第55話:まだ決めていない
翌朝、目が覚めて最初に聞こえたのは、鳥の声だった。
町でも鳥は鳴いているが、こちらはずっと近い。窓の外から何羽かの鳴き声が重なり、少し遅れて家の裏を風が抜ける音がした。
久しぶりの自分の家だというのに、昨夜はよく眠れた。
起き上がって外を見ると、まだ朝の冷え込みが残っている。昨日開けられるようにした窓は、今朝も少し引っかかった。
「……またか」
きちんと直すには、もう少し手を入れる必要がありそうだ。無理に動かすのはやめ、朝飯を済ませることにした。
昨日残した豆を温め、持ってきたパンと一緒に食べる。町の食堂を思えば寂しい内容だが、これから身体を動かすには十分だろう。
食器を片づけ、昨夜入口の近くに置いておいた農具を持ち出す。
さて、畑だ。
◇
家の裏へ回ると、畑は去年の秋に片づけた時のまま……というわけにはいかなかった。
残しておいた枯れ草は風で飛ばされ、畑の端には落ち葉が溜まっている。冬の間にも伸びる草があるらしく、地面に張りつくような小さな葉も見えた。
まず畑の端を歩いて状態を確かめる。
大きく崩れたところはなく、雨水の通り道も塞がっていない。ただ、一か所だけ土が寄って浅くなっていたので、後で直すことにした。
しゃがんで土を手に取ると、表面は乾いていても少し掘れば湿っている。
「まだ早いかな……」
無理に耕せば土が固まってしまいそうだ。もう少し暖かくなってからの方がよさそうだが、今のうちにできる作業もある。
俺は農具を持ち直し、畑の端から作業を始めた。
枯れた茎を集め、根の残った草を抜き、寄った土を少しずつ戻していく。久しぶりでも、身体はやり方を覚えていた。
どこに足を置けば土を崩さずに済むか、どの辺りに水が溜まりやすいか。何年も使ってきた畑なので、考える前に手が動くことも多い。
途中、小さな草を抜こうとして手が止まった。
地面に張りつくように葉を広げた、見覚えのある草だった。
「……これ」
モレルさんと調べた草に似ている。
葉の根元を覗き込んでみたが、同じ種類かどうかまではわからなかった。あの人なら、ここでしゃがみ込んで紙に何か書き始めるんだろうな。
そう思うと、少し笑ってしまう。もっとも、今の俺も似たようなことをしている。
「……仕事しよう」
草を抜いて脇へ置き、作業に戻った。
◇
昼前になると、少し汗をかいていた。
農具を置いて腰を伸ばすと、思っていたより広い範囲を片づけている。まだ畑の全部には手をつけていないが、枯れ草を取り除いた場所では土がよく見えるようになった。
去年の秋、収穫を終えた時もこうして畑を眺めた。
あの頃は、春になればまた種を蒔くつもりだった。畑を使うかどうかで迷ったことはなかった。
「……どうするかな」
今から準備を始めれば、今年も作物は育てられる。土の状態も悪くなく、道具も直しながら使えば何とかなるだろう。
ただ、種を蒔いた後はそうはいかない。
畑に来られない日が続けば、雨や草の始末に困る。町から通うこともできるが、往復だけで時間がかかり、仕事を休めば収入も減る。
村で暮らしていた頃は、毎日のように畑を見られた。
今は違う。
だからといって、町の仕事をやめて戻る気にもなれなかった。町には仕事があり、ギルドへ行けば新しい依頼が見つかる。またヘルムさんから声をかけてもらえるかもしれないし、モレルさんのような変わった人に会うこともある。
何より、稼いだ金で飯を食えるのが嬉しかった。
「……困ったな」
畑が嫌になったわけではない。自分の手で作物を育てるのは、今でも面白い。
ただ、町へ戻りたい気持ちもある。
考えているだけでは土は片づかない。俺は農具を持ち直し、まだ手をつけていない畑の端へ向かった。
◇
昼飯の後も少し作業を続けた。
雨水の通り道を直し、畑の端に溜まった落ち葉を集める。緩んだ柵も見つかったので、近くの木片で簡単に直しておいた。
何度か土を掘り返したが、やはりまだ湿り気が多い。
今日はこの辺りにしておこう。
畑を見渡すと、手を入れた場所とそのままの場所がはっきり分かれていた。全部終わらせるには、あと何日かかかるだろう。その後も種蒔きや草取り、水の管理が必要になる。
それを知っているから、簡単に「今年もやる」とは言えなかった。
家へ戻り、農具についた土を落とす。柄の細くなったものは握りにくかったが、作業ができないほどではないので、そのまま使った。
この家には、まだ使えるものがいろいろ残っている。
農具も、鍋も、机も、椅子も。父さんと母さんがいた頃から使っているものもある。
両親が亡くなってから、俺はずっとここで暮らしてきた。失敗しながらも、道具を直し、収穫を得て、冬を越してきた。
農具を元の場所に戻し、土間に落ちた土を掃く。
今すぐ使う予定がなくても、汚れたまま置いていくのは嫌だった。
◇
翌日も、朝から家の周りを片づけた。
昨日直した窓はまだ少し引っかかるものの、開け閉めできる。水の溜まりやすい場所を見て回り、風で寄せられた枯れ枝も集めた。
畑は、今日も土の様子を見るだけにした。
ここまでやっておけば、しばらくは大丈夫だろう。
……たぶん。
春になれば草は伸びる。畑を使うにしても使わないにしても、いつかは手を入れに来なければならない。
家の中へ戻り、持ってきた荷物をまとめる。
