第23話:左!
それからしばらくは、何も起きなかった。
さっき何かの痕跡を見つけたことで、《緑の風》の四人は少し警戒を強めているようだったが、ずっと張り詰めているわけでもない。
フェンは相変わらず何度か先へ走っていき、そのたびに戻ってきてはガイルへ報告している。
「この先も今んとこ問題なしっす」
「分かった。次の曲がりまで見てくれ」
「えー、またっすか?」
「嫌なら斥候やめるか?」
「そこまでは言ってないっす」
文句を言いながら、また走っていった。
デインがそれを見て笑う。
「ガハハハ! 今日はよく走るな!」
「今日はもう何も出ないでほしいっすよー!」
先から声だけ返ってくる。
「そういうこと言うと出るぞ!」
「やめてくださいよ!」
俺も少し笑った。
さっきまで自分の一言で馬車を止めたことを気にしていたが、今はもう少し気が楽になっている。
何か気になったら言う。その先は、あの人たちが考える。
そういう仕事らしい。
◇
森が街道の両側へ近づいた辺りで、聞こえる音が少し変わった。
馬車が進むたびに蹄や車輪の音が続き、馬具が擦れ、荷台の積荷も揺れている。そこへ俺たちの足音や話し声まで混ざる。
最初は邪魔に思えたそれらも、今はだいたい商隊が出している音だと分かるようになってきた。
その中に、別の音が混じった。
右側の森から、枝や草を押し分けながら地面を蹴る音が近づいてくる。
速い。
一つではない。
「ガイルさん」
声をかけると、すぐにこちらを見た。
「どうした」
「右です。何か来てます」
ガイルの表情が変わった。
「どのくらいだ」
もう一度聞く。
重なる足音を追おうとするが、木や草を踏む音まで混ざっていて数までは分からない。
「三……いや、分かりません。何匹かいます」
「距離は?」
「近づいてます。結構速いです」
ガイルがすぐに声を上げた。
「止めろ!」
御者が馬を止めるのと、四人が動き出すのはほとんど同時だった。
さっきまで普通に歩いていたデインが馬車と森の間へ出て盾と短槍を構え、エルナは杖を手にその少し後ろへ下がる。ガイルが剣を抜いたところへ、先を見ていたフェンも声を聞きつけて戻ってきた。
「右っすか!」
「ああ!」
俺は馬車のそばに残った。
何かあったら護衛の言うことを聞け。
何度も言われた通りにする。
「ライアス、そこから動くな!」
「はい!」
返事をした直後、森から最初の一匹が飛び出してきた。
狼に似ていた。
村の近くで見たことのある狼よりも脚が太く、特に後ろ脚が妙に発達している。
姿が見えたと思った次には、もうかなり近くまで来ていた。
速い。
デインが前へ出る。
狼に似た魔物は地面を強く蹴って飛び込み、そのまま盾へぶつかった。
鈍い音が響く。
「ぐっ!」
デインの大きな身体が少し後ろへ押された。
それでも倒れない。
盾を構えた腕と肩で勢いを受け止め、そのまま魔物を押し返す。
地面へ前脚がついたところへ短槍が伸びた。
魔物が身体をひねって逃れようとするが、盾で進路を塞がれている。もう一度突き出された槍を受け、動きが止まった。
「一匹!」
デインが叫ぶ。
倒した数を伝えているらしい。
その声とほとんど同時に、二匹目が森から飛び出した。
一匹目とは違う方向から横へ回ろうとする。
エルナが杖を地面へ向けた。
「そこ、崩します!」
魔物が踏み込もうとした場所の土がわずかに沈んだ。
大きな穴が開いたわけではない。
それでも全力で走っていた前脚が取られ、身体が傾く。
そこへガイルが踏み込んだ。
剣を振るう。
一撃で終わったわけではなく、倒れた魔物は身体をひねって噛みつこうとした。ガイルは一度距離を取り、もう一度踏み込む。
今度は動かなくなった。
三匹目がデインの横を抜けようとする。
戻ってきたフェンが小型のクロスボウを構えた。
短い音とともに飛んだ矢が、魔物の前脚近くへ刺さる。
倒すほどの傷ではなかったが、走り方が一瞬崩れた。
「デイン!」
「おう!」
デインが盾で進路を塞ぐ。
魔物は盾へ飛び込む直前に身体をひねった。
噛みつくのかと思ったが、違う。
発達した後ろ脚が跳ね上がり、盾へ叩きつけられた。
さっきより重い音が響く。
「おっと!」
デインが大きく一歩下がった。
「蹴るんですか!?」
思わず声が出る。
「蹴るぞ! ガハハハ!」
笑っている場合なのだろうか。
着地した魔物の足元が少し盛り上がった。
エルナだ。
ほんのわずかな高さなのに、着地した脚がずれる。
そこへガイルが入り、デインも短槍を突き出す。
二人で動きを止め、最後はガイルの剣が仕留めた。
三匹。
そう思ったが、森の音はまだ終わっていなかった。
戦いが始まってからは、剣や盾がぶつかる音、魔物の唸り声、怯えた馬と御者の声まで一度に聞こえてくる。何がどこから鳴っているのか、さっきまでよりずっと分かりにくい。
その中に、違う足音が混じった。
