第57話:寄り道は帰りに
約束の日の朝、ギルドの前へ行くと、モレルさんはもう待っていた。
足元には大きな鞄と小さな木箱が置かれている。鞄には丸めた毛布まで括りつけてあって、思っていたよりも荷物が多い。
「おはようございます。早いですね」
「ああ、ライアス君! おはよう。楽しみで早く来ちゃったよ」
「……一応言っておきますけど、今日は植物の調査じゃないですからね」
「わかってるよ。家と畑を見に行くんだろう?」
返事はしっかりしている。ただ、足元の木箱が気になった。
「それ、何ですか?」
「ん? 草だよ」
やっぱりか。
「前に採ったものと比べたくてね。一株だけ持ってきたんだ」
「……植えるつもりじゃないですよね?」
「もちろん。まだ借りるって決まってないんだから、勝手に植えたりしないよ」
そこはちゃんと考えているらしい。
モレルさんが木箱を持ち上げたので、俺も荷物を背負い直した。今回は自分の家へ行くだけだが、棒と盾はいつも通り持ってきている。
「村までは五、六時間くらいかかりますよ。大丈夫ですか?」
「歩くのは慣れてるからね。調査でも結構歩くんだ」
それは知っている。ただ、調査の時は歩いている時間より、しゃがみ込んでいる時間の方が長かった気もする。
「それと、今日中に町へ戻るのは難しいと思います」
「うん。明日帰るつもりでいるよ。泊まるところはあるかな?」
「俺の家でよければ泊まれますよ。古い家ですけど」
「ありがとう! それなら安心だ」
「泊まるのと、家を貸すのは別の話ですからね」
「わかってるって」
何度も念を押してしまうが、仕方ない。
あの人の頭の中では、もう畑に草が植わっているような気がする。
◇
町を出て西へ向かう。
空は晴れていて、歩くにはちょうどいい天気だった。朝の空気にはまだ冷たさが残っているが、日が高くなれば少し暖かくなるだろう。
モレルさんは思っていたよりもしっかりした足取りで歩いていた。
以前の調査では道端の草を見つけるたびに立ち止まっていたのに、今日は時々目を向ける程度で、そのまま道を進んでいる。
「今日は止まらないんですね」
「うん? ああ、草のこと?」
「そうです。前は町を出るまでにも何度か止まりましたから」
「あの時は調査だったからね。今日は違うだろう?」
なるほど。やるべきことが決まっていれば、その通りに行動できる人らしい。
「それに、ライアス君の畑を見る時間がなくなったら困るからね」
「それは助かります」
「帰りに気になるところがあったら、少し見てもいいかな?」
「……帰りなら、時間次第ですね」
「よし、楽しみが増えた!」
まだ行きの途中なんだけどな。
しばらく歩くと、道は緩やかな坂に差しかかった。林が近くなる場所では周囲の音にも気を配ったが、聞こえてくるのは風に揺れる枝や鳥の声くらいだった。
モレルさんは時々木箱を持ち替えながら、俺の畑について質問してくる。
去年は何を植えたのか。土を耕すのはいつ頃からか。日当たりの悪い場所には何が生えているのか。
畑の仕事についてなら、大体のことは答えられる。もっとも、雑草の種類まで聞かれると、あまり自信がない。
「畑に生えてる草なんて、邪魔なら抜いてましたから」
「まあ、普通はそうだよね」
「モレルさんは抜かないんですか?」
「抜くよ。育てたいものの邪魔になるならね」
「そうなんですね」
「でも、抜く前にちょっと見たいかな」
ちょっと、で済むんだろうか。
◇
昼前になり、道端で休憩することにした。
近くに大きな木があったので、その根元に荷物を下ろす。俺が水筒を取り出していると、モレルさんが木箱を開けて、中の布を確かめ始めた。
「……あれ、思ったより乾いてるな」
「どうかしました?」
