第50話:戦う前にできること
作業小屋で板を倒してから、三日が経った。
耳は翌朝にはいつもの調子に戻っていた。念のため町の中の仕事を一日挟んだが、特に変わったこともない。
あの時は少し焦った。
普段なら拾える気配が途切れるというのは、思っていたより落ち着かないものだった。耳が元に戻ってからもしばらく気になっていたが、今は普通に暮らせている。
そんなわけで、今日はまた町の外だ。
「ライアス、こっちだ!」
ギルドの入口で荷車を眺めていると、デインが大きな声で呼んだ。
今日の仕事は、町から少し離れた作業場へ食料や道具を届ける荷運びの手伝いだ。護衛も兼ねる依頼で、《緑の風》の四人と一緒に行くことになった。
「おはようございます」
「おう! 耳はもういいのか?」
「はい。大丈夫です」
先日のことは、もう知られているらしい。
デインの隣では、フェンが荷車の車輪を確かめていた。ガイルは御者と話していて、エルナは積み荷を留めている縄を見ている。
「そっちの荷を頼めるか」
ガイルに言われ、俺も最後の荷物を積むのを手伝った。
干した豆の袋や塩の入った箱、修理用の道具がいくつか。見た目より重いものもあって、荷台の奥へ押し込むだけで結構力を使う。
「これで全部だな」
ガイルが荷を確認してから、御者へ声をかけた。
馬が動き出し、荷車がゆっくりと進み始める。
俺はその横について歩いた。
◇
町から離れるにつれて、道は少しずつ細くなっていった。
左右には枯れ草が広がり、ところどころに低い木が生えている。冬になって葉が落ちたおかげで見通しは良くなっているが、枝が重なった場所は奥まで見えない。
先頭を歩くフェンが、時々足を止めて道の様子を確かめていた。
「今日はそんなに悪くなさそうっすね」
「昨日まで雨もなかったしな」
ガイルが答える。
ただ、日陰にはまだ霜が残っていた。
馬が踏むたびに固い土がこつこつと響くところもあれば、日当たりのいい場所では柔らかくなった土が靴の裏につくところもある。
しばらく歩いていると、道の先から小さな気配が伝わってきた。
ぱき、と枝の折れる音。
その後に、草を踏む音が重なる。
俺は顔を上げた。
「ガイルさん。少し先に何かいます」
ガイルがすぐにこちらを見る。
「どっちだ?」
「右の林です。こっちへ向かっているというより、道を横切ろうとしているような……」
もう一度意識を集中する。
重なった足取りが、右から左へ移動していた。
「一匹じゃないですね。二匹……だと思います」
「止めよう」
ガイルが御者に声をかけ、荷車が止まった。
フェンが道の先を見てから、俺の方へ振り向く。
「どの辺っすか?」
「向こうの大きな木の、もう少し先です」
「ちょっと見てきましょうか?」
「いや、ここで待つ」
ガイルがそう言った。
「横切るだけなら、わざわざ近づくこともない」
俺たちは荷車を道の端に寄せ、しばらく様子を見ることになった。
足取りは少しずつ左へ移っていく。途中で草を揺らす気配がして、木の間に黒っぽいものが見えた。
大きな獣だった。
狼に似た姿をしているが、俺が村で見たことのある狼より一回り大きい。もう一匹も、その後ろについて歩いていた。
「魔物っすね」
フェンが声を落とした。
二匹は道を横切り、そのまま向こう側の林へ入っていった。
俺は周囲の気配を探る。
足取りが少しずつ遠ざかり、やがてほかの物音に紛れてわからなくなった。
「もう離れたみたいです」
「よし。ただし、しばらくは警戒して進むぞ」
ガイルの言葉に、みんなが頷いた。
荷車が再び動き出す。
今回は遭わずに済んだ。
やっぱり、危ないものがいるとわかっているなら、近づかないのが一番だと思う。
◇
