激が強いけど、平気かい?」
「少しくらいなら大丈夫です」
「じゃあ、パンもつけるか?」
「お願いします」
「はいよ!」
男は奥へ戻っていった。
ハジャオ焼き。
初めて聞く名前だ。
あの香辛料を使った料理なのだろうか。そういえば、香辛料そのものの名前まではペックさんに聞いていなかったな。
水を一口飲み、店内を見回す。
奥では肉が焼かれていて、店の男が時々それを返していた。火に近づくたびに香りが強くなり、腹がまた減ってくる。
もう少しだ。
そう思って待っていると、それほど時間もかからず料理が運ばれてきた。
「はい、ハジャオ焼き。熱いから気をつけてな」
「ありがとうございます!」
目の前に置かれた皿には、焼き色のついた肉が盛られていた。
表面には濃い色のたれが絡み、ところどころに焼けた部分がある。添えられた野菜にも少し汁がかかっていて、皿からはさっきの香りが立ち上っていた。
うまそうだ。
いや、これは絶対にうまいやつだろ。
俺は待ちきれずに肉を一切れ取り、口へ運んだ。
「……あっ」
熱い。
思ったよりずっと熱かったので、慌てて口の中で転がす。
それから噛んでみると、肉の汁がじわっと広がった。
「……うまい」
思わず声が出た。
肉にはしっかり味がついている。それに、今まで食べたことのない香りが重なっていた。
少し甘さを感じるような香りが鼻に抜け、その後で舌の先がじんとした。
……ん?
もう一度、口の中で確かめてみる。
辛い、のか?
少し違う気がする。舌がぴりぴりするのに、痛いわけではない。何とも変わった感じだ。
もう一口食べてみた。
今度は熱さにも驚かず、ゆっくり噛むことができた。肉の味がちゃんとあるのに、噛むたびに変わった香りが広がり、飲み込んだ後もしばらく舌に刺激が残る。
これがハジャオの味なんだろうか。
最初は驚いたが、慣れてくると妙に癖になる。
なるほど、これはパンが欲しくなる。
一緒に出されたパンをちぎり、肉を挟んで食べてみた。
「……ああ、うまいな」
パンと一緒に食べると、少し強かった味がちょうどよくなる。
けれど、食べ終わるとまた肉が欲しくなった。
俺は水を飲みながら、次の一切れに手を伸ばした。
食べ進めているうちに、妙な感じがした。
この味というか、匂いというか。
初めて食べるはずなのに、どこか懐かしい気がする。
口の中に残った刺激を確かめながら、少し考えてみた。
……何だろう。
こんな料理を食べたことがあっただろうか。
少なくとも、村で暮らしていた頃には覚えがない。アルネでも、こんな香りのする料理には出会わなかった。
前の世界でも食べたことがあるんだろうか。思い出そうとしてみたが、やっぱり何も浮かんでこなかった。
……まあ、いいか。肉が冷める方がもったいない。
俺は残っていたパンをちぎり、皿の汁をつけて食べた。
これもなかなかうまい。
肉の旨味が染みた汁にも、あの独特な香りが残っている。パンを食べた後、舌がまた少しじんとした。
気づけば、皿の上にはもう肉が二切れしか残っていなかった。
……しまった。
もう少しゆっくり食べればよかった。
そう思いながら最後の二切れを食べたが、結局どちらもすぐになくなってしまった。
皿を空にして水を飲むと、ようやく腹が落ち着いた。
うまかった。
昨日、宿の食堂で済ませてしまった時は、少し後悔したものだが、今日はちゃんと外へ出てよかったと思う。
あのまま宿へ帰っていたら、この料理を食べられなかったわけだからな。
それにしても、ハジャオ焼きか。
肉にあの香辛料を使うと、こんな味になるのか。
ふと、アルネで自分の飯を作った時のことを思い出した。
香草や酢を少し入れるだけでも、豆の煮物は随分と変わった。
あれに、この香辛料を入れたらどうなるんだろう。
さすがに、この肉と同じ味にはならないだろうけど、少しくらいは面白い味になるかもしれない。
肉を焼く時にも使えそうだ。
……いや、そもそも俺にこんなふうに焼けるのか?
そこは少し怪しい。
でも、試してみたいな。
「ごちそうさまでした」
食器を下げに来た男へ声をかけると、男は皿を見て笑った。
「おう、きれいに食ったな。どうだった?」
「すごくうまかったです。あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
「何だい?」
「この料理に使ってる香辛料って、なんて名前ですか? この辺で買えますか?」
「ハジャオか?」
料理名そのままだった。
「はい。たぶんそれです」
「お、気に入ってくれたのか。嬉しいな」
男は皿を持ち直しながら頷いた。
「それなら、一本向こうの通りの角にある店で売ってるぜ。食料品をいろいろ置いてるところだ」
「ありがとうございます」
「ただ、家で使うなら最初は少しずつにしとけよ。香りも刺激も強いからな」
「わかりました」
「肉を焼くなら、味をつける時にちょっと混ぜてみるといい。入れすぎなきゃ、それなりに食えるものになるさ」
「なるほど」
俺は代金を払い、礼を言って店を出た。
外はすっかり暗くなっていたが、通りにはまだ人が歩いている。店先に明かりをつけているところも多く、少し離れた場所からも食べ物の匂いが漂ってきた。
今なら、もう一軒くらい入れるかもしれない。
……いや、さすがに腹いっぱいだな。
俺は教えてもらった店を探すことにした。
◇
一本隣の通りへ入ると、角に食料品店があった。
店先には豆や乾物の袋が並び、棚には小さな包みや瓶が置かれている。ちょうど客が一人出てきたところで、まだ店は開いているようだった。
「すみません」
奥にいた店の男が顔を上げた。
「はいよ。何を探してる?」
「ハジャオっていう香辛料、ありますか?」
「ああ、あるよ。どのくらい欲しい?」
「えっと……」
どのくらい使うものなのか、よくわからない。
「自分で料理に使ってみたいんですけど、初めてなので少しだけ」
「それなら、これくらいでどうだ?」
男は棚から小さな包みを取り出した。
手のひらに収まるくらいの大きさだ。
「何度か試せる量はあるぞ。銅貨二十枚だ」
銅貨二十枚か。
何度も使えるなら、悪くなさそうだ。
「じゃあ、それをください」
「毎度あり」
財布から銅貨を取り出して渡すと、男は包みを差し出した。
受け取ってみると、紙越しにもわずかに香りがした。
「これ、チョロンから来るんですよね?」
「ああ。そうだよ」
やっぱりそうなのか。
昼間、馬車に積んだ袋を思い出す。
あの荷物も、今頃はしっかり積まれたまま、明日の出発を待っているはずだ。
「ありがとうございました」
俺は包みを鞄へしまい、店を出た。
◇
通りへ戻ると、夕飯を食べに来たらしい人たちがまだ歩いていた。
さっきの食堂の前にも客が何人かいて、店の中からは楽しそうな声が聞こえてくる。
俺は鞄の中の包みを確かめた。
ハジャオ。
自分でもあんな料理が作れるとは思わないが、試してみるだけならできそうだ。
豆を煮る時に入れてみようか。それとも、何か肉を買って焼いてみようか。
どちらにしても、入れすぎないようにしないとな。
あの店の男もそう言っていた。
そんなことを考えていると、宿へ戻る道が見えてきた。
昨日は歩くのが面倒になって、結局外へ出なかったんだよな。
今日は散々歩いたのに、不思議とそれほど気にならない。
……まあ、明日の朝はまた早いんだけど。
俺は鞄を背負い直し、宿へ向かった。