「持ってきた草の根がね。濡らした布で包んでおいたんだけど、少し乾いてきちゃったみたいだ」
覗いてみると、小さな草の根元に土がついていて、その周りを布が覆っていた。表面を指で触ってみたが、確かにあまり湿っていない。
「水、使いますか?」
俺が水筒を差し出すと、モレルさんは首を振った。
「ありがとう。でも、これくらいなら大丈夫かな」
そう言うと、草を片手で支え、もう片方の手を根元へ近づけた。
何をするのかと思って見ていると、モレルさんは急に黙り込んだ。指先をじっと見つめている。
「……モレルさん?」
「ちょっと待ってね」
声をかけられたくなさそうだったので、そのまま見ていることにした。
しばらくすると、モレルさんの指先がわずかに濡れてきた。
最初は汗でもかいたのかと思ったが、そうではないらしい。小さな水滴がいくつか集まり、少しずつ大きくなっていく。
やがてモレルさんは指を傾け、その水滴を根元の布へ落とした。
「……え?」
「よし、これでいいかな」
「ちょっと待ってください。今、何したんですか?」
「何って、水を集めたんだよ」
「水を?」
「うん。空気の中にも水分はあるからね。それを少し集めたんだ」
……魔法か?
「モレルさん、水魔法使えるんですか?」
「ああ、うん。一応ね。僕の特性は《水魔法適性》なんだ」
初めて聞いた。
魔法を使える人がいるのは知っているが、実際に目の前で水が集まっていくところを見ると、やっぱり驚く。
「すごいじゃないですか!」
「そうかな?」
「だって、水がないところでも水を出せるんですよね?」
「まあ、空気中に水分があれば、だけどね。見ての通り、ほんの少ししか集められないよ」
モレルさんはもう一度手を出した。
さっきと同じように集中しているが、今度はなかなか水滴にならない。しばらく待って、ようやく指先が少し濡れたところで、モレルさんは手を下ろした。
「こんな感じ。あんまり得意じゃないんだ」
「でも、練習すればもっと出せるようになるんじゃないですか?」
「たぶんね。僕もそう言われたことはあるよ」
「じゃあ、どうして練習しないんです?」
「だって、時間がかかるだろう?」
「……まあ、そうでしょうけど」
「それなら植物を調べていたいんだよね」
ああ、そういうことか。
せっかく魔法の適性があるのに、本人はあまり興味がないらしい。
「植物を育てるなら、水魔法って便利そうですけどね」
「全然足りないよ。普通に水を汲んでる」
「そうなんですか?」
「畑に水をやるのに、この調子で一滴ずつ集めてたら、日が暮れちゃうよ」
確かに、さっきの水滴では草の根元の布を少し湿らせるのが精一杯だろう。
「でも、もっと練習したら……」
「うん。もっと出せるようになるかもしれないね」
「だったら――」
「でも、桶で水を運んだ方が早いと思うよ」
あっさり言われてしまった。
モレルさんは木箱の中を覗き込み、少し考えてから俺の方を見た。
「……やっぱり、もうちょっと水が欲しいな」
「使っていいですよ」
結局、水筒から少し水を分けることになった。
魔法で濡らした布へ、普通の水を足していく。
さっきまでの苦労は何だったんだろう。
「最初から水筒を使えばよかったんじゃないですか?」
「うん。そうだね」
モレルさんは悪びれる様子もなく頷いた。
「でも、少しで済むと思ったんだ」
「……なるほど」
俺としては、モレルさんまで魔法を使えるとは思っていなかった。
強い魔法を使える人もいると聞くし、戦いで役立つ魔法だってあるらしい。けれど、目の前のモレルさんは、使える魔法をほんの少しだけ使って、結局は水筒に頼っている。
何とも不思議な感じだ。
「そういえば、ライアス君の特性は《聴力強化》なんだっけ?」
