第58話:ここがいい
村の中へ入ってからも、モレルさんはあちこちに目を向けていた。
道端の草や畑の端を眺めているうちに足が遅くなり、時々俺との距離が開いてしまう。それでも今日は立ち止まらず、ちゃんとついてきている。
「もう少しですよ。あの先が俺の家です」
「へえ、思ってたより村の奥なんだね」
「そうですね。畑が家の裏にあるので、そっちから見てもらおうかと思ってます」
「うん、楽しみだなあ」
家が見えてきたところで、モレルさんの足が止まった。
「……あれ?」
「どうしました?」
「いや、ちょっと」
道の脇にしゃがみ込み、小さな草の葉を持ち上げる。
とうとう始まってしまった。
「これ、前に見たのと似てるな……でも、やっぱり少し違う」
「同じ草じゃないんですか?」
「たぶん同じ種類だと思うんだけどね。葉の形が少し気になるんだ」
俺も隣から覗き込んだ。
地面に張りつくように葉を広げた、どこにでもありそうな草だ。前に採取したものと似ている気はするが、言われなければ違いには気づかない。
「何が違うんです?」
「ここ。葉の先が少し丸いだろう?」
「……そうですか?」
「うん。まあ、もう少し調べないとはっきりしないけど」
モレルさんはしばらく草を眺め、それから立ち上がった。
「よし、行こうか」
「あれ、もういいんですか?」
「うん。場所は覚えたから、帰りにまた見よう」
帰りに見るものが、もう一つ増えたらしい。
◇
家の前まで来ると、モレルさんは立ち止まって建物を見上げた。
「ここがライアス君の家?」
「はい。古いですけど、ちゃんと住めますよ」
「いいじゃないか。畑は裏なんだね?」
「そうです。まず家の中を見ますか?」
「いや、畑からお願いしてもいいかな」
そう言うと思った。
家の脇を通って裏へ回ると、少し前に手を入れたばかりの畑が見えた。冬の間は何も植えていなかったため、土が見えているところがほとんどだ。
「ここです」
「おお……」
モレルさんは畑を見渡し、それから足元の草に目を向けた。
「ちょっと見てもいい?」
「もちろん」
しゃがみ込んだのは、畑の端だった。
そこは日当たりが悪く、作物を植えても育ちにくい。だから毎年、必要な時だけ手をかけている。
「こっちもいいな……」
「そこですか?」
「うん。土があまり動かされてないね」
「作物を植えるところじゃないですから。草も全部は抜いてないですし」
「それがいいんだよ」
俺としては、畑の真ん中を見てもらいたい。
何年も芋や豆を育ててきた場所だし、この間帰ってきた時も、春に備えて土を少し直しておいた。
けれどモレルさんは、畑の端からなかなか動かなかった。
「ライアス君、ここって雨が降るとどうなる?」
「少し湿りますね。乾くのも遅いです」
「そうなんだ。じゃあ、あっちは?」
指差したのは、畑の反対側だった。
「そっちは日がよく当たります。芋を植えることが多かったですね」
「へえ。土は同じ?」
「全部が同じってわけじゃないですよ。場所によって違いますから」
「そうだよね。ちょっと見せてもらおう」
ようやく畑の中へ進んでくれた。
モレルさんは俺の案内で、去年まで作物を育てていた場所を順番に見て回った。土を指で崩したり、地面の傾きを確かめたりしながら、時々質問してくる。
「ここ、少し低くなってるね」
「ああ、そこは雨が降ると水が溜まりやすいんです」
「何か対策してた?」
「溝を掘って流してました。この間も土が寄っていたので、少し直しましたけど」
「なるほど。それなら水の流れる方向もわかってるんだ」
「何年も使ってますからね」
モレルさんは頷きながら、鞄から紙を取り出した。
「ここに書いてもいい?」
「どうぞ」
畑の形らしきものを描き始めたので、隣から覗き込む。
あまり上手な絵ではなかった。
「……そこ、もう少し長いですよ」
「えっ、そう?」
「あと、こっちが家です」
「ああ、逆だったか」
どうやら絵は得意じゃないらしい。
俺も人のことは言えないけど。
◇
しばらく畑を見て回った後、モレルさんが木箱を開けた。
中には、町から大事そうに運んできた草が入っている。
「これと似たもの、ここにも生えてるかな」
「どうでしょう。草なんてみんな似てますからね」
「まあ、そう言わずに」
モレルさんは箱を抱えたまま、畑の端へ向かった。
先ほど見ていた場所とは反対側だ。そこにも何種類かの草が生えているが、畑を耕す時にはまとめて抜いてしまうものばかりだった。
「……ああ、これかな」
一本の草を見つけ、持ってきたものと見比べ始める。
「似てるけど、ちょっと違うな」
「さっきも言ってませんでした?」
「うん。でも、さっきのとはまた違うんだよ」
「そうなんですか」