予定より早いが、明日は町へ戻ろうと思う。春の準備にはまだ早く、ここで何日過ごしても、今すぐできることは少ない。それより町で仕事をしておきたかった。
とはいえ、畑のことは決まっていない。
収穫したものを保存して食べていた頃なら、今年も同じようにすればよかった。でも、町で働けば金を稼いで食料を買える。食堂で飯を食べることもある。
畑で作ったものと、働いて買ったもの。どちらがいいのか考えてみたが、答えは出なかった。
「……うまいものが食えればそれでいいんだけどな」
我ながら、あまり役に立たない答えだった。
◇
翌朝、家を出る前にもう一度畑を見に行った。
昨日とほとんど変わらない。当たり前だ。一晩で何かが大きく変わる時期ではない。
土を少し触り、端に寄っていた小石を拾って脇へ置く。それから家の周りを一周した。
屋根、壁、窓、戸締まり。
荷物はまとめ、火も消してある。傷みそうな食料も片づけた。
扉を閉め、鍵をかける。
しばらくその場に立っていたが、忘れ物は思いつかなかった。
「じゃあ、また」
誰に言うでもなく呟き、村を出た。
道の途中で振り返っても、もう家は見えなかった。
◇
アルネへ戻ったのは、夕方になる少し前だった。
町の門をくぐると、人の声や荷車の音が一度に増える。村から戻ったばかりのせいか、最初は騒がしく感じたが、歩くうちに慣れてきた。
宿へ着くと、ボノさんが帳場にいた。
「おう。戻ったか」
「はい。ただいま戻りました」
「思ったより早かったな」
「家と畑を見てきました。まだ本格的に準備するには早そうだったので」
「そうか」
ボノさんは預けていた荷物を出してくれた。
「部屋は?」
「またお願いします」
「おう」
いつもの部屋へ荷物を運び、ひと息つく。
村の家とは違って、ここは狭い。置いてあるものも少なく、床も少し軋む。
それでも、荷物をいつもの場所へ置くと、何となく落ち着いた。
……こっちにも慣れたんだな。
その日は町で夕飯を食べ、早めに休んだ。久しぶりの畑仕事で、思ったより身体が疲れていたらしい。
◇
翌朝、ギルドへ向かった。
数日空けただけなので、特に変わったことはない。掲示板にはいつものように依頼が並び、受付ではセラが書類を整理していた。
「あ、ライアスさん。お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「村の方はどうでした?」
「家は大丈夫でした。畑も、少し片づけてきました」
「それはよかったです。今日はお仕事を?」
「はい。何かできそうなものがあれば」
セラは頷き、掲示板の方を示した。
「今朝もいくつか出ていますよ。急ぎでなければ、ゆっくり見てください」
「ありがとうございます」
掲示板へ向かおうとしたところで、奥から聞き覚えのある声がした。
「だから、そんなに広い場所じゃなくていいんだよ」
……ん?
「草を何種類か育てて、様子を見られれば十分なんだ。あとは道具を置く場所が少しあれば」
この声は。
振り返ると、案の定、モレルさんがいた。
片手に紙の束を持ち、もう片方の手で大きさを示している。向かいのギルド職員は、少し困った顔をしていた。
「モレルさん?」
声をかけると、こちらを向いた。
「ああ、ライアス君!」
相変わらず元気だ。
「久しぶりだね。そうだ、前に調べた草なんだけど、やっぱり場所によって――」
「今日は何の依頼ですか?」
「ああ、そうだった」
やっぱり話が早い。
……いや、早くないのか。
モレルさんは紙をまとめ、こちらへ向き直った。
「ちょっと場所を探してるんだよ」
「場所?」
「うん。植物を育てて、しばらく観察できるところが欲しくてね」
前に一緒に歩いた時のことを思い出す。生えている場所によって草の形が違うと、モレルさんは言っていた。
「また草を調べるんですか?」
「そう。今度は同じところで育ててみたいんだ。土や日当たりを変えて、どうなるか見てみたくてね」
「へえ」
「でも、今のところじゃ場所が足りないんだよ」
モレルさんは困ったように笑った。
「鉢を置くだけなら何とかなるんだけど、地面に直接植えたいものもあるし、しばらくそのままにしておきたいものもある。できれば人があまり出入りしないところがいいんだけど」
「町の外じゃ駄目なんですか?」
「勝手に使うわけにはいかないだろう? 誰かの土地かもしれないし、通り道になっているところもあるからね」
「それで、借りられる場所を探してるんだ」
「見つからないんですか?」
「いくつか聞いてみたけど、なかなかね」
モレルさんは紙を一枚めくった。
「畑を借りるには広すぎたり、いい場所はもう使われていたり。何より、思ったよりお金がかかるんだ」
「そうなんですね」
「草を育てるために、そんなに立派な場所はいらないんだけどなあ」
モレルさんは首を傾げた。
「雨の日に道具を置ける場所も欲しいし、できれば水も使えた方がいい。空いている家と小さな畑でもあれば十分なんだけど、そう都合よくはいかないよね」
……家と畑。
俺は、昨日までいた村の、家や畑のことを思い出した。
いや、話の途中でもう頭には浮かんでいた。
片づけたばかりの畑。
まだ使える道具。
誰もいない家。
「……家と畑ならありますけど」
モレルさんが顔を上げた。
「は?」