そこからしばらく進むと、道は山裾に沿って曲がり始めた。
左側には土の斜面が迫り、右側には浅い水路のような溝が続いている。人がすれ違うくらいなら問題ないが、荷車が通ると、横に残る場所はあまり広くない。
「ここから先、少し狭いっすよ」
フェンが後ろへ声をかけた。
「車輪を右へ寄せすぎないでください」
御者が頷き、馬の歩みを緩める。
俺は荷車の後ろ側へ回った。
道の真ん中には古い轍が残っていて、その一部に水が溜まっている。表面は固く見えるのに、踏むと靴が少し沈むところもあった。
車輪はゆっくりと轍を越えていく。
もう少しで抜けるというところで、突然、荷車が大きく傾いた。
「うおっ!」
御者が手綱を引く。
右側の車輪が、泥の中へ沈んでいた。
馬が前へ進もうとするたびに荷車が軋むが、車輪は少し回るだけで持ち上がらない。
「止めろ。無理に引くな」
ガイルが言った。
俺たちは荷車の周りへ集まった。
車輪の下を覗くと、轍の底が崩れて泥が押し出されている。表面の固い土が車輪の重さで割れたらしい。
「こいつは面倒だな」
デインが腕を組む。
「荷を少し降ろすか」
「その方がよさそうだ」
ガイルと御者が話し合い、俺たちは荷車の後ろへ回った。
縄をほどき、重い箱から順に下ろしていく。
けれど、道が狭くて置き場所が少ない。斜面の側に寄せようにも足場が悪く、荷物を積み上げるわけにもいかなかった。
「こっちの袋、持てますか?」
エルナに声をかけられ、俺は豆の袋を受け取った。
「あ、はい」
袋を抱えて運んでいると、また気配を感じた。
最初は荷車の軋む音かと思った。
だが、違う。
遠くで草を踏む音がする。
俺は袋を下ろした。
「……待ってください」
ガイルが顔を上げた。
「どうした?」
「何か来ます」
その場にいた全員の動きが止まった。
俺はもう一度意識を集中した。
さっきとは違う。
今度は道を横切るのではなく、こちらへ向かってくる気配だった。
「右前の林の方からです。……二匹います」
「さっきのやつらか?」
「そこまではわかりません。でも、こっちへ近づいてます」
ガイルが道の先を見る。
フェンも身を乗り出しかけたが、俺は別の気配に気づいた。
「……あれ?」
少し離れたところで、また草が揺れる。
右前から感じている二つとは、場所が違う。
「もう一匹います。後ろの方です」
「後ろ?」
フェンが振り向く。
「はい。今来た道の、林の中です」
ガイルの表情が変わった。
「三匹か」
「少なくとも、です」
数を言い切ってから間違っていたら困る。動いていないものがいたら、俺にはわからない。
ガイルは一度、荷車を見た。
「御者、これをすぐ動かせそうか?」
「いや、まだ無理だ。荷を降ろしてからじゃないと……」
「わかった」
ガイルが周囲を見回す。
前は狭い道が続き、後ろにも魔物らしいものがいる。
荷車は動かない。
俺たちだけなら斜面を登って逃げることも考えられるが、荷車も馬も置いていくことになる。それに、林の中を走ってくる魔物から、足場の悪い斜面を逃げ切れるとも思えなかった。
「迎えるぞ」
ガイルが言った。
◇
そこからのみんなの動きは早かった。
デインが荷車の前へ回り、大きな盾を構える。ガイルは前方の道を見ながら剣を抜いた。
「エルナ、前の二匹を頼む。フェンは後ろを見ろ」
「わかったわ」
「了解っす」
フェンは腰の小さな弩を手に取り、荷車の後ろ側へ移った。
「ライアス、お前は御者のそばだ」
「はい!」
「後ろのやつが動いたら教えてくれ」
俺も棒と盾を持ち直した。
足元を見る。
荷車の周りは泥が深い。少し離れた場所には、まだ固い土が残っている。
デインがそこへ立ち、俺たちは荷車と斜面の間にできた狭い場所へ寄った。