「ほら、こっちは葉が少し細いだろう?」
言われたところを覗き込む。
確かに、並べてみると少し違う気がする。
「……それ、別の草じゃないんですか?」
「そうかもしれないね」
「えっ」
「だから調べたいんだよ」
モレルさんは楽しそうに答えた。
同じ草なのか違う草なのか、それを調べるためにわざわざ持ってきたらしい。
俺なら、畑に生えていた時点で抜いて終わりだ。
「これ、採ってもいい?」
「別にいいですよ。畑の端ですし」
「ありがとう。じゃあ、少しだけ」
モレルさんは採取用の道具を取り出し、根を傷つけないよう土を掘り始めた。
その手つきを見ていると、前に採取依頼を受けた時のことを思い出す。
普通の草を土ごと運ぶなんて面倒な仕事だと思っていたが、こうして見ると、何となく理由がわかる。
「ライアス君、この辺って何か植える予定はある?」
「まだ決めてないですけど……」
俺は畑を見渡した。
今年も芋や豆を作るなら、日当たりのいいところから使うことになるだろう。今モレルさんがしゃがんでいる辺りは、最後まで手をつけないかもしれない。
「そこは、あんまり使ってないですね」
「そうなんだ」
「育ちが悪いんですよ。日が当たる時間も短いですし」
「それはいいな」
「……いいんですか?」
「うん。日当たりの違う場所が近くにあると、比べやすいからね」
なるほど。
俺が作物を植えたがらない場所でも、モレルさんには使い道があるらしい。
「でも、植物を育てるなら、日当たりがいい方がよくないですか?」
「育てるものによるよ。それに、同じものを違う場所で育ててみたいこともあるから」
そう言いながら、モレルさんは採った草を丁寧に包んだ。
「じゃあ、次は家を見せてもらっていいかな?」
「はい。やっとですね」
「いやあ、畑が面白くて」
それは見ていればわかる。
◇
家へ戻り、扉を開ける。
少し前に掃除したばかりなので、中はそれほど汚れていない。しばらく住んでいなかった割には、悪くない状態だと思う。
「どうぞ。狭いですけど」
「お邪魔します」
モレルさんは木箱を入口の脇へ置き、家の中を見回した。
「へえ……ここでずっと暮らしてたんだね」
「そうです。子供の頃から」
「そっか。じゃあ、使い慣れたものばかりなんだ」
「まあ、そうですね。古いものも多いですけど」
モレルさんは部屋を一回りすると、窓のところへ行った。
「窓は開く?」
「ああ、それなんですけど……」
俺は窓枠を押した。
少し引っかかった後、ぎしぎしと音を立てて開く。
「この間、掃除して動くようにはしたんです。でも、まだ少し引っかかるんですよね」
「なるほど。閉まる方は?」
「閉まりますよ。そこは大丈夫です」
モレルさんは窓から外を覗いた。
ちょうど畑の一部が見える。
「ここから畑の様子がわかるんだね」
「そうですね。全部は見えませんけど」
「十分だよ。雨が降ってるかどうかもわかるし」
「雨なら、窓から見なくてもわかると思いますけど……」
「それもそうか」
笑いながら窓を閉める。
それから部屋の隅へ目を向けた。
「この辺の道具は、ライアス君の?」
「そうです。農具とか、家で使ってたものですね」
「じゃあ、そのままにしておかないとね」
「邪魔なら少し動かしてもいいですけど、捨てないでくださいね」
「もちろん。使いたいものがあったら、先に聞くよ」
それなら安心だ。
モレルさんは壁際の空いている場所を見て、少し考えている。
「ここに棚を置けたら便利そうだなあ」
「棚ですか?」
「紙とか道具とかね。今は鞄に入れてるけど、毎回出し入れするのも大変で」
「置く場所はありますよ。棚を持ってくるなら、先に大きさを測った方がいいと思いますけど」
「そうだね。あまり大きなものは必要ないかな」
まだ借りると決まっていないのに、もう荷物を置く場所を考えている。
もっとも、モレルさんの鞄や木箱を見ていると、確かに置き場所は必要そうだった。
「寝る場所は、ここで大丈夫ですか?」
「ああ、うん。毛布も持ってきたし、問題ないよ」
「じゃあ、今日はそこを使ってください。俺はいつもの場所で寝ますから」
モレルさんは礼を言って荷物を置いた。
とりあえず、泊まる準備はこれでいいだろう。
◇
まだ外は明るかったので、もう一度畑へ出ることにした。
モレルさんが確認したいことがあるというので、今度は家の近くから順番に見て回る。
「ライアス君、畑って全部使ってたの?」
「去年までは、ほとんど使ってましたね。休ませてたところもありますけど」
「一人で?」
「はい」
「大変だったろう?」
「まあ、慣れてますから。でも、収穫の時期は結構忙しかったですよ」
モレルさんは畑を見渡し、少し考えてから口を開いた。
「じゃあ、今年も全部使うつもりだった?」