「はい。でもどうして知ってるんですか?」
「最初の依頼の後、次の依頼をする時にライアス君をお願いしたいって伝えたんだ。そしたらギルマスが『あの耳のいいヤツか』って言っていたよ。耳がいいってことは《聴力強化》なのかなって。よく聞こえるんだろう?」
「そうですね。遠くの音とか、小さい音とか」
「なかなか便利そうだなあ」
「まあ、仕事で役立つことはありますけど」
「僕のも、もうちょっと役に立つといいんだけどね」
モレルさんはそう言って木箱を閉じた。
……だったら練習すればいいのに。
そう思ったが、本人はもう鞄からパンを取り出していた。
◇
休憩を終えて、再び歩き始める。
午後になると、道沿いの林が少しずつ途切れ、開けた場所が増えてきた。俺には見慣れた道だが、モレルさんは初めて通るらしく、あちこちへ目を向けている。
ただし、立ち止まりはしない。
時々、何かを見つけて口を開きかけるものの、そのまま歩き続けている。
「気になるもの、あります?」
「ん? まあ、いくつかね」
「帰りに見るんですよね?」
「うん。でも今日は家と畑だから」
どうやら約束は覚えているらしい。
道が少し狭くなったところで、モレルさんは歩く速度を落とした。俺が振り返ると、木箱を抱え直しながら、道端の草に目を向けている。
「……やっぱり、こっちの方は少し違うな」
「何がですか?」
「さっき見た草と、葉の形がちょっとね」
言われて見てみたが、どれも似たような草にしか見えなかった。
「種類が違うんじゃないですか?」
「その可能性もあるけどね。もう少しちゃんと見ないとわからないかな」
「じゃあ、帰りに」
「うん。帰りに」
今日は随分と素直だ。
それからも何度か草へ目を向けていたが、モレルさんは結局、一度も道を外れなかった。
しばらくすると、遠くに見覚えのある丘が見えてきた。
「あの向こうが村です」
「おお、もうすぐなんだね!」
「まだ少し歩きますけどね」
「そうか。いやあ、楽しみだなあ」
モレルさんは何度も頷きながら歩いている。
俺も家を見てもらうのは少し楽しみだった。あの古い家を、この人がどう思うのかは気になる。
ただ、畑の方はどうだろう。
何年も使ってきたが、人に見せるために整えたことなんてない。モレルさんが気に入るかどうか、正直よくわからなかった。
「そういえば、ライアス君」
「はい?」
「家の近くにも、草はたくさん生えてる?」
「……ありますよ。普通に」
「そうか!」
嬉しそうだ。
家より草の方が楽しみなんじゃないだろうか。
◇
村が見えてきた頃には、昼をだいぶ過ぎていた。
畑が続き、その向こうに家が並んでいる。少し前に帰ってきたばかりなので、久しぶりという感じはしない。
モレルさんは道の先に広がる景色を眺めながら、ゆっくり歩いていた。
「ここがリンの村?」
「はい。俺の家はもう少し奥です」
「へえ……思ったより畑が多いんだね」
「農家が多いですからね」
「なるほど。これはいいなあ」
まだ俺の畑は見せていないんだけど。
村へ入ろうとしたところで、モレルさんが道端に目を向けた。
何かを見つけたらしく、少し屈みかける。
「モレルさん?」
「ああ、うん」
顔を上げたものの、まだ草が気になるようだった。
「……あの、俺の家はこっちですよ」
「わかってるよ。ちょっと気になるものがあってね」
「それも後にしてください」
「そうだね。まず家だ」
モレルさんは頷き、俺の隣へ戻ってきた。
ようやく村まで来たんだ。ここで調査を始められては困る。
「じゃあ、案内しますね」
「うん、よろしく頼むよ!」
俺は家へ向かう道を歩き始めた。
その後ろで、モレルさんが何度か振り返っている気配がした。
……帰りは、きっと時間がかかるだろうな。