近い。
今までの三匹とは別の方向。
「左!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「もう一匹!」
ガイルが振り向くのとほぼ同時に、街道の反対側から一匹が飛び出した。
「マジっすか!」
フェンもそちらを見る。
クロスボウを上げるが、魔物の方が速い。
今度は馬車へ近かった。
デインは反対側にいて、ガイルもすぐには間に合わない。
エルナが杖を向ける。
「そ、そこ止めます!」
地面が盛り上がった。
さっきより形は雑だったが、魔物の前脚が取られて進路がずれる。馬車へ真っ直ぐ向かっていた身体が横へ流れ、そこへフェンの矢が刺さった。
「ガイル!」
「分かってる!」
ガイルが走る。
デインも遅れて回り込んできた。
二人が近づくと魔物は距離を取ろうとしたが、今度はフェンが横へ回って逃げ道を狭める。
さらにエルナが足元を崩し、方向を変えようとした魔物は動きが鈍る。
さっきまであれだけ速かったのに、動ける場所が減ると急に苦しそうに見える。
最後はデインが盾で正面から受け止めた。
動きが止まる。
そこへガイルが剣を振り、魔物は倒れた。
今度こそ、周囲から走ってくる音は聞こえない。
「他は?」
ガイルが俺を見る。
耳を澄ます。
まだ馬が荒く息をし、《緑の風》の四人も呼吸を整えている。自分の心臓までうるさく感じる。
「……分かりません。今は、来てる音は聞こえないです」
「フェン、警戒」
「見てきます」
今度は文句を言わなかった。
フェンが森側を確認しに行く。
残った三人はすぐに馬車と御者の様子を見始めた。
俺はその場で待ちながら、街道に倒れた四匹を見る。
近くで見ると、やっぱり狼に似ていた。
牙は長く、前脚も太いが、特に目につくのは後ろ脚だった。
あれで盾を蹴った音を思い出す。
一人で採取に出ている時に、これが森から飛び出してきたら。
前に言われた「逃げろ」の意味がよく分かった。
◇
フェンが戻ってきた。
「他はいなさそうっす。少なくとも近くには」
ガイルがようやく剣を下ろした。
「よし。怪我は?」
「俺は平気だ!」
デインが盾を置いて腕を振る。
平気と言いながら、何度か肩を回していた。
「結構きてるじゃないですか」
フェンが言う。
「このくらいなら平気だ! ガハハハ!」
「その判断、あんまり信用できないんすよね」
ガイルも呼吸を整えている。
エルナは杖を両手で持ったまま、少し肩で息をしていた。
さっき地面を動かしていたのは、この人だ。
「今の、魔法ですか?」
俺が聞くと、エルナがこちらを向いた。
「あ、はい。土魔法です」
「地面をちょっと動かしてましたよね」
「大きく動かすより、走ってるところを少し崩した方が楽なので」
エルナは倒れている魔物を見る。
「あの魔物、脚が速いので。止まってくれればガイルさんたちが倒せますから」
確かにそうだった。
あの速さのまま剣で追い回していたわけではない。
デインが止め、エルナが足場を崩し、フェンが動く先を狭める。
そうして動きが鈍ったところを、ガイルが仕留める。
一人だけを見ている時には分からなかったが、四人の動きはちゃんと繋がっていた。
「土魔法って、こういう使い方もできるんですね」
「あ、はい。大きな壁を作ったりするより、今みたいな相手には少し地面を崩す方が使いやすくて……」
「なるほど」
エルナはそこで少し黙った。
まだ何か言いたそうだったので待っていると、小さな声で続ける。
「……でも、《緑の風》なのに私、《土魔法適性》なんです」
「はい?」
何を気にしているのか分からなかった。
フェンが横から口を挟む。
「またそれ気にしてるんすか」
「気にします」
「誰も気にしてないっすよ」
「私は気にしてます」
デインが大きく笑った。
「ガハハハ! まだ言ってたのか!」
エルナは少し不満そうだった。
俺には何が問題なのか、最後までよく分からなかった。
◇
倒した魔物をそのまま街道へ置いていくわけにもいかず、《緑の風》とヘルムが相談して後始末を始める。
俺は邪魔にならないよう馬車のそばにいた。
さっきの戦いを思い返す。
俺がしたのは、最初に右から何か来ると伝えたことと、途中で左からもう一匹来たのを知らせたことだけだった。
あとは全部、《緑の風》がやった。
それでも左から来た一匹に誰も気づいていなかったら、馬車の近くまでそのまま来ていたかもしれない。
フェンも周囲を確認していた。
ガイルたちもいた。
俺だけが全部を見つけられるわけではないし、逆にあの人たちがいなければ、俺には気づいても何もできなかった。
後始末が終わり、再び馬車が動き始める。
《緑の風》の四人は、さっきまで魔物と戦っていたのに、もうそれぞれの位置へ戻っていた。
俺も馬車の横へ戻る。
しばらく歩いていると、いつもの車輪の音が続いていることに少し安心した。




