第37話:近づかせない
革紐を付けてから、棒を持ち歩くのはかなり楽になった。
町の中では背中へ回しておけば両手が空くし、仕事中に置き場所を探す必要もない。
狭い場所ではまだ引っかけそうになるが、少なくとも毎回「どこへ置こう」と考えることはなくなった。
その日も仕事を終えてギルドへ戻ると、裏の練習場へ寄った。前に教えてくれた男はいなかったので、一人で覚えている動きを繰り返す。
棒を前へ出す。戻す。足を動かして、もう一度。
前より的を外す回数は減った気がする。ただ、横へ払う時はどうしても強く握ってしまう。
的に当たる。乾いた音がした。
以前なら音が気になって、同じ場所をもう一度叩いていただろう。
だが今日は、先に棒を戻した。
まずは練習だ。
そう思って構え直した時、後ろから声がした。
「握りすぎだ」
振り返ると、ギルドマスターが立っていた。
「またですか」
「また?」
「前にここで教えてもらった時と、ダンさんにも言われました」
「二人に言われて、まだ直ってねえのか」
「直してる途中です」
ギルドマスターは鼻で笑い、俺の手元を見た。
「途中ってのは、便利な言葉だな」
「便利ですけど、嘘ではないです」
「そうかい。なら、もう一回やってみろ」
「教えてくれるんですか?」
「見るだけだ」
言われた通り、さっきより力を抜いて横へ払う。的には当たったが、当たる瞬間にまた強く握ったのが自分でも分かった。
「それだ」
「……どれですか?」
「当たる直前に握り過ぎている」
自分の手を見る。
「でも、緩く持ったら飛んでいきません?」
「誰が緩く持てって言った。必要以上に握るなって言ってんだ」
「違うんですか?」
「違う」
ギルドマスターが手を出したので、棒を渡す。
握った位置は俺と大きく変わらない。それなのに、持った瞬間から妙に安定して見えた。
「こういうのは、ずっと全力で握り締めて使うもんじゃねえ。動かす時まで固めてたら、自分で動きを狭めちまう」
そう言って、軽く棒を前へ出す。速くもなく、的に当ててもいない。それでも先端はまっすぐ動き、すぐ元の位置へ戻った。
「力入れてないように見えますね」
「入れてるよ。必要な分だけな」
棒を返され、真似してみる。軽く握って前へ出すと、頼りなく感じて途中で力が入った。
「ほら、また握ったぞ」
「怖いんですよ」
「何が」
「落としそうで」
「落としてから考えろ」
「それは嫌です」
「だったら落とさねえ程度を覚えろ」
必要な分だけ力を入れる。その加減を覚えるしかないらしい。
力を抜くことは、棒を手放すことではない。
そう頭では分かっていても、体はまだ、強く握ることでしか安心できなかった。
◇
何度か繰り返していると、ギルドマスターが俺の足元を見た。
「それで、何で毎回そんなに振ってんだ?」
「払う練習なので」
「お前、それで何したいんだ」
以前にも似たことを聞かれた気がする。
「近づかれた時に、逃げる時間を作りたいです」
「なら、毎回ぶっ叩く必要ねえだろ」
少し考える。
「でも、猪の時は叩きましたよ?」
「それで逃げられたんだろ?」
「はい」
「じゃあ、次も同じことするのか?」
答えに詰まる。ギルドマスターが棒の先を軽く押した。
「相手を倒したいなら、当て方も振り方も覚えろ。でも、お前がやりたいのは、まず近づかれねえことなんだろ」
「そうです」
「だったら前に置け。寄ってきたら押せ。横へ回り込まれそうなら払え。最初から殴ることだけ考えんな」
猪と向き合った時のことを思い出す。
最初にやったのは、叩くことではなかった。枝を前へ出した。あれで止まらなかったから、次に振ったのだ。
その順番を、俺はいつの間にか逆にしていた。棒を持ったら当てるものだと思い込み、近づかせないための道具だということを忘れていた。
「……確かに」
「忘れてたのか?」
「練習だと、的に当てることばっか考えてました」
「的は襲ってこねえからな」
その通りだった。目の前の的に当てることへ集中するうちに、何のために棒を持ったのかを忘れていたらしい。
倒すことより、近づかせないこと。その方が、今の俺にはずっと大事だった。
◇
ギルドマスターは練習場の端にあった木の板を持ってきて、自分の前へ立てた。
「いいか。俺を殴るなよ」
「それは殴れっていうフリですか?」
「いや、殴るなって言ってるだろうが」
念を押され、棒を構える。
「こっちから向かって行くから、俺を近づけないようにしろ」
ギルドマスターが板を前へ出しながら歩いてくる。思わず棒を振り上げた。
「殴るんじゃねえって言っただろ」
「あ」
すぐに戻し、今度は棒を横にして前へ出す。板に当たると、そのまま押されて俺も一歩下がった。
「足、止まってるぞ」
言われて、さらに一歩下がる。
的を叩く時は、そこまで自分が近づけばよかった。けれど今は向こうから距離を詰めてくる。棒を間に置いただけでは止まってくれない。
押されれば下がる。横へ動かれれば、そちらへ棒を向け直す。
「こうですか?」
「そんなもんだ。相手が本気なら、もっと押されるけどな」
今度はギルドマスターが少し横へ動く。腕だけで棒の向きを変えようとすると遅れたので、足も動かして正面を合わせる。
何度か繰り返しているうちに、猪の時のことを思い出した。
あの時も、最初から叩こうとしたわけではない。ただ近づかれたくなくて、自分と猪の間へ枝を出した。
「こういう使い方もあるんですね」
「棒なんだから、使い方なんて一つじゃねえよ」
ギルドマスターは板を元の場所へ戻しながら言った。
さっき棒を持った時もそうだったが、ギルドマスターは棒を動かす時に迷わない。
押す時も、向きを変える時も、足が自然についてくる。
俺とはずいぶん違った。
「ギルドマスター、こういう武器使ってたんですか?」
「何でそう思う?」
「慣れてる気がするので」
「長く生きてりゃ、色々やる」
それだけ言うと、ギルドマスターは建物へ戻っていった。
「続けるなら、力入れすぎんなよ」
「はい」
「あと、音ばっか聞いて手ぇ止めんな」
足が止まった。
「見てたんですか?」
「見たくなくても目立つんだよ、お前」
そう言って、中へ入っていった。
◇
一人になってから、もう一度棒を構えた。
今度は的を殴る前に、棒を前へ出す。そこから右へ、左へ動かし、足も合わせる。
地味だった。的を叩く音もしないし、上手くできているのかも分からない。
それでも、猪に出会った時に欲しかったのは、たぶんこの動きだった。
倒すための力ではなく、近づかせないために距離を置く動き。
そう考えると、棒を持つ手に必要なのは、ただ強く握ることではない気がした。
怖さで固めるのではなく、相手の動きを見て、必要な分だけ動かす。
その感覚はまだ曖昧だったが、少しだけ先が見えた気がした。
最後に一度だけ、的を軽く叩いた。
前より力を抜いたせいか、返ってきた音も少し違って聞こえる。握り方のせいか、当たった場所のせいかは分からない。
少し気になったが、今日はそのまま棒を背中へ回した。
音の違いを確かめるより、まずはまともに扱えるようになる方が先だった。