馬が落ち着かない様子で首を振っている。御者が手綱を握り、何度も声をかけていた。
俺は周囲の気配を探った。
右前の二匹は、もうかなり近い。
後ろの一匹は少し離れていたが、こちらへ向かってくる気配がはっきりしてきた。
「前の二匹、もうすぐ見えると思います」
「わかった」
ガイルが剣を構え直す。
俺の心臓も、どんどん速くなっていた。
魔物と戦うことになったのは、これが初めてではない。けれど、慣れたとはとても言えなかった。
できれば、今からでもどこかへ行ってほしい。
そう思っている間にも、足取りは近づいてくる。
「右のやつ、少し速くなりました!」
言い終わるのとほとんど同時に、木の間から黒っぽい獣が飛び出した。
続いて、もう一匹。
最初に道を横切った魔物とよく似ていたが、同じものかどうかはわからない。
二匹は一度立ち止まり、こちらを見た。
唸り声が響く。
デインが大きな盾を地面につけた。
「来い!」
大声を出す必要があるのかはわからないが、本人はずいぶんやる気らしい。
その声に反応したのか、一匹がこちらへ駆け出した。
エルナが杖を向ける。
魔物の足元で土が盛り上がり、走っていた獣が大きく体勢を崩した。
そこへガイルが踏み込む。
剣が振り下ろされ、獣が短く声を上げた。
もう一匹はデインの方へ向かった。
盾にぶつかる鈍い響きがする。
デインが身体を低くして受け止め、短い槍で追い払うように突いた。
俺はそちらへ目を向けかけたが、後ろから新しい気配がした。
「フェンさん! 後ろも来ます!」
「見えたっす!」
振り向くと、林から三匹目が姿を現していた。
そいつは荷車の後ろ側へ回り込もうとしている。
フェンの弩が鳴った。
矢を受けた魔物は一度身体をよじらせたが、そのまま止まらずにこちらへ走ってきた。
「まずい!」
俺は御者の前に出た。
右手には棒。左腕には盾。
だが、思ったより近い。
魔物が地面を蹴った。
その瞬間、身体が動かなくなりそうになった。
逃げたい。
盾を構えているのに、目の前へ飛び込んでくる魔物を見ているだけで足がすくむ。
「ライアス、下がれ!」
横から大きな声がした。
デインだった。
前の魔物を追い払ったあと、こちらへ回ってきたらしい。
俺が半歩下がると、その前へデインの大きな盾が入った。
魔物が盾にぶつかり、跳ね返る。
「ガハハ! そっちは通さんぞ!」
デインが槍を突き出す。
魔物は身をひるがえし、林の方へ逃げた。
フェンが追おうとしたところで、ガイルが声をかける。
「追うな!」
前の方を見ると、一匹は倒れていて、もう一匹も斜面の奥へ逃げていくところだった。
俺たちはしばらく、その場から動かなかった。
風が枯れ草を揺らす。
遠ざかっていく足取りが伝わっていたが、もうこちらへ向かってくる気配はない。
「……行ったみたいです」
そう言うと、ガイルがようやく剣を下ろした。
◇
魔物がいなくなってから、しばらく休憩することになった。
御者は馬を落ち着かせ、エルナは荷物が散らばっていないかを確かめている。
俺は荷車の横へ腰を下ろした。
手が少し震えていた。
左腕の盾を外してみたが、今度は変な気配も感じない。耳もいつもの調子だった。
ただ、戦っている間は、馬の声やみんなの声、武器の音まで重なって、何がどこから聞こえてくるのか途中から追えなくなっていた。
目の前のことで精一杯だった。
「大丈夫っすか?」
フェンが隣へ来た。
「はい。怪我はしてないです」
「それはよかったっす」
フェンは俺の隣にしゃがむと、林の方を見た。
「それにしても、三匹いるって先にわかったのは助かったっすね」
「助かった?」
