第32話:魔物だけが危ないわけじゃない
翌朝、家を出る前に畑をもう一度見て回った。
昨日少し手を入れたばかりなので、急いでやることはない。
戸締まりを確認し、ギルドへ持ち帰る返事の手紙を鞄へ入れる。
次に戻ってくるのがいつになるかは、まだわからない。それでも、前ほど気にならなくなっている自分に気が付いた。
アルネで仕事をして、必要になったらまた戻ればいい。村のこの家しかなかったのに、今はアルネにも居場所があるということだろうか。
少し不思議に思いながら、たぶんちょっとだけ嬉しく感じながら村を出る。
◇
昨日のことがあったので、今日はいつもより周囲の音を意識しながら歩いていた。
鳥が鳴いている。草の中では小さなものが動いているのがわかる。木の上から何かが落ち、葉に当たる音もした。
一つずつ聞こうとすると、思っていた以上に色々な音がある。
「これを全部気にしてたら疲れるな……」
思わず口に出した。
前に見張りの仕事で耳を使いすぎた時、頭が痛くなったことを思い出す。
ずっと耳を澄ませ続けるのはやめた方がよさそうだ。
普段通り歩きながら、気になった時だけ意識する。
そのくらいでいい。
昨日より少しだけ、やり方がわかった。
◇
昼前。
道の脇に背の高い藪が続く場所へ差しかかった。
ここでも鳥は鳴いているし、虫の音もする。
特に変な感じはしなかったのでそのまま歩く。
藪のすぐ横まで来た時だった。
突然、藪の中から、低く息を吐く音がした。
近い!
そう感じた瞬間、枝と葉が一気に鳴った。
「え?」
反射的に足を止める。
次の瞬間、大きなものが藪を突き破って飛び出してきた。
猪だった。
思っていたよりずっと大きい。
茶色い体がこちらを向き、前脚で地面を激しく掻く。土が跳ね、低い唸りが腹の底まで響いた。
魔物ではない。
少なくとも、見た目は村の近くで見たことも聞いたこともある普通の猪だ。
だからといって、安心できる大きさではなかった。
「待って! ちょっと待って!!」
猪に言っても意味はない。
一歩下がる。そして猪の頭が低く沈んだ。
まずい。
そう感じた時には、もう距離が近すぎた。
いつものように別の道を選ぶ余裕はない。
◇
走るしかない。
そう決めた直後、足元近くに太い枝が落ちているのが見えた。
枝というより、折れた木の一部に近い。
考えるより先に拾い、両手で持つ。
結構重い。でも持てない重さではない。
猪が地面を蹴った。
来る!
そう感じるより早く、こちらへ突っ込んできた。
「うわっ!」
木を前へ出す。
槍のように突くつもりだったのか、ただ近づけたくなかっただけなのか、自分でもわからない。
猪の頭に当たり、手に衝撃が走った。
それでも猪は止まらない。
そのまま押され、靴底が土を削りながら何歩も後ろへ下がる。
「無理無理無理!!」
横へ逃げようとすると、猪が首を振った。
枝が弾かれる。
手から離れそうになったが、必死で握り直した。
もう一度、猪が頭を下げて迫ってくる。
本当に考えている暇なんてなかった。
今度は力任せに振った。狙った場所などない。
横から思い切り振った棒が、猪の顔の横辺りに当たった。
鈍い音がした。
猪が一瞬だけ頭を振るが、倒れない。
でも、向いていた方向が少しずれた。
逃げるなら今しかない。
すぐに走った。
道から外れすぎないようにしながら、とにかく距離を取る。
背中に追いつかれる気配がないか、足音と藪の音を必死に探る。
後ろで藪が大きく鳴った。
追ってきた。
振り返る。
猪はこちらを見ていたが、すぐには来なかった。
足を止めず、さらに下がる。猪がまた動く前に、距離を広げる。
しばらくすると、猪は鼻を鳴らし、元いた藪の方へ入っていった。
葉が大きく揺れ、その姿が見えなくなる。
俺はそれを確認してから、ようやく少しだけ速度を落とした。
それでも、十分に離れるまで歩き続けた。
◇
しばらく歩いてから、道端に座った。
息がなかなか戻らず、まだ手も少し震えていた。
持ったままだった枝を地面へ置く。
「……怖かった」
魔物と初めて遭遇した時にも、似た感覚があった。
ただ今回は、《緑の風》はいない。
俺一人だった。
怪我がないか確認する。
手のひらは少し痛いが、手袋をしていたおかげか皮が剥けたりはしていない。
転んでもいない。猪にも噛まれていない。
運がよかった。
そこで、ふと疑問が浮かんだ。
「猪の音、聞こえなかったのか?」
朝から周囲の音を意識していた。
鳥もいたし、虫も鳴いていた。音は聞こえていた。
今回はたぶん、藪の中で猪がほとんど動いていなかったせいか、近づくまで気づかなかった。
聞こえた時には、もうすぐそこだった。
耳があれば何でも早くわかるわけではないらしい。
動かなければ音は少ない。周りに色々な音があれば紛れる。
近くまで来てから聞こえても、避ける時間はほとんどない。
昨日は少しわかったつもりになっていた。
でも、それだけでは足りないんだと気付かされた。
耳を澄ませていれば安全になるわけではない。
聞こえないものもあるし、聞こえても、間に合わないことだってあるのだ。
「魔物じゃなくても、危ないことには変わりないな」
猪は魔物ではなかった。それでも十分怖かった。
◇
地面に置いた枝を見る。
かなり太い。
先ほど猪に当たったところには、少し泥がついている。
これがなければどうしていたんだろう。
逃げ切れたかもしれない。
逆に、もっと近づかれていたかもしれない。
どちらだったかなんてわからない。
ただ、あの時は武器を使ったつもりはなかった。
近づいてきたから前へ出した。もう一回来たから振った。ただそれだけだ。
装備屋へ行った時、剣を持たせてもらったことを思い出す。
重かった。
どう使えばいいのかわからなかった。
この枝だって使い方を知っていたわけではない。
でも、突き出すことはできたし、振ることもできた。
猪を倒せたわけではない。一瞬止まってくれただけだ。
それでも、その一瞬で逃げられた。
立派な剣でなくてもいい。
近づかれた時、相手との間に置けるものがあるだけでも違う。
枝を持ち上げる。
改めて見ると、別に格好よくもない。というか、本当にただの木の棒だった。
それでも、今日の俺を逃がしてくれた。
少し考えてから、そのまま持って歩き始めた。
捨てるのは、もう少し後でもいい気がした。




