第53話:春になる前に
モレルさんの調査に付き添ってから、しばらく経った。
あれからも町の仕事をいくつかこなし、時々は外へ出ていたが、幸い魔物と遭遇することはなかった。
何度か道端の草が気になったことはある。
ただ、あの人と一日歩き回って以来、しゃがんで葉の形を確かめることまではしていない。そこまで始めたら、仕事に行く途中で何度も足が止まりそうだ。
最近は、朝の冷え込みも少し緩んできた。
日陰にはまだ霜が残る日もあるが、昼間に外を歩いていると、上着が少し暑く感じることがある。日が沈むのも遅くなり、仕事帰りに明るい道を歩ける日が増えていた。
そんなある日、ギルドへ入るとセラに呼び止められた。
「ライアスさん、ちょっといいですか?」
「はい。何かありました?」
「ライアスさんに声をかけてほしいという方がいらしていて」
……またモレルさんだろうか。
「植物の調査ですか?」
「いえ、今回は違いますよ」
セラが笑った。
「ヴァレン商会の方です」
「ヴァレン商会?」
聞き覚えのある名前だった。
以前、ベルドまでの往復便に同行した商会だ。
「ヘルムさんがいらっしゃってます。ライアスさんが空いているなら、お願いしたい仕事があるそうです」
「ヘルムさんが?」
思わず聞き返した。
「はい。今、お呼びしますね」
セラが奥へ声をかける。
しばらくすると、見覚えのある男が出てきた。
「おお、ライアス。久しぶりだな」
「お久しぶりです」
ヘルムさんは以前と変わらない様子で、俺の方へ歩いてきた。
「最近も仕事は続けてるんだろ?」
「はい。あちこちで、できそうなものを受けてます」
「そうか。なら、少し相談がある」
ヘルムさんは持っていた書類を受付へ置いた。
「またベルドへ荷を運ぶんだが、護衛の一人として来てもらえないかと思ってな」
「俺がですか?」
「そうだ」
前にも同じような仕事をしたことはある。
ただ、あの時はギルドの試みで参加させてもらったようなものだった。俺が行かなくても、商会の仕事に困ることはなかっただろう。
今回は違うらしい。
「前の便で、気づいたことをきちんと伝えてくれただろ。今度も周りを見て、何かあれば知らせてくれればいい」
「……はい」
「もちろん、ほかの護衛もつける。お前一人に任せるつもりはないから安心しろ」
「それは、ありがたいです」
俺一人で商隊を守れと言われても、困ってしまう。
ヘルムさんは小さく笑い、依頼書を俺の方へ寄せた。
「受けてもらえるなら助かるんだが、どうだ?」
書かれている内容を確認する。
アルネからベルドへ荷を運び、帰りの荷を積んで戻る。以前と同じような往復便だ。
報酬も悪くない。
いや、かなりいい方だと思う。
「ベルドに一泊ですか?」
「ああ。行きが一日、帰りが一日だな。前と大きくは変わらん」
「そうですか」
ベルドか。
あの町はアルネより大きく、人も多かった。初めて行った時には、周りの音が多すぎて落ち着かなかったのを覚えている。
それでも、知らない町を見るのは面白かった。
夕飯に入った食堂も、なかなかよかった。
今度行くなら、別のものも食べてみたい。
「出発はいつですか?」
「来週だ。荷の準備もあるから、今のうちに人を決めておきたい」
差し出された依頼書の日程を確認する。
出発日、ベルドでの一泊、帰着予定日。
どれも問題なさそうだった。
「……あ」
そこで、ふと気づいた。
来週。
「どうした?」
ヘルムさんに聞かれる。
「いえ、ちょっと……」
依頼書をもう一度見る。
間違いない。
そろそろ、あの時期だ。
「すみません。少し考えてもいいですか?」
ヘルムさんは意外そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「もちろんだ。明日中に返事をもらえれば助かる」
「わかりました」
「予定が合わないなら無理に受けなくていい。ほかの人にも声をかけられるからな」
「はい。ありがとうございます」
依頼書を返し、受付を離れた。
セラが何か言いたそうにこちらを見ていたが、そのままギルドを出ることにした。
◇
外へ出てからも、しばらく依頼書の日程が頭に残っていた。
ベルドへの往復便。
報酬はいいし、仕事の内容も知っている。ヘルムさんとも顔見知りだ。
何より、向こうから声をかけてもらえた。
普段は掲示板を見て、自分にできそうな仕事を探すことが多い。向こうから名前を挙げて声をかけてもらえたことは、やっぱり嬉しかった。
なのに、すぐ返事ができなかった。
理由はわかっている。
「……畑」
思わず口に出していた。
春が来る。
村にいた頃なら、当たり前のことだった。
寒さが緩み、地面が柔らかくなってきたら、畑の準備を始める。去年使った道具を確かめ、土を起こし、種を蒔く場所を決める。
何を植えるかによって準備も違うし、天気を見ながら進めなければならない。
今年も、その時期が近づいていた。
「……どうするんだ、俺」
道の端で立ち止まる。
村の家と畑は、そのまま残してある。
秋に町へ出てきてから、一度も戻っていないわけではないが、最近は随分と間が空いていた。
冬の間は、それでもよかった。
畑で育てるものはなかったし、家にも必要なものは残してある。町で働いて、宿に泊まり、飯を食っていれば生活できた。
けれど、春になったら話は別だ。
種を蒔けば、その後も世話をしなければならない。
芽が出たかどうかを確かめ、草を抜き、水が足りなければ気にかける。放っておいて育つものもあるが、何でもそううまくいくわけではない。
アルネで仕事をしながら、村の畑も続けられるだろうか。
村まで片道半日。
行って帰ってくるだけでも、ほとんど一日が終わる。
何日も続けて畑に出る必要がある時期なら、町の仕事は受けられなくなる。
……あれ?