「先にわかったことっすよ。二匹しかいないと思ってたら、後ろを空けてたかもしれないっす」
「ああ……」
確かに、フェンは最初から後ろを見て待ち構えていた。
「いつもなら、俺が確認に行くこともあるんすけどね」
「そうなんですか?」
「でも今日は、ライアスがどっちから何匹来るか教えてくれたじゃないっすか。だから、あそこで弩を構えて待てたんすよ」
フェンは立ち上がり、荷車の後ろへ回っていった。
入れ替わるようにガイルがやってくる。
「耳はどうだ?」
「大丈夫です。今回は問題ないです」
「ならよかった」
ガイルは荷車を見てから、俺に聞いた。
「さっき、最初の二匹を避けただろ」
「はい」
「一人で歩いてるなら、ああやって危ない場所を避けるのが一番だ。俺たちだって、避けられるならそうする」
「そうですよね」
「だが、今日は荷車が動かなかった」
「はい……」
俺は泥にはまった車輪を見る。
「もう少し早く、ここが危ないってわかっていればよかったんですけど」
「それはフェンでも見落とすことがある。道の下まで見えるわけじゃないからな」
ガイルは苦笑した。
「それに、今回お前が教えてくれたおかげで、俺たちは準備できた」
俺は顔を上げた。
「前から二匹、後ろから一匹。それがわかったから、デインを前に置いて、フェンを後ろへ回せた。エルナも魔法を使う場所を決められた」
「……そうですね」
「いきなり飛び出してきたら、あんなふうには動けなかったぞ」
そう言われて、さっきのことを思い返した。
確かに、魔物が現れた時には、みんなもう武器を構えていた。
デインは盾を地面につけて待っていたし、フェンも最初から後ろを見ていた。
俺はほとんど何もできなかったと思っていた。
いや、実際に戦っている間は、たいしたことはしていない。
それでも、みんなが戦う前にできたことはあったらしい。
「ま、できれば避けたかったですけどね」
俺が言うと、ガイルが笑った。
「俺もだ」
「ガイルさんでもですか?」
「そりゃそうだ。魔物と戦うより、無事に荷を届けた方がいいに決まってる」
それを聞いて、少し安心した。
◇
荷車を動かせるようになったのは、それからしばらく後のことだった。
下ろせる荷物をいったん外へ運び、車輪の下へ木材を差し込む。デインとガイルが後ろから押し、御者が馬を少しずつ進ませた。
俺も押すのを手伝ったが、泥に足を取られて危うく転びそうになった。
「無理するなよ!」
デインに言われる。
「してないです!」
「今のはしてただろ!」
反論しようとしたところで、荷車が大きく揺れた。
車輪が泥から抜け、固い道の上へ戻る。
「よし!」
御者が声を上げた。
みんなで荷物を積み直し、縄を締める。馬も落ち着いたようで、再び荷車を引き始めた。
作業場へ着いた頃には、予定よりだいぶ時間が経っていた。
荷物を降ろし終えると、俺はその場に腰を下ろしてしまった。
戦うのも怖かったが、あの荷車を押すのも大変だった。明日はきっと腕が痛くなる。
「ライアス」
フェンに呼ばれて顔を上げる。
「帰りも耳、頼むっすよ」
「ええ。もちろんです」
「俺はまず道を見るっす」
「お願いします」
フェンが笑った。
帰りは荷がなくなった分、車輪も少し軽そうだった。
それでも、あのぬかるみへもう一度入る気にはなれない。フェンが先に歩いて別の通り方を探し、みんなで荷車を慎重に進ませた。
今度は何事もなく抜けられた。
道が広くなったところで、俺はもう一度、周囲の気配を探ってみた。
今のところ、近づいてくるものはなさそうだ。
「大丈夫そうです」
そう伝えると、ガイルが頷いた。
「なら、行こう」
馬が歩き出す。
荷車の車輪が、固い地面をゆっくりと回っていた。