「……それを迷ってたんです」
町で仕事をするようになってから、畑のことを考える時間は減った。
この間帰ってきた時も、土を直しながら何を植えるか考えていたが、結局決められなかった。
「町から通って畑を見るのは、難しいですからね」
「そうだろうね。片道半日だし」
「モレルさんが使うなら、畑はどうしたいんですか?」
「僕?」
「はい。どれくらい必要なのかなって」
モレルさんは少し考え、畑の端を指差した。
「まずは、あの辺かな」
「……あそこだけですか?」
「うん。それくらいあれば、しばらくは十分だと思う」
思っていたよりずっと狭い。
「畑、全部使うんじゃないんですか?」
「全部はいらないよ」
あっさり言われてしまった。
「僕が育てたいのは、野菜じゃないからね。そんなに広い場所を一度に使っても、手が回らないよ」
「そうなんですね」
「それに、いくつかの場所で同じ草を育てて比べたいだけだから。まずは小さな場所から始めたいんだ」
モレルさんは畑の別の場所を指差した。
「あと、できれば日当たりのいいところも少し使わせてもらえると嬉しいかな」
「それなら、こっちですね」
俺は去年まで芋を植えていた場所を指差した。
「この辺はよく日が当たります。土も使いやすいと思いますよ」
「へえ。じゃあ、そこも見せてもらおうかな」
二人で畑を歩きながら、使いやすそうな場所をいくつか確かめた。
全部を使わなくてもいいのなら、俺が作物を植える場所を残しておくこともできる。
もっとも、町にいる間に世話ができるかどうかは別の問題だけど。
「ライアス君も畑を使いたくなったら、使えばいいと思うよ」
「でも、モレルさんが借りるんですよね?」
「全部じゃないからね。僕が使う場所だけ決めておけばいいんじゃないかな」
「……なるほど」
それなら、畑を全部貸してしまう必要はない。
今まで何年も使ってきた畑だ。全部使えなくなるのは、少し寂しい気もしていた。
「ただ、どこまで使うかはちゃんと決めたいですね」
「うん。それはもちろん」
「俺も帰ってきた時に畑を使うかもしれませんし」
「その時は一緒にやればいいよ。ライアス君の方が、この土地のことは詳しいんだから」
一緒に畑仕事をする、か。
今までずっと一人でやってきたので、何だか変な感じがする。
「……モレルさん、野菜は育てられるんですか?」
「え?」
「いや、植物のことは詳しいみたいですけど、芋とか豆とか、普通の作物はどうなのかなって」
「ああ。育てたことはあるよ」
「そうなんですね」
「でも、食べるためにたくさん育てるとなると、また違うんだろうね」
「まあ、そうですね。失敗すると冬の飯が減りますから」
「それは困るなあ」
モレルさんは笑ったが、俺としては笑い事ではなかった。
◇
一通り見終わったところで、家の前に戻った。
日が傾き始め、畑の端には長い影が伸びている。そろそろ夕飯のことも考えないといけない時間だ。
モレルさんは家と畑を交互に眺めていた。
「どうでした? 思ってたのと違いました?」
「うん。思ってたよりずっといい場所だったよ」
「そうですか?」
「畑の状態もいろいろあるし、家もすぐ近くにある。道具を置いておけるのもありがたいね」
実際に住むとなれば、不便なところも出てくるだろう。水は自分で汲みに行かなければならないし、傷んだところも少しずつ直す必要がある。
その辺りも話しておいた方がいい。
「モレルさん、住むなら水汲みとかも自分でやることになりますよ」
「うん。もちろん」
「家の手入れも必要ですし、冬は結構寒いです」
「そうだろうね」
「町みたいに、近くで何でも買えるわけじゃないですから」
「それも大丈夫だと思うよ。必要なものは町へ行った時に買えばいいし」
モレルさんは少し考え、それから俺の方を向いた。
「ライアス君」
「はい?」
「ここ、借りたい」
あまりにもあっさり言われたので、一瞬返事に困ってしまった。
「……本当に、ここでいいんですか?」
「うん。ここがいい」
モレルさんは迷わず答えた。
「畑も面白いし、家もある。それに、ライアス君が何年も使ってきた場所なら、畑のこともいろいろ聞けるだろう?」
「まあ、それは……わかることなら教えますけど」
「ありがとう。助かるよ!」
どうやら、本気で借りたいらしい。
「……じゃあ、ちゃんと話を決めないといけませんね」
「うん。よろしく頼むよ、ライアス君!」
「まだ貸すって決めたわけじゃないですよ?」
「あれ、そうなの?」
「家賃も、使う場所も、何も決めてないじゃないですか」
「ああ、そうだったね!」
モレルさんは笑いながら、また畑の方を見た。
「でも、やっぱりここがいいなあ」
ずいぶん気に入ってくれたらしい。