そもそも、今年も今までと同じように畑をやるつもりだったのか?
そこまで考えて、足が止まった。
考えたことがなかった。
◇
宿へ戻ると、ボノさんが帳場にいた。
「今日は早いな」
「ちょっと、仕事のことで考えることがありまして」
「そうか」
それ以上は聞いてこない。
俺も何となく話しそびれ、そのまま部屋へ戻ろうとした。
けれど、階段へ向かいかけたところで足を止めた。
「あの、ボノさん」
「何だ?」
「何日か町を空けることになったら、荷物って預かってもらえますか?」
ボノさんがこちらを見る。
「いつもの荷物か?」
「はい。全部持っていくのは大変なので」
「構わんぞ」
あっさりした返事だった。
「ただ、まだいつ行くか決めてないんですけど」
「なら決まってから言え」
「……そうですね」
まったくその通りだ。
俺は頭を下げ、今度こそ部屋へ戻った。
ベッドに腰を下ろし、財布を取り出す。
中身を確かめてみる。
町に来たばかりの頃は、銀貨一枚を使うにも随分と考えた。鑑定で使った銀貨五枚を取り戻すのが、最初の目標だった。
それから仕事を続け、道具を買い、時には少しいい飯も食べた。
もちろん、毎日稼げるわけではない。
宿代も食費もかかるし、何日も仕事がなければ困ることになる。
それでも今は、数日休んだくらいですぐに食べられなくなるわけではなかった。
財布の中身を確かめ、もう一度しまう。
ベルドの仕事を受ければ、さらに余裕ができる。
報酬がいいのだから、当然だ。
ただ、帰ってきてから村へ向かうと、畑の様子を見るのはもう少し先になる。
別に、それで必ず困るとは限らない。
今年はまだ土が冷たいかもしれないし、春の準備には早すぎるかもしれない。
逆に、思っていたより暖かくなっていて、急いで始める必要があるかもしれない。
どちらにしても、一度見てこなければわからない。
「……先に帰るか」
そう呟いてみる。
口に出したところで、少し惜しくなった。
ベルドへ行きたい。
仕事もしたい。
ヘルムさんに名前を覚えてもらえていたのも嬉しかった。
断るのは、やっぱりもったいない。
しばらく考えてから、俺は窓の外を見た。
まだ明るい。
少し前なら、もう薄暗くなっていた時間だ。
村の畑も、そろそろ土が乾き始めている頃だろうか。
今のうちに見に行けば、何をどうするか考えられる。
……考えられるだけかもしれないけど。
◇
翌朝、ヴァレン商会の荷を扱う場所へ向かった。
以前の往復便で来たことがあるので、道は覚えている。
建物の前には荷車が止まり、何人かが荷物を運んでいた。ヘルムさんは積み荷の数を確認しているところだった。
俺に気づくと、手を上げた。
「おお、ライアス。返事か?」
「はい」
「どうだ、来られそうか?」
少し迷った。昨日から何度も考えていたのに、いざ口にすると惜しさが残る。
「……すみません。今回は、やめておこうと思います」
「そうか。何か予定があったか?」
「村へ戻ろうと思っていて。家と畑があるんです。春になる前に、一度様子を見ておきたくて」
「ああ、なるほどな」
ヘルムさんは依頼書を閉じた。
「それなら仕方ない。また別の者に頼むよ」
「せっかく声をかけてもらったのに、すみません」
「謝ることじゃない。都合が合わないこともある。また頼むこともあるだろう。その時に空いてたら頼む」
「はい。その時は、ぜひ」
「よし。じゃあ、気をつけて帰れよ」
「ありがとうございます」
ヘルムさんは荷物の確認へ戻っていった。
俺も頭を下げ、商会の建物を離れた。通りへ出てから振り返ると、ちょうど荷車へ箱が積み込まれていた。
あれがベルドへ行く荷なのかはわからない。
ただ、見ていると少し羨ましくなった。
◇
ギルドへ寄り、セラにも依頼を断ったことを伝えた。
「そうでしたか。ヘルムさん、ライアスさんに来てもらいたそうだったんですけど」
「俺も行きたかったんですけどね」
「何かご予定が?」
「村へ戻ろうと思ってます。畑のことがあるので」
「ああ、そういえばライアスさん、村で畑をやってたんでしたね」
「はい」
セラは掲示板の方を見た。
「何日くらい戻るんですか?」
「まだ決めてないんです。家の様子も見たいので」
「そうですか。では、戻ってきたらまた声をかけてくださいね」
「はい」
掲示板には、今日もいろいろな依頼が貼られていた。
倉庫の整理、荷物運び、町の外の見回り。
今なら受けられそうなものもある。
「今日はどうします?」
セラに聞かれ、近場で終わる仕事を一つ選んだ。
今日はまだ半日ある。村へ帰るのは明日にしよう。今から働けば、道中の食費くらいは稼げるだろう。
依頼票を受付へ持っていく。
「これ、お願いします」
「はい。準備しますね」
セラが書類を取り出す。
俺は財布の中身を思い浮かべた。
さっき断った仕事の報酬と、今日の仕事の報酬。比べるまでもない。
……ベルドの飯、食べたかったな。




